🍶 夢織旅 🍶 ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
3
パリから早く出なければならない。ここに長居するわけにはいかない。
咲は今後のことに思いを巡らせていた。渡仏した真の目的は父親の手伝いではなかったからだ。それは、幼い頃からの夢を実現するための挑戦だった。
咲は父親から聞いた泡酒のことを忘れたことはなかった。華村酒店に遊びに行くたびに父親と崇が泡酒のことを話していたことを覚えていた。「なんとかできないかな。あれなら飲めるんだけどな」と呟いた父親の残念そうな顔は、まだ瞼の裏に残っていた。
醸とお酒屋さんごっこをして遊んでいる時の会話もよく覚えていた。「大きくなったらなんになるの?」と醸に問われた咲は、「あわざけをつくる人になるの」と答えたこと、それを耳にした崇が「咲ちゃんならできるよ」と頭を撫でてくれたこと、「咲が造ってくれるのか、嬉しいな」と父親が顔をほころばせたことを鮮明に覚えていた。だから、東京醸造大学への進学や大学院での研究は咲にとって当然のことだった。
*
「よろしくお願い致します」
パリで父親の手伝いを始めて1年が過ぎた頃、咲はシャンパーニュ地方にいた。訪れたのは、白鳥開夢が経営するメゾンだった。瓶内二次発酵の技術を学びに来たのだ。
「泡酒ですか……」
開夢が驚きの声を発した。
「父に泡酒を飲ませたいのです」
咲は開夢に頭を下げた。
顔を上げると、開夢が手を差し出していた。
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。學さんに会社を助けてもらって、崇さんに蔵元を引き受けてもらって、それだけでも胸がいっぱいなのに、その上、咲さんが泡酒に挑戦してくれるなんて……。なんて言ったらいいかわからないくらい、ありがたいと思っています」
彼は咲のためにゲストルームを与えてくれた。その上、必要なものがあったら遠慮せずになんでも言って欲しいと、思いやりに満ちた言葉をかけてくれた。
咲がお礼を言うと、學や崇から受けた恩に比べたらたいしたことはないと、ちょっと照れたように笑った。
翌日の夜、奥さんが作る本格的なフランス料理で歓迎の宴が催された。
先ずは乾杯と、開夢の発声でグラスを合わせた。酒はホワイトバードだった。キレのいい酸味が咲の食欲をそそった。
「ボナペティ」
白い皿にはホワイトアスパラガスがシンプルに盛り付けられていた。ソースはオランデーズソースだという。卵黄とバターの風味をレモン果汁で引き締めた爽やかなソースだった。
おいしかった。それにホワイトバードが見事に合って、最高のマリアージュだった。そのせいでニンマリしていると、「次は驚くと思うよ」と開夢が意味深な言葉を投げてきた。
なんだろうと期待していると、運ばれてきた皿を見て思わず声を上げそうになった。
なんと美しい……、
言葉を失うくらい美しい盛り付けだった。十円玉サイズに切り抜かれた赤と緑の野菜がいくつも重ねられ、その上に塩と胡椒とバジルとオリーブオイルがふりかけてあるという。
「トマトとピーマンのタルトよ」
湯通ししたトマトとピーマンを溶かしバターに浸したもので、素材の良さが活かされていて美味だった。
それがまたホワイトバードに合うのだ。咲は思わず唸ってしまった。しかし、それはまだ序章でしか過ぎなかった。
「次は肉料理だから、赤ワインを用意するね」と足取り軽く台所のワインセラーへ向かった開夢が持ってきたのは、サン・テミリオンのグラン・クリュだった。
「今一番気に入っている赤ワインなんだ。咲さんも気に入ると思うよ」
ワイングラスの淵に沿って滑らかに注がれた黒紫色の液体が波打つのを見ていると、ボトルから解放された喜びを全身で表しているように思えて、少しの間見入ってしまった。
スワリングをして鼻を近づけると、樽由来のヴァニラの香りが甘く漂った。一口含むと、程よい酸味と果実味のバランスが良く、とても飲みやすかった。喉越しの余韻が長く続き、甘い香りと共に五感を満たしてくれた。
「メルロとカベルネ・ソーヴィニオンとカベルネ・フランのバランスが最高なんだよね。このアッサンブラージュ(ブレンド)は本当に素晴らしい」
満足そうに頷いたので頷き返すと、それを待っていたかのように次の料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。子羊のポテト添えよ。フォークだけで召し上がれ」
奥さんの説明に少し戸惑った。肉料理なのにナイフを使わないのはあり得ないことだったからだ。しかし、開夢が見本を見せるかのようにフォークを取ると、すっとほぐれた。
まったく力を入れていないのに……、
驚いていると、「7時間煮込んだから柔らかいでしょ」と説明してくれたので納得したが、実際にフォークでほぐして口に入れると柔らかく溶けて、その美味しさに脱帽してしまった。
「セ・デリシュー)♪」
フォークを置いて両頬を人差し指でぐりぐりすると、「それは、ボーノ」と奥さんに笑われた。それで恥ずかしくなったが、開夢が同じポーズをしてくれたので一気に場が明るくなった。
*
その頃、咲と入れ替わるようにして渡仏した音が『SAKE・BAR:FUJI&SAKURA』のカウンターにいた。大学院を卒業後、咲の後任として學の仕事を手伝っていたのだ。しかし、音もパリに長居するつもりはなく、ブルゴーニュ地方で修行することを考えていた。ワインの王とも呼ばれる、その気高い香りと味わいのブルゴーニュ・ワインに魅せられていたのだ。
醸が来れば……、
音は1年後を待ちわびていた。
パリから早く出なければならない。ここに長居するわけにはいかない。
咲は今後のことに思いを巡らせていた。渡仏した真の目的は父親の手伝いではなかったからだ。それは、幼い頃からの夢を実現するための挑戦だった。
咲は父親から聞いた泡酒のことを忘れたことはなかった。華村酒店に遊びに行くたびに父親と崇が泡酒のことを話していたことを覚えていた。「なんとかできないかな。あれなら飲めるんだけどな」と呟いた父親の残念そうな顔は、まだ瞼の裏に残っていた。
醸とお酒屋さんごっこをして遊んでいる時の会話もよく覚えていた。「大きくなったらなんになるの?」と醸に問われた咲は、「あわざけをつくる人になるの」と答えたこと、それを耳にした崇が「咲ちゃんならできるよ」と頭を撫でてくれたこと、「咲が造ってくれるのか、嬉しいな」と父親が顔をほころばせたことを鮮明に覚えていた。だから、東京醸造大学への進学や大学院での研究は咲にとって当然のことだった。
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「よろしくお願い致します」
パリで父親の手伝いを始めて1年が過ぎた頃、咲はシャンパーニュ地方にいた。訪れたのは、白鳥開夢が経営するメゾンだった。瓶内二次発酵の技術を学びに来たのだ。
「泡酒ですか……」
開夢が驚きの声を発した。
「父に泡酒を飲ませたいのです」
咲は開夢に頭を下げた。
顔を上げると、開夢が手を差し出していた。
「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。學さんに会社を助けてもらって、崇さんに蔵元を引き受けてもらって、それだけでも胸がいっぱいなのに、その上、咲さんが泡酒に挑戦してくれるなんて……。なんて言ったらいいかわからないくらい、ありがたいと思っています」
彼は咲のためにゲストルームを与えてくれた。その上、必要なものがあったら遠慮せずになんでも言って欲しいと、思いやりに満ちた言葉をかけてくれた。
咲がお礼を言うと、學や崇から受けた恩に比べたらたいしたことはないと、ちょっと照れたように笑った。
翌日の夜、奥さんが作る本格的なフランス料理で歓迎の宴が催された。
先ずは乾杯と、開夢の発声でグラスを合わせた。酒はホワイトバードだった。キレのいい酸味が咲の食欲をそそった。
「ボナペティ」
白い皿にはホワイトアスパラガスがシンプルに盛り付けられていた。ソースはオランデーズソースだという。卵黄とバターの風味をレモン果汁で引き締めた爽やかなソースだった。
おいしかった。それにホワイトバードが見事に合って、最高のマリアージュだった。そのせいでニンマリしていると、「次は驚くと思うよ」と開夢が意味深な言葉を投げてきた。
なんだろうと期待していると、運ばれてきた皿を見て思わず声を上げそうになった。
なんと美しい……、
言葉を失うくらい美しい盛り付けだった。十円玉サイズに切り抜かれた赤と緑の野菜がいくつも重ねられ、その上に塩と胡椒とバジルとオリーブオイルがふりかけてあるという。
「トマトとピーマンのタルトよ」
湯通ししたトマトとピーマンを溶かしバターに浸したもので、素材の良さが活かされていて美味だった。
それがまたホワイトバードに合うのだ。咲は思わず唸ってしまった。しかし、それはまだ序章でしか過ぎなかった。
「次は肉料理だから、赤ワインを用意するね」と足取り軽く台所のワインセラーへ向かった開夢が持ってきたのは、サン・テミリオンのグラン・クリュだった。
「今一番気に入っている赤ワインなんだ。咲さんも気に入ると思うよ」
ワイングラスの淵に沿って滑らかに注がれた黒紫色の液体が波打つのを見ていると、ボトルから解放された喜びを全身で表しているように思えて、少しの間見入ってしまった。
スワリングをして鼻を近づけると、樽由来のヴァニラの香りが甘く漂った。一口含むと、程よい酸味と果実味のバランスが良く、とても飲みやすかった。喉越しの余韻が長く続き、甘い香りと共に五感を満たしてくれた。
「メルロとカベルネ・ソーヴィニオンとカベルネ・フランのバランスが最高なんだよね。このアッサンブラージュ(ブレンド)は本当に素晴らしい」
満足そうに頷いたので頷き返すと、それを待っていたかのように次の料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。子羊のポテト添えよ。フォークだけで召し上がれ」
奥さんの説明に少し戸惑った。肉料理なのにナイフを使わないのはあり得ないことだったからだ。しかし、開夢が見本を見せるかのようにフォークを取ると、すっとほぐれた。
まったく力を入れていないのに……、
驚いていると、「7時間煮込んだから柔らかいでしょ」と説明してくれたので納得したが、実際にフォークでほぐして口に入れると柔らかく溶けて、その美味しさに脱帽してしまった。
「セ・デリシュー)♪」
フォークを置いて両頬を人差し指でぐりぐりすると、「それは、ボーノ」と奥さんに笑われた。それで恥ずかしくなったが、開夢が同じポーズをしてくれたので一気に場が明るくなった。
*
その頃、咲と入れ替わるようにして渡仏した音が『SAKE・BAR:FUJI&SAKURA』のカウンターにいた。大学院を卒業後、咲の後任として學の仕事を手伝っていたのだ。しかし、音もパリに長居するつもりはなく、ブルゴーニュ地方で修行することを考えていた。ワインの王とも呼ばれる、その気高い香りと味わいのブルゴーニュ・ワインに魅せられていたのだ。
醸が来れば……、
音は1年後を待ちわびていた。