元・婚約者の前で王太子殿下の専属護衛を務めることになりました
イングリッドは、王宮の中を奥へ奥へと進んでいた。
ここは誰でも入ってこられる区域ではない。
しかし、王宮護衛官の制服に身を包んでいる彼女は、ある部屋の前に到着するまで迷うことなく歩いた。
「王太子殿下が私を『お呼び』だと伺ったのですが」
クリストフ王太子の側近がにこやかに対応する。
「はい。こちらにお掛けになってお待ちください」
お茶の用意までし始めてくれている。
ということは、話は長くなるのだろうか……
間もなくクリストフは現れた。
イングリッドが腰を上げようとしたところで、すぐに止められた。
「座ったままでいいよ」
クリストフもイングリッドの正面にすぐさま座った。
イングリッドは戸惑った。
遊びの延長で一緒に剣の訓練をして育った幼なじみとして振る舞ってよいものなのか、それとも王宮護衛官らしく弁えた行動を取るべきなのか……
王宮護衛官となったことで、それこそ毎日のように会うようになった。
女性の護衛官は少なく、女性王族の身辺警護に指名されることが多いのだが、なぜかイングリッドに限ってはそれが当てはまらなかった。
会う頻度だけなら、以前よりも多い。
しかし昔のような距離感は失われた。
これほど近くにいるのもいつ以来のことなのか。
ましてや1対1で話すことなど──
「シェンヒュラー侯爵の具合はどう?」
「えっ、あ、相変わらずです。怪我のほうは、落ち着いているというか、まあ……」
答えながら顔が強張るのを感じた。
シェンヒュラー侯爵というのは、イングリッドの父親のことだ。
シェンヒュラー家当主は代々、王国の西部を守護するコランダム騎士団の長となり、統率してきた。
イングリッドの父親ももちろんそうだった。
思いがけない不幸が降ってきたのは、1年ほど前のことだ。
西の隣国が我が国に宣戦布告し、攻めてきたのだ。
半年もの間コランダム騎士団は最前線で戦い、領土を守り抜いた。
しかし、それと引き換えに、父親は利き腕を失った。
そうして停戦条約が締結されるのを見届けた後、騎士団長の任を降りた。
「そっか、そうだよね……ところで、年明けに開催予定の建国記念パーティーのことなんだけど……」
ああ本題が来た、と身構えた。
クリストフはあの件を知っているのだ。
それでイングリッドのことをこうして呼び出したのだ。
恥ずかしさで消えてしまいたかった。
「その日は、会場周辺の警備を担当することになっています」
そうさせてもらったのだ。
塞ぎ込んでいる父親が欠席するであろうことは、容易に想像できた。
なら、せめて自分とほかの家族だけでも出席するべきだろう、と頭では理解していた。
しかし、感情がそれを許してくれなかった。
イングリッドは逃げることを選択したのだった。
父親が引退したあと、コランダム騎士団長の席は未だ埋まっていない。
副団長が代理を務めているが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
このままでは、シェンヒュラー侯爵家以外の家門から騎士団長が任命されることになる──
それを食い止めるために、女性であるイングリッドに取れる唯一の手段が婚姻だった。
女性では、騎士団長になることはおろか、騎士団に入団することすら叶わないからだ。
そもそもイングリッドにはドミニクという名の婚約者がいた。
騎士として将来を嘱望されていたドミニクとは、男児に恵まれなかったシェンヒュラー家の入婿になってもらおう、という腹積もり込みで婚約した。
今回のことがあり、自然な形でふたりの結婚の時期を早めようという話が持ち上がった。
しかし、まさか2つ下の異母妹ジャクリーンにドミニクを奪われることになろうとは!
急転直下の出来事だった。
……継母の入れ知恵もあったのだろうか?
イングリッドの実母は、イングリッドを出産した際の事故で亡くなってしまった。
後継となる男児が必要だった父親は喪が明けるとすぐに再婚した。
薄情だと責めるつもりはない。
そういうものだ。
しかし、継母もまたジャクリーンを授かったのみで、男児を産むことはなかった。
『そのうちに……』と皆は口を揃えて言ったが、一向にその日は来なかった。
だから前例がないことと知っていたが、まだ子どもだったイングリッドは自分が騎士になろうと決意した。
そうして剣の修行に励んだが、現実は努力ではどうにもならなかった。
そうしてイングリッドは、女性にも門戸が開かれていた王宮護衛官の職に就いた。
それとほぼ同じ時期に、父親の指示に従い、伯爵家の三男であるドミニクと婚約した。
どこか残念な気持ちはしたが、シェンヒュラー侯爵家とコランダム騎士団の未来が守られるのだと納得した。
あのとき、シェンヒュラー侯爵家を継げなくとも、ドミニクを支えることで間接的に守っていこう、と固く誓ったはずだった──
継母は昔は優しい人だった。
古い記憶の中では、自分とジャクリーンを分け隔てなく可愛がってくれていた。
変わってしまったのはいつからだろう?
ジャクリーンはイングリッドとは違い、剣を握ったこともない。
いつの頃からか、継母はジャクリーンとイングリッドを比較し、イングリッドに嫌味を言うようになった。
ジャクリーンも母親に呼応するかのように、姉のことを見下す言動を見せ始めた。
男児に産まれてこなかったばかりに、騎士団に入ることも侯爵家を継ぐこともできず、それでも剣にしがみつき、王宮護衛官となったイングリッド。
男児を出産するために嫁いできたにも拘らず、女児しか産めず、それでも不在がちな夫に代わって、家の管理を担ってきた継母。
そのふたりが、どうしてうまくいかないのか──
父親のことがあってからは、継母は一層イングリッドにツラく当たるようになった。
家の中の空気は悪くなる一方だった。
そんな折に聞かされたのが、イングリッドとドミニクの婚約が破棄されて、代わりにジャクリーンとドミニクが婚約する、というとんでもない話だった。
ドミニクが移り住んでくる前にあの家を出たい。
しかし、王宮に通勤できて、イングリッドだけでも安心して住めるような都合のよい家が果たして見つかるかどうか……
今の状態の父親に相談しなければならないことも億劫に感じられる。
ドミニクのことは好いていたわけではない。
イングリッドには、幼い頃からずっと想い続けている人がいたのだ。
叶うことはないと知っていた。
叶うことを願ったことすらない。
幼なじみ以上の関係など望んでいなくて──
「イングリッド?」
「は、はい!」
「それ、配置替えになったから。イングリッドには、僕の専属護衛をしてもらおうと思ってるんだけど、」
「えっ⁉︎ それはどういう……」
ジャクリーンとドミニクが婚約してから初めて王宮で開催されるパーティー。
ジャクリーンとドミニク、そしてイングリッドは注目を集めてしまうことだろう。
だからこそ、会場には入らなくて済む周辺警備にまわしてもらったはずだった。
それが、王太子の専属護衛とは一体……
「近隣諸国からもゲストを招いているんだけど、ほら、関係が安定しているとは言い難い国もあるから……」
イングリッドの父親の腕を奪った国にも招待状を送った、という意味だろう。
「君の上司と、それからシェンヒュラー侯爵にはすでに話を通してあるから」
どうして父親の名前がここで出てくるのか……
けれど、ほかに返事のしようがない。
「でしたら……承知しました」
「よかった!」
クリストフは破顔し、2回ほど大きく手を叩いた。
「皆さん、よろしくお願いします!」
隣室のドアが大きく開いた。
と同時にメイドたちが雪崩れ込んできて、イングリッドを取り囲んだ。
最後にメジャーを手にした女性が、ゆっくりとした足取りで入ってきた。
「あ、あの……?」
「ドレスの採寸だよ」
状況が飲み込めないイングリッドに、クリストフはそう説明した。
「ど、ドレス? な、何を言って……」
「二の腕の筋肉は目立たないデザインにしてくださいね」
どうやらクリストフはこれ以上、イングリッドに話してくれるつもりはないらしい。
「はい、お任せください」
「それと、隣に並ぶ彼女のことを大いに自慢したいんで、彼女の魅力を最大限に引き出して」
「もちろんそのつもりにございます」
メジャーをもった女性は自信たっぷりに微笑んで、チェーンで胸にかけていたメガネを鼻に乗せたのだった──
END
ここは誰でも入ってこられる区域ではない。
しかし、王宮護衛官の制服に身を包んでいる彼女は、ある部屋の前に到着するまで迷うことなく歩いた。
「王太子殿下が私を『お呼び』だと伺ったのですが」
クリストフ王太子の側近がにこやかに対応する。
「はい。こちらにお掛けになってお待ちください」
お茶の用意までし始めてくれている。
ということは、話は長くなるのだろうか……
間もなくクリストフは現れた。
イングリッドが腰を上げようとしたところで、すぐに止められた。
「座ったままでいいよ」
クリストフもイングリッドの正面にすぐさま座った。
イングリッドは戸惑った。
遊びの延長で一緒に剣の訓練をして育った幼なじみとして振る舞ってよいものなのか、それとも王宮護衛官らしく弁えた行動を取るべきなのか……
王宮護衛官となったことで、それこそ毎日のように会うようになった。
女性の護衛官は少なく、女性王族の身辺警護に指名されることが多いのだが、なぜかイングリッドに限ってはそれが当てはまらなかった。
会う頻度だけなら、以前よりも多い。
しかし昔のような距離感は失われた。
これほど近くにいるのもいつ以来のことなのか。
ましてや1対1で話すことなど──
「シェンヒュラー侯爵の具合はどう?」
「えっ、あ、相変わらずです。怪我のほうは、落ち着いているというか、まあ……」
答えながら顔が強張るのを感じた。
シェンヒュラー侯爵というのは、イングリッドの父親のことだ。
シェンヒュラー家当主は代々、王国の西部を守護するコランダム騎士団の長となり、統率してきた。
イングリッドの父親ももちろんそうだった。
思いがけない不幸が降ってきたのは、1年ほど前のことだ。
西の隣国が我が国に宣戦布告し、攻めてきたのだ。
半年もの間コランダム騎士団は最前線で戦い、領土を守り抜いた。
しかし、それと引き換えに、父親は利き腕を失った。
そうして停戦条約が締結されるのを見届けた後、騎士団長の任を降りた。
「そっか、そうだよね……ところで、年明けに開催予定の建国記念パーティーのことなんだけど……」
ああ本題が来た、と身構えた。
クリストフはあの件を知っているのだ。
それでイングリッドのことをこうして呼び出したのだ。
恥ずかしさで消えてしまいたかった。
「その日は、会場周辺の警備を担当することになっています」
そうさせてもらったのだ。
塞ぎ込んでいる父親が欠席するであろうことは、容易に想像できた。
なら、せめて自分とほかの家族だけでも出席するべきだろう、と頭では理解していた。
しかし、感情がそれを許してくれなかった。
イングリッドは逃げることを選択したのだった。
父親が引退したあと、コランダム騎士団長の席は未だ埋まっていない。
副団長が代理を務めているが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
このままでは、シェンヒュラー侯爵家以外の家門から騎士団長が任命されることになる──
それを食い止めるために、女性であるイングリッドに取れる唯一の手段が婚姻だった。
女性では、騎士団長になることはおろか、騎士団に入団することすら叶わないからだ。
そもそもイングリッドにはドミニクという名の婚約者がいた。
騎士として将来を嘱望されていたドミニクとは、男児に恵まれなかったシェンヒュラー家の入婿になってもらおう、という腹積もり込みで婚約した。
今回のことがあり、自然な形でふたりの結婚の時期を早めようという話が持ち上がった。
しかし、まさか2つ下の異母妹ジャクリーンにドミニクを奪われることになろうとは!
急転直下の出来事だった。
……継母の入れ知恵もあったのだろうか?
イングリッドの実母は、イングリッドを出産した際の事故で亡くなってしまった。
後継となる男児が必要だった父親は喪が明けるとすぐに再婚した。
薄情だと責めるつもりはない。
そういうものだ。
しかし、継母もまたジャクリーンを授かったのみで、男児を産むことはなかった。
『そのうちに……』と皆は口を揃えて言ったが、一向にその日は来なかった。
だから前例がないことと知っていたが、まだ子どもだったイングリッドは自分が騎士になろうと決意した。
そうして剣の修行に励んだが、現実は努力ではどうにもならなかった。
そうしてイングリッドは、女性にも門戸が開かれていた王宮護衛官の職に就いた。
それとほぼ同じ時期に、父親の指示に従い、伯爵家の三男であるドミニクと婚約した。
どこか残念な気持ちはしたが、シェンヒュラー侯爵家とコランダム騎士団の未来が守られるのだと納得した。
あのとき、シェンヒュラー侯爵家を継げなくとも、ドミニクを支えることで間接的に守っていこう、と固く誓ったはずだった──
継母は昔は優しい人だった。
古い記憶の中では、自分とジャクリーンを分け隔てなく可愛がってくれていた。
変わってしまったのはいつからだろう?
ジャクリーンはイングリッドとは違い、剣を握ったこともない。
いつの頃からか、継母はジャクリーンとイングリッドを比較し、イングリッドに嫌味を言うようになった。
ジャクリーンも母親に呼応するかのように、姉のことを見下す言動を見せ始めた。
男児に産まれてこなかったばかりに、騎士団に入ることも侯爵家を継ぐこともできず、それでも剣にしがみつき、王宮護衛官となったイングリッド。
男児を出産するために嫁いできたにも拘らず、女児しか産めず、それでも不在がちな夫に代わって、家の管理を担ってきた継母。
そのふたりが、どうしてうまくいかないのか──
父親のことがあってからは、継母は一層イングリッドにツラく当たるようになった。
家の中の空気は悪くなる一方だった。
そんな折に聞かされたのが、イングリッドとドミニクの婚約が破棄されて、代わりにジャクリーンとドミニクが婚約する、というとんでもない話だった。
ドミニクが移り住んでくる前にあの家を出たい。
しかし、王宮に通勤できて、イングリッドだけでも安心して住めるような都合のよい家が果たして見つかるかどうか……
今の状態の父親に相談しなければならないことも億劫に感じられる。
ドミニクのことは好いていたわけではない。
イングリッドには、幼い頃からずっと想い続けている人がいたのだ。
叶うことはないと知っていた。
叶うことを願ったことすらない。
幼なじみ以上の関係など望んでいなくて──
「イングリッド?」
「は、はい!」
「それ、配置替えになったから。イングリッドには、僕の専属護衛をしてもらおうと思ってるんだけど、」
「えっ⁉︎ それはどういう……」
ジャクリーンとドミニクが婚約してから初めて王宮で開催されるパーティー。
ジャクリーンとドミニク、そしてイングリッドは注目を集めてしまうことだろう。
だからこそ、会場には入らなくて済む周辺警備にまわしてもらったはずだった。
それが、王太子の専属護衛とは一体……
「近隣諸国からもゲストを招いているんだけど、ほら、関係が安定しているとは言い難い国もあるから……」
イングリッドの父親の腕を奪った国にも招待状を送った、という意味だろう。
「君の上司と、それからシェンヒュラー侯爵にはすでに話を通してあるから」
どうして父親の名前がここで出てくるのか……
けれど、ほかに返事のしようがない。
「でしたら……承知しました」
「よかった!」
クリストフは破顔し、2回ほど大きく手を叩いた。
「皆さん、よろしくお願いします!」
隣室のドアが大きく開いた。
と同時にメイドたちが雪崩れ込んできて、イングリッドを取り囲んだ。
最後にメジャーを手にした女性が、ゆっくりとした足取りで入ってきた。
「あ、あの……?」
「ドレスの採寸だよ」
状況が飲み込めないイングリッドに、クリストフはそう説明した。
「ど、ドレス? な、何を言って……」
「二の腕の筋肉は目立たないデザインにしてくださいね」
どうやらクリストフはこれ以上、イングリッドに話してくれるつもりはないらしい。
「はい、お任せください」
「それと、隣に並ぶ彼女のことを大いに自慢したいんで、彼女の魅力を最大限に引き出して」
「もちろんそのつもりにございます」
メジャーをもった女性は自信たっぷりに微笑んで、チェーンで胸にかけていたメガネを鼻に乗せたのだった──
END


