怪物公女の母でしたが、子煩悩な竜人皇子様と契約再婚致します
20 エリーンの危機
アレクシスは、絶望した顔で泣き叫ぶマリアンヌの顔を見て興奮していた。
あぁ……そうだ……この顔だ……!
私の心が満たされる。
マリアンヌ……君の涙はなんて美しいのだ……。
***
――離婚式の前日、地下牢の実験室に現れたフィリップ皇子は驚くべき提案をしてきたのだ。
「私の可愛いカレンが、両親を救って欲しいって言うから来てみたんだけどさ。お前、本当に面白い男だねぇ。この二人、王城に連れて行くけど、文句ないよねぇ?」
アレクシスが言葉を詰まらせる。
「うっ……。そ、それは……」
「う~ん…このままカレンの両親だけ貰うのも気が引けるから…私と取引しない?」
「取引……ですか?」
フィリップ皇子はニヤリと笑った。
「私も鬼ではないから今見た事は父上には黙ってあげる。それに…微弱とはいえ2人も異能者を貰うんだからさ、何かプレゼントしないとねぇ」
アレクシスが呆然としていると、フィリップ皇子は二つの魔道具を見せた。
「これは、通信魔道具と追跡魔道具。対象者が身に着けているものがあればこの魔道具を作動させれば住んでいる家が分かるよ。あとはこの通信魔道具があれば、自分の手の者を対象者の家に向かわせる事が出来るだろう」
アレクシスの瞳が喜びに満ち溢れる。
「ありがとうございます! こんな事までして頂き……」
「――じゃあさ。今後面白そうな異能者がいたら直接私に連絡してよ。どうせピレーネ公国は異能者がいても、ほとんど帝国に献上してるんだし」
アレクシスは下を向いて笑っていた。
(どうせ私には関係ない事だ。異能者はもはや帝国のもの。これまで帝国に内緒で実験を繰り返しても失敗ばかりだった。この皇子をうまく利用すればマリアンヌを取り戻す事だって!)
「――はい、仰せのままに。フィリップ皇子殿下」
***
こうしてアレクシスはマリアンヌとの離婚式で指輪を外す儀式の時にわざと指輪を落とし用意していた偽の指輪をマリアンヌの指輪として祭壇に置いた。
素早く本物の指輪をポケットに忍ばせる。
離婚式が終わると、通信魔道具を使い神殿の前に停まっている馬車を配下の者に確認させる。
馬車に赤子が乗っていない事が分かったのでマリアンヌの指輪を追跡魔道具に入れた。
すぐに王都から離れた寂れた地方の邸宅だと分かるとアレクシスは命令した。
『今から魔道具で送る場所に兵士を集めろ。黒髪の赤子を殺せ。使用人が抵抗するなら全員亡き者にしろ』
――マリアンヌ。君には私そっくりの子を産んで貰わないとね……。
***
「今頃マリアンヌ様は、無事に離婚式を終わらせているかしらね」
すやすやと眠るエリーンをニコニコとローラは見つめていた。
――なんて可愛らしいの!
このお口をむぐむぐさせてるお顔とか、眩しい時にお顔をしかめる仕草とか……もう、ずっと見ていたいわ!
「ローラ……しまりのない顔をして……。侍女なのですからもう少しキリリとした顔でいなさい」
――またルイス様のお説教が始まったわ。
でも私だけは知っている。
ルイス様はエリーンお嬢様とお二人だけでいる時、内緒でほっぺをツンツンしたり、エリーンお嬢様に自分の指をぎゅっと握らせているのだ。
「――私の顔に何か?」
――面倒くさい方だわ……まったく……。
すると突然、ルイスがローラに覆いかぶさりの口を塞いだ。
「ふごっ……」
真っ赤になりながらドキドキしているローラの耳元でルイスが囁く。
『しっ……。黙って…侵入者です!』
「ふぐぅっ?」
***
口を塞がれながら、ローラの脳裏には最悪の結末が浮かんでいた。
――暗殺者? 誰を? そんなの決まっている!
ローラはゆりかごの中でじっとおもちゃを眺める可愛らしいエリーンを見つめて涙が出そうになった。
(本来なら公国で大切に育てられる筈だった公女様なのに!)
ローラはおもちゃはそのままクルクルと動く様にしながらそっと音楽を止めた。
幸いにもエリーンはおもちゃの動きをじっと見つめている。
ホッと胸を撫で下ろしたローラはルイスに目配せをする。
一体何人の不審者が入り込んでいるのか。
ルイスが扉の前で聞き耳を立て、ローラは窓際にそっと身を隠してカーテンの隙間から外を覗いた。
「――ひっ!」
余りの光景に足がガクガク震え、口を手で覆う。
叫び出したい気持ちを押し殺し、ルイスに合図を送る。
暗殺者、というのは大抵は2,3人だろう。
いや、多く見積もっても10人くらい?
――邸宅は屈強な100人以上の兵士達に囲まれていた。
ルイスが溜息をつく。
「まったく……とんだ子ウサギですね。こんなに大勢がウサギを欲しがるとは……」
ローラの目の前でルイスは無詠唱で転移魔法の魔法陣を描き始めた。
「私は今から外の連中を片付けて参ります。ローラはそちらの隠し扉に隠れていなさい」
そう言うとルイスは隠し扉の場所を教えて姿を消した。
邸宅の外では、兵士達の怒号とガキン、ガキンという剣がぶつかり合う音が聞こえる。
ローラは音を立てない様にそっとゆりかごを押した。
このゆりかごは、ルイスが改良してボタンを押すと車輪が出てゆりかごを女性の力でも移動させる事が出来るのだ。
落ち着いて
ゆっくり
音を立てない様に
慎重にゆりかごを押して、隠し扉を開ける。
そっと中に入ると、窓もない小さな小部屋でどうやら使わない物を一時的に保管する倉庫の様だ。
ローラは部屋の中を見回した。
――古びて音も出ないのではないかと思われるピアノや鎧、マホガニー製の大きな書棚…。
あぁ……何てこと!
武器になりそうな物が何も無い……。
――このまま100人以上の兵士を相手にルイス様がどれくらい持ち堪えるのだろう。
ゆりかごの中のエリーンを見ると、何も知らずに一生懸命じっとおもちゃが揺れるのを見ている。
――ポタ……と涙がゆりかごに落ちる。
(泣いてる場合じゃない! 私がエリーンお嬢様をお守りするのだ)
ゴシゴシと目を擦ると気合を入れて外の音を聞く。
100人以上の兵士がいたとは思えない程、外の音が聞こえない。
(ルイス様! どうかご無事で…)
――その時だった。
キイ……という扉の開く音が聞こえる。
(ルイス様……?)
いや……違う!
この部屋の隠し扉を教えて下さったのはルイス様だ。
コツコツ……と足音が響く。
「おい……この部屋にもいないぞ?」
「黒髪の赤ん坊を殺せ! なんて簡単な仕事だと思ったのにな」
「くそっ! 他の部屋を探せ!」
ホッと胸を撫で下ろす。
その時ゆりかごの中で異変が起きた。
「ふ……ふぇ……」
先程までおもちゃを見ていたエリーンが男達の苛立った声に驚いてぐずり泣きを始めてしまった。
マズイ!
慌ててエリーンを抱き上げる。
しかし、ぐずり始めたエリーンは益々顔を歪ませる。
「おい…何か赤ん坊の泣き声がしなかったか?」
「変だぞ? 確かにこの辺りから……」
――とうとうエリーンが激しく泣き出してしまった。
(あぁ! どうしたら……マリアンヌ様!)
――バキッ!
隠し扉が破壊される音が響き渡る。
「ひひっ! こぉ~んな所に隠れていやがった!」
「よぉ! お嬢さん、悪い事は言わねぇ。その赤ん坊を寄越しな!」
「俺達は優しいからよ、大人しく赤ん坊を渡してくれりゃぁ……あんたの命は助けてやってもいいぜ?」
――下品な嗤い声が響き渡る。
ローラはこの時、恐怖よりも激しい怒りに支配された。
「おいおい……このお嬢さん、びっくりし過ぎて声も出ねえみたいだぜ!」
「……黙れ」
「あぁん? 聞こえねぇなぁ~! 早く赤ん坊を渡せ!」
「――黙れ!」
「おい……なんだ? アレ……」
「ば、バケモンだ……!」
ローラの赤い髪色は燃える炎の様に真っ赤に光り、瞳の色も燃える髪色と同じ色に変化していった。
***
転移魔法を繰り返し、テオドールとマリアンヌが邸宅に姿を現すと、恐ろしい光景が目に飛び込んで来た。
物凄い量の兵士の死体が転がる中、剣を手に血まみれのルイスが戦っている。
テオドールの瞳に怒りの炎が燃える。
「……一人残らず生きては返さぬ!」
すらり、と剣を抜いたテオドールは兵士達に向かっていき一振りで何人もの兵士を斬り捨てていく。
マリアンヌは邸宅に走り込んでいった。
「エリーン!」
――――ドカン!
その時、邸宅の中から物凄い爆発音が響き渡った。
「……エ……エリーン?」
炎が……。
赤く燃える炎が……邸宅を焼き尽くす。
私はまた……愛する娘を失うの?
――いや……いやよ……お願い……!
「あぁ……エリーン」
――燃え盛る炎の中から何かが見える。
「あ……あれは……まさか……!」
――マリアンヌの脳裏に回帰前の悪夢の光景が蘇る。
燃え盛る邸宅の炎の中で見た、愛する娘エリーンの空虚な瞳。
死を選ぶ事のみが苦しみから解放される唯一の手段だと思い知ったエリーンの絶望。
母親なのに……助ける事も、その方法さえも分からなかった馬鹿なマリアンヌ。
今度こそエリーンを失わないチャンスを神から与えられた筈なのに!
私はまた……間違えてしまったの……?」
この世にもしも神が存在するのなら!
お願いします
お願いします
お願いします
このちっぽけな私の魂なんか要らない!
どうか
どうか
どうか
お願い!
もう……二度と私に見せないで!
愛する我が子が死ぬ姿を見せないで!
この世で最も残酷な光景は……。
母親の目の前で、生まれて来た事を嘆き悲しむ我が子を見る事!
そして我が子の命の灯が消える瞬間を……ただ見ている事しか出来ない事!
「エリーン……。もしも……貴女が私の目の前からまた消えてしまうのなら……。私はこの先の人生なんか……要らない……」
二度目の大きな爆発音が聞こえ、巨大な火柱が邸宅を飲み込む。
「エリーン……貴女をもう……独りになんか……しないわ……」
前世の私は覚悟の無い最低な母親だった。
死と隣合わせのエリーンの実験を止める事も、娘を連れて逃げる事も出来なかった愚かな母親!
アレクシスとの言い争いを避け、彼を説得する事を諦めて、いつしか平凡な日常を無意識に選んでいた。
何も無い平凡な一日を過ごす事とエリーンの命だったらどちらが重いのか分かり切っていた筈なのに!
こんな簡単な答えさえも見つける事が出来なかった。
だから神は、こんな私に罰をお与えになっているのか……。
「エリーン……。生きてさえいれば、私はどんな貴女であってもいい。生きてさえいれば……」
***
激しく燃える邸宅を呆然と見つめながら呟いたマリアンヌの瞳に何かが映った。
「あ……あれは……まさか……!」
囂々と燃える炎の中からゆっくりとこちらに向かって歩く人影。
やがてその人影がはっきりと視界に映ると、マリアンヌは驚きで言葉を失った。
まるでルビーの様に輝く鮮やかな赤い髪が全て逆立ち、真っ赤な光を宿した瞳の人物が何かを抱えている。
身体中から赤い光が放たれ、炎はこの光を飲み込む事が出来ないでいる。
「ロ……ローラ?」
ドクン……ドクン……と胸が激しく音を立て、ローラが抱き抱えている真っ白なおくるみを見つめた。
ふんわりとした黒髪、柔らかなバラ色の頬……。
可愛らしい丸い瞳がマリアンヌを見つめ、小さな唇をモグモグと動かしている。
「エリーン……! エリーン……! ああっ……」
高いヒールのある靴のせいで転びそうになったマリアンヌは靴を脱ぎ捨て、裸足になってローラとエリーンの元へ夢中で走り出した。
小石や枯れ枝が柔らかな足の裏を傷つけ血が流れても、マリアンヌはそのまま構わずに走り続ける。
「マリアンヌ!」
兵士達を倒したテオドールが、マリアンヌに追いつき、上着を脱ぐとマリアンヌの頭に被せ炎から守る。
エリーンを抱き締めているローラはマリアンヌとテオドールの姿を目にすると、そのままガクリ、と膝から崩れ落ちた。
「ローラ! しっかりして!」
「マリアンヌ! エリーンを……」
テオドールは、気を失ったままそれでもしっかりと抱き締めているローラの腕からエリーンを抱き上げるとマリアンヌにそっと手渡す。
「エリーン……あぁ……よかった……」
震える手で我が子を確かめ抱き締めたマリアンヌの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「神よ……ありがとうございます……」
テオドールはバキバキと音を立てながら邸宅が焼け落ちる音を聞くと気を失ったローラを抱き上げた。
「行こう! ここは危険だ。安全な場所へ!」
エリーンを抱き締めたまま、マリアンヌはコクリと頷くとテオドールに守られながら火の粉が飛んで来ない庭園に避難した。
***
「殿下! ご無事でしたか? こちらは片付きましたよ」
庭園の噴水近くまで避難したテオドール達に、全身血まみれのルイスが声を掛ける。
「まあっ! 血……血がっ! 大丈夫ですか?」
真っ青になったマリアンヌがルイスに近付くと、血まみれのルイスは眼鏡を掛け直した。
べっとりと手に血が付着していたので、ルイスの眼鏡も血で汚れてしまっている。
「あ……マリアンヌ様、申し訳ございません。不快な姿で……。しかし、これらの血は虫けら共の血なのでお気遣い無く。汚らわしい血を見せてしまいましたね。すぐにこの噴水の水で洗い流します」
スタスタと噴水に近付いたルイスはそのままザブリ、と噴水の中に入り、血を洗い流した。
「ルイス、兵士達の中に生存者は?」
テオドールの質問に、噴水の中のルイスは眼鏡を綺麗に洗い終わると首を横に振った。
「――そうですね。確かに1人くらいは残しておくべきでした」
「冷静沈着なお前にしては、珍しいな。いつものお前なら、証人として何人か殺さずにいるだろう」
「――小さな子ウサギを狙う血に飢えた狼の群れは、根絶やしにしないと……。首謀者もこれで手を出したらいけない人間の逆鱗に触れた、と思い知る事でしょう」
噴水から出て、水を含んで重くなったシャツを脱いだルイスに、マリアンヌは慌てて目を逸らした。
護衛騎士だが、普段はテオドールの補佐としての仕事が多いルイスは細身に見えるのに、服を脱ぐと引き締まった見事な体躯をしている。
裸の上半身は、ポタポタと水滴が流れ、男の色気が漂う。
マリアンヌは、目の前で突然シャツを脱いだルイスの姿に赤面していた。
その様子を見たテオドールが自分のシャツを脱ぐと、無表情でルイスに渡す。
「殿下……。貴方のシャツを私に着せるおつもりですか?」
呆れた様に溜息をついたルイスは、手渡されたテオドールのシャツを持ち主に返すと無詠唱で魔法陣を描いた。
やがて突風が吹き渡り、ルイスを包み込む。
魔法で起こした風はすぐにルイスの服を乾かした。
「殿下も早く着て下さい。マリアンヌ様がお困りですよ?」
耳まで赤くなっているマリアンヌに、テオドールは思わず口元が綻ぶ。
「マリアンヌは今日、あのクズ夫と正式に離縁したのだから、婚約者の裸を見ても問題ないだろ? それよりも……。この爆発と火事は何が原因なのだ」
炎に包まれた邸宅を見つめ、ルイスは静かに口を開いた。
「恐らく……ローラの異能の魔力が暴走した為ではないかと思われます」
マリアンヌの心臓がドクン、と激しく音を立てる。
一同は草むらに横たわっている気を失ったローラを見つめた。
炎の中から現れたローラは輝くルビーの様な髪色が逆立っていて、身体中から光を放っていた。
「まさか……そんな……どうして!」
マリアンヌは回帰前に見た、異能の魔力が暴走したエリーンの姿を思い出していた。
ルビーの様な美しい赤い髪に変化したエリーンは、見つめただけで炎を爆発させ、人の体の中に流れる血液を沸騰させた。
この能力を徹底的に利用された娘は人間兵器として戦場に連れて行かれ、多くの人間を殺したのだ。
まさか、ローラもあの時のエリーンの様になってしまうのか……。
マリアンヌの瞳から涙が溢れた。
「テオドール様、ローラの魔力が暴走したのなら、どうやって元の状態に戻せば……」
ローラは異様な光を放ったまま気を失っている。
もしも目覚めた時も魔力が暴走したままなら……。
回帰前の恐ろしいエリーンの魔力暴走の記憶が蘇る。
魔力の暴走は主に制御出来ない程の激しい怒りや絶望によって引き起こされる事が多い。
アレクシスはこの原理を利用して、人間兵器となったエリーンの心を徹底的に傷つけた。
魔力が暴走した状態で実験中の薬を使うと異能の力が増幅されるからだ。
ローラはあの様な恐ろしい実験の薬を服用されていないのだから大丈夫な筈なのに、震えが止まらない。
「マリアンヌ様、ローラは大丈夫ですよ。この身体から放たれている光はやがて本人の身体の中に吸収されます。今は最大限の魔力を使ったせいで気を失っているのです」
ルイスの冷静な言葉に、マリアンヌは我に返る。
「そう……そうよね……ローラ……。エリーンを守ってくれて……本当にありがとう。貴女がいなかったらエリーンはどうなっていたか……」
マリアンヌは気を失っているローラの頭をそっと撫でる。
すると真っ赤なルビーの様に輝く逆立った髪はマリアンヌが頭を撫でる度に徐々に元に戻っていった。
やがてピクリ、とローラの指が動き、全身を覆い尽くしていた魔力の光がローラの身体の中へゆっくりと吸い込まれていくのが見える。
「ローラ! ああっ……よかった……! わたくしが分かる?」
マリアンヌの声に、ローラは重たくなった瞼を懸命に開けた。
「んん……っ……わ、私……何故ここへ? はっ……エリーンお嬢様はっ!」
慌てて飛び起きたローラの瞳に、すやすやと眠るエリーンを抱き締めているマリアンヌの姿が映った。
「エリーンお嬢様……ご無事でしたか……よかったぁ……」
ポロポロと涙を流すローラにルイスが優しく微笑む。
「お手柄でしたね。流石はこの私の教え子です……」
ところがローラはルイスの言葉にキョトンとした顔をしている。
首を傾げ、ボロボロになった自分の服とエリーンを交互に見つめた。
「ええっと……ルイス様が敵の兵士と戦っている間、隠し部屋にお嬢様と身を潜めていたところまでは憶えているのですが……その後の記憶が……」
思い出そうとすると、ズキリと頭に鈍痛が走り何も思い出せなくなる。
しかし、ローラにとっては些細な事だ。
誰よりも大切なエリーンお嬢様が無事だったのだから。
――その時大きな地響きと共に屋敷が炎の中で完全に崩れ落ちた。
跡形もなく燃え尽きた屋敷を見つめながらルイスがポツリと呟く。
「まったく……暴走するにしても手加減しないのはこの性格からなのですかねぇ」
ローラは全焼した屋敷を呆気に取られた表情で眺めていた。
「あれっ? なぜお屋敷が燃えてるのですか? まさか曲者達の仕業で? はっ! 屋敷にいた使用人達は無事でしたか?」
邸が燃えた原因が自分にあるとは夢にも思わないローラの発言にテオドールは思わず吹き出した。
笑いを堪えながらローラの頭をポンと撫でる。
「――使用人達は無事だよ。元々数える位しか雇っていなかったしね。屋敷は……そうだな。恐らく倉庫に保管していた火薬が何かの拍子に引火したみたいだ。だからその……誰のせいでもないさ」
テオドールの言葉にマリアンヌも力を込めて頷く。
「そうよ! 兎に角その……私達が全員無事だった事が一番大事なのだから!」
そんなマリアンヌにローラは唇を尖らせた。
(マリアンヌ様もテオドール殿下も本当にお人好しだわ。絶対にあの野蛮な兵士共の仕業なのに……。でもそうね! エリーンお嬢様もルイス様も怪我をされなかった。確かにそれが一番大事だわ)
ローラはマリアンヌとエリーンの姿をしみじみと見つめていると、ある異変に気付く。
「あら……? マリアンヌ様……靴が……」
テオドールは、マリアンヌが裸足で靴を履いていなかった事に驚き息を飲んだ。
「マリアンヌ! 貴女の足……っ……」
裸足のまま夢中でエリーンを探していたマリアンヌは自分の足から血が出ている事に全く気付かなかったのだ。
足の痛みよりも、エリーンの事で頭が一杯だった。
「あら……これ位、平気ですよ?」
テオドールはマリアンヌの傷だらけの足を見ると唇を噛み締めた。
「――っ……すまない……気付いてやれず……」
――マリアンヌを噴水まで抱き抱えたテオドールはマリアンヌの傷ついた足を綺麗に洗った。
「――っ……テオドール様……も……もう……大丈夫です……自分で……」
男性に足を洗って貰った経験のないマリアンヌは赤面して下を向いたまま顔を上げる事が出来ない。
テオドールは懐から『ドラゴンの涙』を取り出すと魔力を込めた。
「マリアンヌが貸してくれたこの魔晶石は治癒の力が宿っているのだ。すぐに痛みが消える筈だ」
ポウ……と、魔晶石から温かい光が溢れ、マリアンヌの足の傷はみるみる消えていく。
「凄いわ……。この魔晶石にこんな力があるなんて」
驚くマリアンヌにテオドールはフッ、と微笑む。
「この魔晶石は私の魔力と共鳴しているのだ。私の魔力が暴走している時は、暴走した魔力を吸収し、平時に私がこの魔晶石に魔力を込めれば治癒の石になる」
「はぁ……。殿下、婚約者の怪我を早く治したいからって魔晶石をこんな簡単に使うなんて」
ルイスは呆れてテオドールに近付くと、そっと耳打ちをする。
「それで……? この事件の首謀者のクズ男……どうしますか?」
「私はマリアンヌの婚約者だ。未来の妻を傷つける者がいれば決して許さない。ルイス、急ぎ王城に書信を送る様に。嫌われ者の側室の息子だとしても私は王族だ。ピレーネ公国の大公アレクシスは王族の命を狙った謀反の疑いがある、と知らせろ」
テオドールの氷の様な凍てついた瞳にルイスは頷いた。
「それで……これからどうします? エリーンお嬢様のお世話をまさか宿屋で?」
小さな赤子は夜泣きをする。
大勢の泊り客がいる宿屋に泊まればマリアンヌは肩身の狭い思いをするに違いない。
ローラ考案の育児魔道具も燃えてしまって今は無い。
産着もタオルも何もかも燃えてしまった。
「背に腹は代えられない。ルイス、トリノ離宮へ向かうぞ。先触れを」
トリノ離宮はテオドールが幼い頃に過ごした離宮で、母タシアが生前父である皇帝に囲われていた場所だ。
戦利品として遠い祖国から無理矢理敵国に連行されて皇帝の側室にされた母が死ぬまで出られなかった美しい檻。
テオドールは、幼い頃から母親が居なくなったこの離宮で独りぼっちで過ごした。
異母兄弟とも折り合いは悪く、遊んだ記憶も無い。
王妃はテオドールの事を徹底的に無視していた。
憎い側室の子は邪魔でしかなかったから。
苦い思い出だけのトリノ離宮。
その息苦しさに我慢出来ずに、テオドールは15歳になると騎士団に入隊した。
あの空虚な色の無い景色だったトリノ離宮が、マリアンヌ達が泊まると思っただけで薔薇色の美しい景色に変わる事だろう。
「マリアンヌ、私が幼少時代を過ごした離宮へ行こう。定期的に手入れもされているから大丈夫だ。使用人達に必要な物を用意させる」
トリノ離宮については聞いた事がある。
他国の美しい王女が住んでいた離宮には庭園や小さな泉もあるらしい。
当時、どれ程皇帝がテオドールの母タシア王女に熱を上げていたか、その広大な離宮が物語っている、とも。
「テオドール様、わたくし達の様な者が素晴らしい離宮にお邪魔してしまって大丈夫でしょうか」
離宮の使用人達は髪色がテオドールと同じ黒髪だった事に驚く事だろう。
そしてこの事が皇帝の耳に入れば……。
「――マリアンヌが今何を考えているのか分かるよ。皇帝はこの私に全く興味はない。しかし、政治の道具にはしようとしている。私達の婚約に反対するだろう。それでも子までいるという事が分かれば流石に手出しはしないよ」
――皇帝を騙す……。
それがどれ程の罪なのか、理解はしている。
それでも……。
あの恐ろしいアレクシスの毒牙から我が子を守る手立てはこれしかないのだ。
マリアンヌは覚悟を決めた。
「――テオドール様……行きましょう! トリノ離宮へ!」
――マリアンヌの脳裏に回帰前の悪夢の光景が蘇る。
燃え盛る邸宅の炎の中で見た、愛する娘エリーンの空虚な瞳。
死を選ぶ事のみが苦しみから解放される唯一の手段だと思い知ったエリーンの絶望。
母親なのに……助ける事も、その方法さえも分からなかった馬鹿なマリアンヌ。
今度こそエリーンを失わないチャンスを神から与えられた筈なのに!
私はまた……間違えてしまったの……?」
この世にもしも神が存在するのなら!
お願いします
お願いします
お願いします
このちっぽけな私の魂なんか要らない!
どうか
どうか
どうか
お願い!
もう……二度と私に見せないで!
愛する我が子が死ぬ姿を見せないで!
この世で最も残酷な光景は……。
母親の目の前で、生まれて来た事を嘆き悲しむ我が子を見る事!
そして我が子の命の灯が消える瞬間を……ただ見ている事しか出来ない事!
「エリーン……。もしも……貴女が私の目の前からまた消えてしまうのなら……。私はこの先の人生なんか……要らない……」
二度目の大きな爆発音が聞こえ、巨大な火柱が邸宅を飲み込む。
「エリーン……貴女をもう……独りになんか……しないわ……」
前世の私は覚悟の無い最低な母親だった。
死と隣合わせのエリーンの実験を止める事も、娘を連れて逃げる事も出来なかった愚かな母親!
アレクシスとの言い争いを避け、彼を説得する事を諦めて、いつしか平凡な日常を無意識に選んでいた。
何も無い平凡な一日を過ごす事とエリーンの命だったらどちらが重いのか分かり切っていた筈なのに!
こんな簡単な答えさえも見つける事が出来なかった。
だから神は、こんな私に罰をお与えになっているのか……。
「エリーン……。生きてさえいれば、私はどんな貴女であってもいい。生きてさえいれば……」
***
激しく燃える邸宅を呆然と見つめながら呟いたマリアンヌの瞳に何かが映った。
「あ……あれは……まさか……!」
囂々と燃える炎の中からゆっくりとこちらに向かって歩く人影。
やがてその人影がはっきりと視界に映ると、マリアンヌは驚きで言葉を失った。
まるでルビーの様に輝く鮮やかな赤い髪が全て逆立ち、真っ赤な光を宿した瞳の人物が何かを抱えている。
身体中から赤い光が放たれ、炎はこの光を飲み込む事が出来ないでいる。
「ロ……ローラ?」
ドクン……ドクン……と胸が激しく音を立て、ローラが抱き抱えている真っ白なおくるみを見つめた。
ふんわりとした黒髪、柔らかなバラ色の頬……。
可愛らしい丸い瞳がマリアンヌを見つめ、小さな唇をモグモグと動かしている。
「エリーン……! エリーン……! ああっ……」
高いヒールのある靴のせいで転びそうになったマリアンヌは靴を脱ぎ捨て、裸足になってローラとエリーンの元へ夢中で走り出した。
小石や枯れ枝が柔らかな足の裏を傷つけ血が流れても、マリアンヌはそのまま構わずに走り続ける。
「マリアンヌ!」
兵士達を倒したテオドールが、マリアンヌに追いつき、上着を脱ぐとマリアンヌの頭に被せ炎から守る。
エリーンを抱き締めているローラはマリアンヌとテオドールの姿を目にすると、そのままガクリ、と膝から崩れ落ちた。
「ローラ! しっかりして!」
「マリアンヌ! エリーンを……」
テオドールは、気を失ったままそれでもしっかりと抱き締めているローラの腕からエリーンを抱き上げるとマリアンヌにそっと手渡す。
「エリーン……あぁ……よかった……」
震える手で我が子を確かめ抱き締めたマリアンヌの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「神よ……ありがとうございます……」
テオドールはバキバキと音を立てながら邸宅が焼け落ちる音を聞くと気を失ったローラを抱き上げた。
「行こう! ここは危険だ。安全な場所へ!」
エリーンを抱き締めたまま、マリアンヌはコクリと頷くとテオドールに守られながら火の粉が飛んで来ない庭園に避難した。
***
「殿下! ご無事でしたか? こちらは片付きましたよ」
庭園の噴水近くまで避難したテオドール達に、全身血まみれのルイスが声を掛ける。
「まあっ! 血……血がっ! 大丈夫ですか?」
真っ青になったマリアンヌがルイスに近付くと、血まみれのルイスは眼鏡を掛け直した。
べっとりと手に血が付着していたので、ルイスの眼鏡も血で汚れてしまっている。
「あ……マリアンヌ様、申し訳ございません。不快な姿で……。しかし、これらの血は虫けら共の血なのでお気遣い無く。汚らわしい血を見せてしまいましたね。すぐにこの噴水の水で洗い流します」
スタスタと噴水に近付いたルイスはそのままザブリ、と噴水の中に入り、血を洗い流した。
「ルイス、兵士達の中に生存者は?」
テオドールの質問に、噴水の中のルイスは眼鏡を綺麗に洗い終わると首を横に振った。
「――そうですね。確かに1人くらいは残しておくべきでした」
「冷静沈着なお前にしては、珍しいな。いつものお前なら、証人として何人か殺さずにいるだろう」
「――小さな子ウサギを狙う血に飢えた狼の群れは、根絶やしにしないと……。首謀者もこれで手を出したらいけない人間の逆鱗に触れた、と思い知る事でしょう」
噴水から出て、水を含んで重くなったシャツを脱いだルイスに、マリアンヌは慌てて目を逸らした。
護衛騎士だが、普段はテオドールの補佐としての仕事が多いルイスは細身に見えるのに、服を脱ぐと引き締まった見事な体躯をしている。
裸の上半身は、ポタポタと水滴が流れ、男の色気が漂う。
マリアンヌは、目の前で突然シャツを脱いだルイスの姿に赤面していた。
その様子を見たテオドールが自分のシャツを脱ぐと、無表情でルイスに渡す。
「殿下……。貴方のシャツを私に着せるおつもりですか?」
呆れた様に溜息をついたルイスは、手渡されたテオドールのシャツを持ち主に返すと無詠唱で魔法陣を描いた。
やがて突風が吹き渡り、ルイスを包み込む。
魔法で起こした風はすぐにルイスの服を乾かした。
「殿下も早く着て下さい。マリアンヌ様がお困りですよ?」
耳まで赤くなっているマリアンヌに、テオドールは思わず口元が綻ぶ。
「マリアンヌは今日、あのクズ夫と正式に離縁したのだから、婚約者の裸を見ても問題ないだろ? それよりも……。この爆発と火事は何が原因なのだ」
炎に包まれた邸宅を見つめ、ルイスは静かに口を開いた。
「恐らく……ローラの異能の魔力が暴走した為ではないかと思われます」
マリアンヌの心臓がドクン、と激しく音を立てる。
一同は草むらに横たわっている気を失ったローラを見つめた。
炎の中から現れたローラは輝くルビーの様な髪色が逆立っていて、身体中から光を放っていた。
「まさか……そんな……どうして!」
マリアンヌは回帰前に見た、異能の魔力が暴走したエリーンの姿を思い出していた。
ルビーの様な美しい赤い髪に変化したエリーンは、見つめただけで炎を爆発させ、人の体の中に流れる血液を沸騰させた。
この能力を徹底的に利用された娘は人間兵器として戦場に連れて行かれ、多くの人間を殺したのだ。
まさか、ローラもあの時のエリーンの様になってしまうのか……。
マリアンヌの瞳から涙が溢れた。
「テオドール様、ローラの魔力が暴走したのなら、どうやって元の状態に戻せば……」
ローラは異様な光を放ったまま気を失っている。
もしも目覚めた時も魔力が暴走したままなら……。
回帰前の恐ろしいエリーンの魔力暴走の記憶が蘇る。
魔力の暴走は主に制御出来ない程の激しい怒りや絶望によって引き起こされる事が多い。
アレクシスはこの原理を利用して、人間兵器となったエリーンの心を徹底的に傷つけた。
魔力が暴走した状態で実験中の薬を使うと異能の力が増幅されるからだ。
ローラはあの様な恐ろしい実験の薬を服用されていないのだから大丈夫な筈なのに、震えが止まらない。
「マリアンヌ様、ローラは大丈夫ですよ。この身体から放たれている光はやがて本人の身体の中に吸収されます。今は最大限の魔力を使ったせいで気を失っているのです」
ルイスの冷静な言葉に、マリアンヌは我に返る。
「そう……そうよね……ローラ……。エリーンを守ってくれて……本当にありがとう。貴女がいなかったらエリーンはどうなっていたか……」
マリアンヌは気を失っているローラの頭をそっと撫でる。
すると真っ赤なルビーの様に輝く逆立った髪はマリアンヌが頭を撫でる度に徐々に元に戻っていった。
やがてピクリ、とローラの指が動き、全身を覆い尽くしていた魔力の光がローラの身体の中へゆっくりと吸い込まれていくのが見える。
「ローラ! ああっ……よかった……! わたくしが分かる?」
マリアンヌの声に、ローラは重たくなった瞼を懸命に開けた。
「んん……っ……わ、私……何故ここへ? はっ……エリーンお嬢様はっ!」
慌てて飛び起きたローラの瞳に、すやすやと眠るエリーンを抱き締めているマリアンヌの姿が映った。
「エリーンお嬢様……ご無事でしたか……よかったぁ……」
ポロポロと涙を流すローラにルイスが優しく微笑む。
「お手柄でしたね。流石はこの私の教え子です……」
ところがローラはルイスの言葉にキョトンとした顔をしている。
首を傾げ、ボロボロになった自分の服とエリーンを交互に見つめた。
「ええっと……ルイス様が敵の兵士と戦っている間、隠し部屋にお嬢様と身を潜めていたところまでは憶えているのですが……その後の記憶が……」
思い出そうとすると、ズキリと頭に鈍痛が走り何も思い出せなくなる。
しかし、ローラにとっては些細な事だ。
誰よりも大切なエリーンお嬢様が無事だったのだから。
――その時大きな地響きと共に屋敷が炎の中で完全に崩れ落ちた。
跡形もなく燃え尽きた屋敷を見つめながらルイスがポツリと呟く。
「まったく……暴走するにしても手加減しないのはこの性格からなのですかねぇ」
ローラは全焼した屋敷を呆気に取られた表情で眺めていた。
「あれっ? なぜお屋敷が燃えてるのですか? まさか曲者達の仕業で? はっ! 屋敷にいた使用人達は無事でしたか?」
邸が燃えた原因が自分にあるとは夢にも思わないローラの発言にテオドールは思わず吹き出した。
笑いを堪えながらローラの頭をポンと撫でる。
「――使用人達は無事だよ。元々数える位しか雇っていなかったしね。屋敷は……そうだな。恐らく倉庫に保管していた火薬が何かの拍子に引火したみたいだ。だからその……誰のせいでもないさ」
テオドールの言葉にマリアンヌも力を込めて頷く。
「そうよ! 兎に角その……私達が全員無事だった事が一番大事なのだから!」
そんなマリアンヌにローラは唇を尖らせた。
(マリアンヌ様もテオドール殿下も本当にお人好しだわ。絶対にあの野蛮な兵士共の仕業なのに……。でもそうね! エリーンお嬢様もルイス様も怪我をされなかった。確かにそれが一番大事だわ)
ローラはマリアンヌとエリーンの姿をしみじみと見つめていると、ある異変に気付く。
「あら……? マリアンヌ様……靴が……」
テオドールは、マリアンヌが裸足で靴を履いていなかった事に驚き息を飲んだ。
「マリアンヌ! 貴女の足……っ……」
裸足のまま夢中でエリーンを探していたマリアンヌは自分の足から血が出ている事に全く気付かなかったのだ。
足の痛みよりも、エリーンの事で頭が一杯だった。
「あら……これ位、平気ですよ?」
テオドールはマリアンヌの傷だらけの足を見ると唇を噛み締めた。
「――っ……すまない……気付いてやれず……」
――マリアンヌを噴水まで抱き抱えたテオドールはマリアンヌの傷ついた足を綺麗に洗った。
「――っ……テオドール様……も……もう……大丈夫です……自分で……」
男性に足を洗って貰った経験のないマリアンヌは赤面して下を向いたまま顔を上げる事が出来ない。
テオドールは懐から『ドラゴンの涙』を取り出すと魔力を込めた。
「マリアンヌが貸してくれたこの魔晶石は治癒の力が宿っているのだ。すぐに痛みが消える筈だ」
ポウ……と、魔晶石から温かい光が溢れ、マリアンヌの足の傷はみるみる消えていく。
「凄いわ……。この魔晶石にこんな力があるなんて」
驚くマリアンヌにテオドールはフッ、と微笑む。
「この魔晶石は私の魔力と共鳴しているのだ。私の魔力が暴走している時は、暴走した魔力を吸収し、平時に私がこの魔晶石に魔力を込めれば治癒の石になる」
「はぁ……。殿下、婚約者の怪我を早く治したいからって魔晶石をこんな簡単に使うなんて」
ルイスは呆れてテオドールに近付くと、そっと耳打ちをする。
「それで……? この事件の首謀者のクズ男……どうしますか?」
「私はマリアンヌの婚約者だ。未来の妻を傷つける者がいれば決して許さない。ルイス、急ぎ王城に書信を送る様に。嫌われ者の側室の息子だとしても私は王族だ。ピレーネ公国の大公アレクシスは王族の命を狙った謀反の疑いがある、と知らせろ」
テオドールの氷の様な凍てついた瞳にルイスは頷いた。
「それで……これからどうします? エリーンお嬢様のお世話をまさか宿屋で?」
小さな赤子は夜泣きをする。
大勢の泊り客がいる宿屋に泊まればマリアンヌは肩身の狭い思いをするに違いない。
ローラ考案の育児魔道具も燃えてしまって今は無い。
産着もタオルも何もかも燃えてしまった。
「背に腹は代えられない。ルイス、トリノ離宮へ向かうぞ。先触れを」
トリノ離宮はテオドールが幼い頃に過ごした離宮で、母タシアが生前父である皇帝に囲われていた場所だ。
戦利品として遠い祖国から無理矢理敵国に連行されて皇帝の側室にされた母が死ぬまで出られなかった美しい檻。
テオドールは、幼い頃から母親が居なくなったこの離宮で独りぼっちで過ごした。
異母兄弟とも折り合いは悪く、遊んだ記憶も無い。
王妃はテオドールの事を徹底的に無視していた。
憎い側室の子は邪魔でしかなかったから。
苦い思い出だけのトリノ離宮。
その息苦しさに我慢出来ずに、テオドールは15歳になると騎士団に入隊した。
あの空虚な色の無い景色だったトリノ離宮が、マリアンヌ達が泊まると思っただけで薔薇色の美しい景色に変わる事だろう。
「マリアンヌ、私が幼少時代を過ごした離宮へ行こう。定期的に手入れもされているから大丈夫だ。使用人達に必要な物を用意させる」
トリノ離宮については聞いた事がある。
他国の美しい王女が住んでいた離宮には庭園や小さな泉もあるらしい。
当時、どれ程皇帝がテオドールの母タシア王女に熱を上げていたか、その広大な離宮が物語っている、とも。
「テオドール様、わたくし達の様な者が素晴らしい離宮にお邪魔してしまって大丈夫でしょうか」
離宮の使用人達は髪色がテオドールと同じ黒髪だった事に驚く事だろう。
そしてこの事が皇帝の耳に入れば……。
「――マリアンヌが今何を考えているのか分かるよ。皇帝はこの私に全く興味はない。しかし、政治の道具にはしようとしている。私達の婚約に反対するだろう。それでも子までいるという事が分かれば流石に手出しはしないよ」
――皇帝を騙す……。
それがどれ程の罪なのか、理解はしている。
それでも……。
あの恐ろしいアレクシスの毒牙から我が子を守る手立てはこれしかないのだ。
マリアンヌは覚悟を決めた。
「――テオドール様……行きましょう! トリノ離宮へ!」