【手直し中】野いちご源氏物語 〇二 帚木(ははきぎ)
日が暮れてきたころ、女房のひとりが重要なことに気づいた。
「源氏の君は内裏からこちらにお越しになりましたでしょう。占いで縁起の悪い方角に当たっております」
つまり今夜は左大臣邸にお泊まりになれない、ということ。
「あぁ、そうだった。どこに泊まったらよいだろう。今から移動するのは面倒だな」
源氏の君は寝室に入ってしまおうとなさる。
「縁起が悪うございますよ。いけません」
女房たちはお止めする。
するとある女房が、
「紀伊の守の屋敷はいかがでございましょう。左大臣のお役に立とうと、よくこちらに参っている者でございます。屋敷の近くの川から庭に水を引きこんで、涼しい工夫がしてあるようでございますよ」
と申し上げた。
「そうか、それはよい。疲れているから乗り物のまま入りたい」
ほっとしたようにうなずかれたけれど、本当は行き先なんて他にいくらでもある。あちこちに恋人がいらっしゃるのだもの。
でも、ひさしぶりに内裏から左大臣邸に来たのに、占いのせいで泊まりもしないで他の女の家へ行かれたとあっては、左大臣がお悲しみになるでしょう。それで気を遣われたのね。
源氏の君のご希望を伝えたところ、紀伊の守は承知しながらも心配した。
「私の継母が女房たちを連れて泊まりにきております。狭い家でございますので、失礼なことが起きてしまわないかどうか」
女房が源氏の君のお耳に入れると、
「それはよいことを聞いた。女の気配もしないような家では安心して眠れない。ついたての向こうに誰かがいるくらいがよい」
とおっしゃる。
「それならばよいお泊まり先でございましょう」
女房は苦笑いして、さっそく紀伊の守の屋敷へ使者をやった。
源氏の君はさりげなく出発なさる。
<たかが地方長官の屋敷に一晩泊まるだけだ。どうせ明日には戻ってくるのだから>
左大臣に挨拶はせず、お供もたくさんはお連れにならない。
紀伊の守は、
「お早いご到着だ」
と慌てるけれど、お供は気にせず乗り物を門の中へ入れる。
一番よい部屋が客室として整えてあった。
左大臣家の女房が言っていたとおり、庭には風情ある小川が流れている。わざと田舎風の庭にして、花壇もよく手入れされていた。
夜風が涼しい。虫の音がほのかに聞こえ、蛍があちこちに飛びかっている。すばらしい庭だった。
渡り廊下のようなところでお供はもてなしを受ける。その下から泉が涼しげに湧き出ていた。
紀伊の守はせわしなく働いている。
源氏の君は客室からのんびりと屋敷の様子をお眺めになった。
<中流の家とは、このくらいの家のことだろうか>
恋愛博士が「中流の家の姫君がおもしろい」と言っていたことを思い出される。
<紀伊の守の継母も泊まっているのだったな。結婚前は気位の高い姫君だと評判の人だったけれど>
気になって耳を澄ましてごらんになると、隣の部屋から人の気配がする。着物の音と若い声が聞こえた。
<きっと継母の女房たちだ>
源氏の君を意識して笑い声を抑えようとしている。その様子がわざとらしい。
部屋の境の戸から、灯りが少しだけ漏れている。源氏の君はそっと近づいて、覗けそうな隙間をお探しになるけれど見つからない。しばらく聞き耳を立てていらっしゃった。
女房たちのささやき声は、どうやら源氏の君の噂をしている。
「ずいぶん真面目そうになさっているわね。まだお若いのに立派な奥様をお持ちだなんてつまらない。でも、ひそかにあちこちの女性を恋人にしていらっしゃるみたいよ」
源氏の君は、
<まさかあのことを知っているのでは>
と息をのまれた。
女房たちは噂話を続ける。
「式部卿の宮様の姫君に恋文をお送りになったのですって。朝顔の花が添えてあったらしいわ。そこに書かれていた和歌はね」
と、以前源氏の君が女性に送った和歌を、ところどころ間違えながら披露する。
源氏の君は安心して、小さくため息をおつきになった。
<万が一にもあのことが世間に漏れて、こんなふうに噂になってしまったら>
想像するだけでぞっとしてしまう。
結局、女房たちの噂話はどうでもよい内容だった。
<奥ゆかしさの足りない女房たちだ。この程度の女房に世話されているのでは、継母もたいした人ではないだろう>
とがっかりなさる。
紀伊の守がやって来て、部屋の灯りをさらに明るくしてから果物を差し上げた。
「果物もよいが、寝室に貝は用意したか」
謎かけのように源氏の君はお尋ねになる。
「いえ、恐れながらどのような貝がお好みか伺っておりませんでしたので」
紀伊の守は分かったはずだけれど、知らん顔でかしこまっている。貝というのは、この場合、夜の相手をする女性のこと。
女性の用意がないことを知ると、源氏の君は縁側で横におなりになった。お酒を飲んでにぎやかだったお供たちの声も、だんだん静かになってくる。
屋敷にはかわいらしい少年が何人もいた。紀伊の守の子どももいれば、年の離れた弟もいる。十二、三歳のひときわ美しい子に源氏の君は目を留めて、
「この子はそなたの子か。それとも弟か」
とお尋ねになった。
「いえ、それは私の継母の弟でございます。父親を亡くしたため、姉である継母が引き取ったのです。なかなかよくできた子なので内裏で見習いとして働かせたいと思っておりますが、後見する父親がいなくては難しいようでございます」
「それは気の毒なことだ。たしかこの子の父親は、娘を入内させたいと亡くなる前に願い出ていたそうだね。帝も『あれから入内の話はどうなったのだろう』と気にしていらっしゃったが、そなたの継母になっていたとは。まだそのような年ではないだろうに。男女の縁は分からないものだな」
源氏の君は大人びたことをおっしゃる。
「入内するはずだったのが、突然父の後妻などになってしまいました。おっしゃるとおり男女の縁は不確かなものですが、特に女性は運命に翻弄されて気の毒なことも多いようでございます」
「そなたの父はさぞかし大切にしているであろう。まるで妻を主人と思って仕えているのではないか」
「はい。若い後妻に夢中になっているのがあまりに見苦しくて、私どもも困っております」
源氏の君はお笑いになる。
「年齢ではそなたの方が釣り合うくらいだろうが、そなたの父は男ぶりがよいからね。譲る気はあるまい」
紀伊の守の父親は年を取っているけれど、堂々とした色気のある人だった。
「今はどのあたりにいるのだ」
さりげなくお尋ねになる。
「別の建物に移ったはずでございますが、もしかしたら継母と一部の女房はこちらに残っているかもしれません」
紀伊の守がそうお答えしたころ、源氏の君のお供たちはすっかり寝息を立てはじめていた。
「源氏の君は内裏からこちらにお越しになりましたでしょう。占いで縁起の悪い方角に当たっております」
つまり今夜は左大臣邸にお泊まりになれない、ということ。
「あぁ、そうだった。どこに泊まったらよいだろう。今から移動するのは面倒だな」
源氏の君は寝室に入ってしまおうとなさる。
「縁起が悪うございますよ。いけません」
女房たちはお止めする。
するとある女房が、
「紀伊の守の屋敷はいかがでございましょう。左大臣のお役に立とうと、よくこちらに参っている者でございます。屋敷の近くの川から庭に水を引きこんで、涼しい工夫がしてあるようでございますよ」
と申し上げた。
「そうか、それはよい。疲れているから乗り物のまま入りたい」
ほっとしたようにうなずかれたけれど、本当は行き先なんて他にいくらでもある。あちこちに恋人がいらっしゃるのだもの。
でも、ひさしぶりに内裏から左大臣邸に来たのに、占いのせいで泊まりもしないで他の女の家へ行かれたとあっては、左大臣がお悲しみになるでしょう。それで気を遣われたのね。
源氏の君のご希望を伝えたところ、紀伊の守は承知しながらも心配した。
「私の継母が女房たちを連れて泊まりにきております。狭い家でございますので、失礼なことが起きてしまわないかどうか」
女房が源氏の君のお耳に入れると、
「それはよいことを聞いた。女の気配もしないような家では安心して眠れない。ついたての向こうに誰かがいるくらいがよい」
とおっしゃる。
「それならばよいお泊まり先でございましょう」
女房は苦笑いして、さっそく紀伊の守の屋敷へ使者をやった。
源氏の君はさりげなく出発なさる。
<たかが地方長官の屋敷に一晩泊まるだけだ。どうせ明日には戻ってくるのだから>
左大臣に挨拶はせず、お供もたくさんはお連れにならない。
紀伊の守は、
「お早いご到着だ」
と慌てるけれど、お供は気にせず乗り物を門の中へ入れる。
一番よい部屋が客室として整えてあった。
左大臣家の女房が言っていたとおり、庭には風情ある小川が流れている。わざと田舎風の庭にして、花壇もよく手入れされていた。
夜風が涼しい。虫の音がほのかに聞こえ、蛍があちこちに飛びかっている。すばらしい庭だった。
渡り廊下のようなところでお供はもてなしを受ける。その下から泉が涼しげに湧き出ていた。
紀伊の守はせわしなく働いている。
源氏の君は客室からのんびりと屋敷の様子をお眺めになった。
<中流の家とは、このくらいの家のことだろうか>
恋愛博士が「中流の家の姫君がおもしろい」と言っていたことを思い出される。
<紀伊の守の継母も泊まっているのだったな。結婚前は気位の高い姫君だと評判の人だったけれど>
気になって耳を澄ましてごらんになると、隣の部屋から人の気配がする。着物の音と若い声が聞こえた。
<きっと継母の女房たちだ>
源氏の君を意識して笑い声を抑えようとしている。その様子がわざとらしい。
部屋の境の戸から、灯りが少しだけ漏れている。源氏の君はそっと近づいて、覗けそうな隙間をお探しになるけれど見つからない。しばらく聞き耳を立てていらっしゃった。
女房たちのささやき声は、どうやら源氏の君の噂をしている。
「ずいぶん真面目そうになさっているわね。まだお若いのに立派な奥様をお持ちだなんてつまらない。でも、ひそかにあちこちの女性を恋人にしていらっしゃるみたいよ」
源氏の君は、
<まさかあのことを知っているのでは>
と息をのまれた。
女房たちは噂話を続ける。
「式部卿の宮様の姫君に恋文をお送りになったのですって。朝顔の花が添えてあったらしいわ。そこに書かれていた和歌はね」
と、以前源氏の君が女性に送った和歌を、ところどころ間違えながら披露する。
源氏の君は安心して、小さくため息をおつきになった。
<万が一にもあのことが世間に漏れて、こんなふうに噂になってしまったら>
想像するだけでぞっとしてしまう。
結局、女房たちの噂話はどうでもよい内容だった。
<奥ゆかしさの足りない女房たちだ。この程度の女房に世話されているのでは、継母もたいした人ではないだろう>
とがっかりなさる。
紀伊の守がやって来て、部屋の灯りをさらに明るくしてから果物を差し上げた。
「果物もよいが、寝室に貝は用意したか」
謎かけのように源氏の君はお尋ねになる。
「いえ、恐れながらどのような貝がお好みか伺っておりませんでしたので」
紀伊の守は分かったはずだけれど、知らん顔でかしこまっている。貝というのは、この場合、夜の相手をする女性のこと。
女性の用意がないことを知ると、源氏の君は縁側で横におなりになった。お酒を飲んでにぎやかだったお供たちの声も、だんだん静かになってくる。
屋敷にはかわいらしい少年が何人もいた。紀伊の守の子どももいれば、年の離れた弟もいる。十二、三歳のひときわ美しい子に源氏の君は目を留めて、
「この子はそなたの子か。それとも弟か」
とお尋ねになった。
「いえ、それは私の継母の弟でございます。父親を亡くしたため、姉である継母が引き取ったのです。なかなかよくできた子なので内裏で見習いとして働かせたいと思っておりますが、後見する父親がいなくては難しいようでございます」
「それは気の毒なことだ。たしかこの子の父親は、娘を入内させたいと亡くなる前に願い出ていたそうだね。帝も『あれから入内の話はどうなったのだろう』と気にしていらっしゃったが、そなたの継母になっていたとは。まだそのような年ではないだろうに。男女の縁は分からないものだな」
源氏の君は大人びたことをおっしゃる。
「入内するはずだったのが、突然父の後妻などになってしまいました。おっしゃるとおり男女の縁は不確かなものですが、特に女性は運命に翻弄されて気の毒なことも多いようでございます」
「そなたの父はさぞかし大切にしているであろう。まるで妻を主人と思って仕えているのではないか」
「はい。若い後妻に夢中になっているのがあまりに見苦しくて、私どもも困っております」
源氏の君はお笑いになる。
「年齢ではそなたの方が釣り合うくらいだろうが、そなたの父は男ぶりがよいからね。譲る気はあるまい」
紀伊の守の父親は年を取っているけれど、堂々とした色気のある人だった。
「今はどのあたりにいるのだ」
さりげなくお尋ねになる。
「別の建物に移ったはずでございますが、もしかしたら継母と一部の女房はこちらに残っているかもしれません」
紀伊の守がそうお答えしたころ、源氏の君のお供たちはすっかり寝息を立てはじめていた。