早河シリーズ第一幕【影法師】
 病室の窓ガラスに小粒の雨が打ち付けた。九州を通過し、関西地方を暴風域に取り込んだ台風は、ゆっくりとした速度で関東地方に接近している。

「あーあ。今日は晴れがよかったなぁ」

 香道なぎさは、台風で荒れる外を見て溜息をついた。今日はなぎさの退院の日だ。

「なぎさ、早く荷物まとめなさい。もう時間ないんだから」
「はぁい」

 母に急かされて、荷物をバッグに詰める。ピンクと青色のシルクのリボンも綺麗に折り畳んで、バッグの内ポケットに入れた。
リボンは、早河が見舞いにくれた花束のラッピングについていたもので、なんとなく捨てられずにいる。

 少しずつ笑える日が増えてきた。それは多分あの人のおかげ。
毎日毎日ここに来て、わずかの滞在でも他愛ない話をして帰っていく早河のおかげで、また笑えるようになった。

「ねぇお母さん。早河さん、今日来るかな?」
「退院の日は伝えてあるから来るかもしれないけど、お忙しい方だからどうかしらね」
「そうだよね」

 早河の停職期間が明けて、彼は今週から再び刑事の任についている。多忙を極める早河は、それでも毎日欠かさず見舞いに来てくれた。

たとえ五分でも、早河が見舞いに来てくれるだけで嬉しかった。彼と話をするのが楽しかった。それも今日で終わりだ。

(連絡先くらい聞いておけばよかった。でも、そんなの聞かれても迷惑だよね。お母さんなら早河さんの連絡先知ってるんだろうけど、あえて聞くのもなぁ)

 扉がノックされ、友里恵が開けた扉から早河が姿を現した。ちょうど早河のことを考えていたなぎさは、わずかに頬を赤らめて彼を出迎える。

『今日退院だったよね。荷物になると思ったんだけど……これ。退院おめでとう』

早河は、なぎさにピンクを基調とした小ぶりな花束を差し出した。なぎさが笑顔で花束を受け取る。

「わぁ……綺麗! 早河さんありがとうございます」

 ピンクと薄紫の花の周りをカスミソウが囲んでいる。ラッピングのリボンはシフォン素材の白色。またリボンのコレクションが増えた。

「……早河さんどうしたんですか? なんか元気ないみたい」
『そう? 少し寝不足だからかな』

 苦笑いする早河の充血した赤い瞳は、まるで捨てられた子犬のように見える。寝不足と言うよりも泣いた跡のような……。

(早河さん何かあったのかな? 仕事のこと? それともプライベートなこと?)

これ以上は踏み込めない。早河にも、彼の事情がある。

 早河となぎさは一緒に病室を出た。母はナースステーションで看護師と話をしていて、今はふたりきりだ

『なぎさちゃん。俺、警察辞めるんだ』
「辞める?」
『今のまま警察にいても、俺は何もさせてもらえない。鎖に繋がれた国家の飼い犬だ。だから辞めることにしたよ』

なぎさは早河に貰った花束を両手でぎゅっと抱えた。

(早河さんが警察を辞めるのは、お兄ちゃんの死も理由にあるんだよね)

 早河は兄の仇を必ずとると言った。その為に彼は警察を辞める。

「辞めてどうするんですか?」
『俺の親父も昔刑事だったんだ。そして刑事を辞めて、親父は探偵になった。だから親父と同じ道を行こうと思う』

 彼は、ポケットから古びた銀色のライターを出してなぎさに見せる。ライターにはT.Hのイニシャルが彫ってあり、早河のイニシャルとは違う。

「それ、早河さんの……?」
『親父の形見。どうなるかはわからないけど、やるだけやってみるよ。香道さんの仇をとるって、なぎさちゃんと約束したしね』

哀しげな瞳をしているのに、どこか吹っ切れた清々しさを感じる横顔が早河の決心を物語る。
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