🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
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「救っていただけることに心から感謝いたします。ただ、一つだけどうしてもお願いしたいことがあります」
 そこで、蔵元の視線が崇に移った。
「崇さん、蔵元を引き受けていただけないでしょうか」
「えっ⁉」
 いきなりのことに慌ててしまった。そんなことは思ってもみなかった。どうしていいかわからず隣に座る學を見た。彼も同じような目をしていた。
「私は一徹さんのことを尊敬していました。その一徹さんが見込んだ崇さんなら安心して任せることができます」
 返事ができなかった。それでも蔵元は構わず訴え続けた。
「この酒蔵と蔵人たちを、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げて、顔を上げようとはしなかった。

        *

「驚くことばかりだよ。學さんが佐賀夢酒造を買収すると言った時も驚いたけど、今日はそれ以上にびっくりした。蔵元になってくれなんて、考えたこともなかった」
 佐賀駅前の日本料理店で學に向かって両手を広げると、「事実は小説より奇なり、ですね」と彼もまだ信じられないというように首を振った。
「まったくだ」
 また両手を広げると、「で、引き受けるのですか?」と覗き込むように顔を見られた。
「わからない」
 答えを探してぐい吞みを見つめたが、一献盛は何も答えてくれなかった。
「わからない」
 首を振るしかなかった。そんな簡単に決められることではなかった。

        *

 東京に戻って百合子にも意見を聞いた。その上で更に熟慮を重ねたが、蔵元を引き受けたいという気持ちと、無理だという気持ちが何度も交差した。
 物理的には難しかった。東京と佐賀は遠すぎるのだ。それに、買収の条件として蔵元就任を頼まれたわけではないので、断ったとしても佐賀夢酒造の買収に影響を与えることはない。
 しかし、口説かれた時の蔵元の表情がいつまでも纏わりついていたし、「私は一徹さんのことを尊敬していました。その一徹さんが見込んだ崇さんなら安心して任せることができます」という言葉が胸の中に居座り続けていた。「この酒蔵と蔵人たちを、よろしくお願いします」と深々と頭を下げた蔵元の必死な姿が瞼の裏から離れないでいた。
 う~ん、
 腕を組んで床の間に飾った一徹の遺影に視線を向けると、在りし日のにこやかな笑顔に見つめられた。
 お義父さん、
 呼びかけた瞬間、引継ぎの旅のことが思い出された。鮮魚割烹でご馳走になった呼子のイカの食感と、それに合わせた一献盛・純米極上酒のコクのある味わいが蘇ってきた。更に、開夢に跡を託すと言った時の蔵元の嬉しそうな表情が蘇ってきた。すると、心の中のもやもやが晴れてきたような気がした。
 断れないですよね、
 問うても一徹が答えることはなかったが、一徹だったら間違いなく引き受けるだろうことは容易に想像できた。
 やるしかないですね、
 確認するように一徹を見つめたが、その瞬間、考え違いをしていることに気がついた。〈やる〉ではなくて、〈やらしていただく〉なのだ。
 立ち上がって一徹の遺影の前に立ち、「お引き受けすることにしました」と覚悟を決めたことを報告した。すると、耳に何かが届いたような気がした。しかし、よくわからなかった。目を瞑って神経を集中させると、また聞こえたような気がして、その断片が頭の中で言葉となって再生された。
 それでこそ、わしが見込んだ倅だ。 
 間違いなく一徹の声だと思った。初めて倅と言ってくれた時の声だった。
 ありがとうございました。これで佐賀夢酒造さんに恩返しができます。
 遺影に向かって深々と頭を下げた。

        *

「やらしていただくことにしたよ」
 百合子と學に告げた崇に、もう迷いはなかった。
「そうですか、引き受けられますか」
 決断を尊ぶように學が何度も頭を縦に振った。
「苦労をかけることになるけど、留守の間よろしく頼む」
 崇は百合子に頭を下げた。月の半分を佐賀で過ごすことになるため、その間の店の一切を百合子に任さなければならなくなるのだ。しかし、それは簡単なことではなかった。店番をするだけでなく、配達や在庫の管理など諸々の仕事をすべてこなすことを意味しているからだ。
「私もできるだけ手伝いますから」
 學が、そう太くはない両腕に力こぶを作って笑った。
「ありがとう。でも君にも仕事と家庭があるから無理を頼むわけにはいかない。配達は醸にやらすようにするからなんとかなると思う」
「そうか、そうですね、醸君も立派な大人になったから私が出る幕はないですね。でも、もし人手が足りない時があればいつでも声をかけてください。私が行けない時は音をやりますから、遠慮なく言ってください」
 學は右手を左胸に置いて大きく頷いた。
「ありがとう。そう言ってもらえると安心して佐賀へ行けるよ。本当にありがとう」
 學に向って丁寧に頭を下げると、その横で百合子は崇よりも深く頭を下げた。

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