嫌われ元令嬢の私に愛をくれたのは、婚約者の顔をした悪魔でした【1話だけ大賞】
「愛している」

 私は……愛されたかった。

 私がまだ幼なく、伯爵令嬢()()()頃、両親が事故で亡くなった。
 父の爵位を継いだ叔父は、私たち家族が住んでいた屋敷に引っ越してきて、様々な模様替えをしていった。
 質素ながらも品のある屋敷の装いは、金に物を言わせた過剰な装飾を誇る屋敷へと。
 心遣いの優しい使用人たちは、叔父や叔母、従姉の顔色を伺うひとたちへと。
 花の咲き誇る小さな庭園が見える眺めの良い私の部屋は私物ごと取り上げられて、従姉の部屋に変わってしまった。
 幼少期の平穏に暮らしていた頃の面影は、もう屋敷には残っていない。

 辛うじて私に許されたのは、その日着ていた衣装と、はめていた婚約指輪。
 そして……私を嫌う婚約者だけ。
 日がほとんど当たらない薄暗い部屋に追いやられて、私は生まれ育った屋敷の中で孤立していった。
 両親を亡くして行き場を失った元伯爵令嬢(厄介者)の私を住まわせてくれるだけ、まだ幸福なのかもしれない。

 そんな私だから、味方はひとりもいない。
 貴族令嬢として無力になってしまった私のことを、皆は疎ましく思っている。
 叔父一家も、使用人も……そして、婚約者でさえも。

 だから……愛されたかった。誰でも良い。
 私だけを心から愛してくれて、心を満たしてくれる……気持ちを預けられる存在と、出会いたかった。
 こんなに卑しい思いを抱えているから、きっと私は誰にも好かれないのだろう。
 だけど……。

「愛しているよ、ルシェ」

 紫と桃色の薔薇の花びらを煮詰めたような、この世のものとは思えないほど淡くて幻想的な彩りを描く空の下。
 見知らぬ男が、私の左手の薬指にはめた婚約指輪へと口づけをする。

 長らく呼ばれていなかった愛称を愛と共に囁かれて、心が浮き立つ気がした。
 婚約者がいる身でありながらも、触れられた男の手は不思議と拒否感がない。
 それは、私が薄情で浅ましいから。

 男が口づけした指輪は、婚約者がしかめっ面に淡々とした口調で私の薬指にはめた婚約指輪。

『……ルシエーラ。君を生涯に渡って愛し、守ると誓う』

 そう言ってくれた婚約者だけれども、きっと内心では別のことを考えていたのだと思う。
 婚約を交わして以降、顔を合わせた彼からは険しい顔をされている。
 それだけじゃなくて、会いに来るのも最低限で、手紙を送っても返事が返ってこない。
 彼に愛されたと感じる日は一度もなく、私も彼を愛したいとは思わないようにしていた。
 愛し合いたと願うほど、愛されないことの虚しさが胸に突き刺さるから……。

 白銀の髪に空の色と同じ目をした男の顔は、不思議とどこか婚約者に似ているような気がする。
 精悍な顔立ちに、特徴的な右目の泣きぼくろが一致している。
 婚約者と違うのは、髪と目の色、優し気な表情と甘えるような声色に、そして私を見つめる熱のこもった眼差し。

 婚約者ではないのに、あまりにも彼と似ていて……。
 あのひとに愛されているように思えてしまい、胸がギュッと締め付けられる。

 違う。私は、誰にも愛されない。

「俺は君を愛しているんだ、ルシェ」

 私の自己否定を、更なる否定で上書きするように男が耳元で甘く囁く。

 これはきっと、私の願望が生み出した幻影。
 空想でないのなら……きっと、彼は淫魔だろう。
 愛を渇望する私を誘惑するために、婚約者の姿を模した悪魔。
 もし男が本当に悪魔なのだとしたら、彼に心を許してはいけない。愛を求めてはいけない。
 私の空虚さを埋めてくれる存在だとしても、決して、愛してほしいと思ってはいけない。

 誰の役にも立たない私は、愛される資格がないから。

 そう思った瞬間、男が私を抱きしめた。

「ルシェ、俺を……俺の愛を、否定しないで」

 漂う甘い香りは、きっと周囲に咲き誇る紫と桃色が溶け込んだような色の薔薇のもの。
 遠い昔へと置き去りにしてしまったような、どこか懐かしくて胸が苦しくなるような香り。
 そこへ、悲し気で切ない声色と男の体温が加わって、不思議と囁かれたこちらが涙をこぼしそうになる。

 皆に疎まれている私を、愛してくれるの?
 誰からも愛されない醜い私を、愛してくれるの?

「ルシェは醜くなんかないよ」

 言葉にせずとも、男は私の心を読み取ってくれた。

「とても可愛い。君が誰よりも愛おしくて……食べてしまいたいくらいに」

 男はどこか苦しそうに微笑むと、私の唇に指先でそっと触れる。
 それはきっと、受け入れてほしいと言う彼からの合図。
 愛されたかった私は、どうしても婚約者(愛してほしかったひと)の姿をした悪魔を拒むことは出来ない。

「私を……愛してくれますか?」

 愛してくれると言うひとが、本当の婚約者であったらどんなに良かっただろう。
 そう思う私の目尻に溜まった涙を、彼が指で拭った。

「……ごめんね」

 その謝罪は、彼が私の婚約者の姿を模しているからだろうか。
 彼は私の顎にその指先で触れると、優しく口づけを交わした。

「ルシェ。覚えていて、俺が愛していることを……」

 愛情に飢えて飢えて、心が悲しみで枯れ果ててしまいそうだったからこそ。
 得体の知れぬ彼の愛に、私は縋りついてしまった。

「愛されているということを……忘れないでくれ……」



 淫魔と思しき男との愛に溺れた出来事は……あまりの人恋しさに私が見た夢だった、らしい。

 起床後に私が涙した理由は、嫁入り前の令嬢にあるまじき猥らな夢を見たからか、情熱的に愛を囁いてくれた人物が幻想だと気付いたからか、それとも……。

「……本当に私を愛してくれるひとは、いないのだわ……」

 孤独であることを自覚してしまったから、かもしれない。
 婚約指輪に軽く口づけをすると、不思議と薔薇の甘い香りの残滓を感じた。

 ルシエーラ・ソルラヴィリエル。それが両親が亡くなる前までの私のフルネームだった。
 今はただのルシエーラ。ソルラヴィリエル伯爵家の居候。

 私の婚約者は、ギルドレッド・パルヴァスティルダ公爵令息。
 パルヴァスティルダ公爵の長男で、騎士団の副団長を務めている。
 剣術だけでなく魔術にも長けた、一流の騎士。
 王家の流れをくむ上流貴族の彼に、父を亡くして伯爵家の居候となった私は釣り合わない。
 公爵令息の婚約者にあなたは相応しくない、と従姉から常に言われているが、私だってそう思っている。
 けれども、彼から婚約破棄ないし、解消を申し出られたことは一度もない。
 ……嫌われているのに。

 短めの金髪に紫色の瞳のギルドレッド様は、整った顔立ちに上流貴族であることから女性たちからは大人気だ……と従姉が言っていた。
 そんな彼の表情は、いつも険しい。
 他の人と会話するときは、今よりも表情が柔らかくて、会話だって気軽にしていると言うのに。
 私と向き合うと、眉間に皺が寄って何も喋らなくなってしまう。
 ……やっぱり、一緒にいたくないと態度に出るほど嫌われている。
 どうして彼は、私と婚約関係を続けているのだろう。

 婚約者としての義務がない限りは、私とギルドレッド様は滅多に顔を合わせない。
 そんな婚約者が一か月ぶりに伯爵家へやってきて、彼の従者が手にしていた荷物を私に差し出した。

「……これをやる」

 叔父宛の荷物だろうか。受け取っていいか戸惑ってしまった私は、彼を見つめて問いかけた。

「……あの、こちらは一体……?」

 ギルドレッド様と目が合ったのは一瞬のことで、すぐに顔を背けられてしまう。

「開けてみろ」
「えっ……? 私が開けても良いのでしょうか?」
「他に誰がいる?」
「叔父様たちへの贈り物……ではないのですか?」
「……は? 馬鹿を言うな。これはお前のものだ。早く中を(あらた)めろ」

 てっきり、叔父一家への贈り物だと思ったけれども、違うらしい。
 ということは、ギルドレッド様から久しぶりの贈り物を頂くことになる。

「あっ、ありがとうございます……!」

 白い包装紙に結ばれた紫色のリボンをゆっくりと解くと、無音の室内にしゅるりと音が響いて、箱が姿を現す。
 一体何が入っているのだろう。
 両親を亡くして以降初めて手にした贈り物に対して湧き上がる好奇心が、もしかしたら私の心と頬を緩ませてしまったのかもしれない。

「……はぁ」
「……!」

 退屈に感じたのか、ギルドレッド様が溜め息をついた。
 待たせてしまってはいけないと思った私は、急いで包装を解いて、箱を開ける。
 すると、中にあったのは……。

「ドレス……ですか?」
「ああ」

 箱から出すのも恐れ多いくらいに、白と淡い紫色の高価そうなドレスに触れられずに恐れおののいていると、ギルドレッド様が横から手を伸ばしてドレスを広げた。
 裾や袖の上品なレースがふわりとしたシルエットを見せる、金薔薇の刺繍が編み込まれたドレスは、可愛くてとても綺麗。
 私が今着ている着古して色落ちしかけた普段着用のドレスとは違う、ここ数年は着ることのなかった憧れの外出用のドレスが目の前にある。

 だけど……。

「あの、こんなに高価なもの……頂けません……」
「……私の贈り物が受け取れないのか?」
「い、いえ。そういう訳ではないのですが……」

 令嬢ではなくなって、伯爵家の居候と化した私には、過ぎた代物だから。
 鋭い顔つきで私を睨みつけるギルドレッド様には、そう言い返すことは出来ない。

「……今度のガーデンパーティーにこれを着て来い」
「ガーデンパーティー……ですか? ギルドレッド様とのお茶会ではなく……?」
「いや。パルヴァスティルダ家の親戚の主催だ」
「私が行っても、良いのでしょうか?」

 いつもはギルドレッド様が伯爵家にやってくるため、ふたりで外出することも珍しい。
 だから私は思わず問いかけてしまった。

「お前は私の婚約者だろう」
「そう……ですね」

 あなたに私が相応しいとは、思えないけれども。
 ギルドレッド様からドレスを受け取った私は、白と紫に彩られた姿を近くの窓ガラスへ映してみた。

「……」
「……」

 私の髪は灰色にくすんでいて、叔父一家からはみすぼらしいと言われている。
 蒼い瞳にパッとしない顔だって、元貴族令嬢にしては地味な作り。

 私に、この愛らしいドレスは似合いますか?
 ふつうの婚約関係の男女なら、そういった会話のひとつくらいはするのだろう。
 けれども、窓ガラス越しに見えるギルドレッド様は顔をしかめていて、気軽に問いかけることは出来ない。

 光が差し込むと、ドレスの紫がかった部分がほんのりと桃色を帯びる。
 夢で見た、紫色に溶け込む甘い桃の彩り。
 ガラス越しにドレスを重ねてみると、まるであの夜出会ったひとに優しく抱かれているように感じてしまって……。

「……っ。ありがとう、ございます」

 顔が赤くなっていくのを自覚して、私は誤魔化すように箱にドレスを仕舞い込んだ。

 それからギルドレッド様とは、いつものように無言のお茶会を過ごした。

「今日はお越し頂き有難うございました」
「次はガーデンパーティーだ。あのドレスを着るのを忘れぬように」
「はい」

 ふと、私は見送りの際にじっと彼の顔を見つめた。
 やっぱり、夢の男とよく似た顔。
 顔形も、ほくろの位置も、髪の長さは……そう言えばよく見ていなかったけれども。
 けれども私に向けられる表情は真逆。
 あの時の彼が、私の婚約者だったら良かったのに。
 私はふと、そう思ってしまった。

「……なんだ?」
「……いいえ。不躾に見つめてしまい、申し訳ありません……」

 見つめていると、ギルドレッド様に睨みつけられてしまった。

「はぁ。…………ルシエーラ」
「っ」

 溜め息に続いて不満そうに名前を呼ばれて、ツキリと胸が痛む。
 嫌われていると余計に自覚させられてしまったからだろうか。

 彼は私の左手を取って、その口元に運ぼうとする。
 親愛の挨拶をしようとしたのかもしれない。けれども……。

「やっ!」
「ッ!?」

 思わず、ギルドレッド様の手を跳ね除けてしまった。

「も、申し訳ありません……!」
「……………………」

 我に返って謝罪をしたけれども、跳ね除けられたギルドレッド様は唖然としていた。

「あ、あの……ギルドレッド様?」
「…………いや、突然手を取った私が悪かった」
「いえ、ギルドレッド様の手を払うなど……恐れ多いことをしてしまい、申し訳ありません」
「…………問題ない。気にするな」

 やっとのことで動き始めたギルドレッド様は、今まで以上に動きがぎこちなくなっていた。
 固い動きのまま馬車に乗り、別れの際で彼はこう言った。

「…………婚約指輪は肌身離さず着けていろ」
「……はい。道中お気をつけて、お帰りください」

 本当は、頷かずに指輪を返して、婚約破棄を提案出来たらどんなに良かっただろう。
 けれども、私から婚約破棄の申し出なんて出来ない。

『覚えていて、俺が愛していることを……』

 遠ざかっていく馬車を見送りながら、私は指輪を撫でる。
 これはギルドレッド様との婚約の証。
 けれどもそれ以上に、夢の彼と私を繋ぐ唯一の足掛かりのような気もした。

「夢じゃないのなら、また会えますか……?」

 冷たい眼差しで私を睨むギルドレッド様ではなく、空想の中に生まれた愛を囁いてくれるあのひとに会いたい。
 私の心の隙間を埋めて、満たしてほしい。
 それ以上は何も望まないから……。

 遠い彼に思いを馳せていると、指輪の台座にはめられた婚約者の瞳と同じ色の宝石に、仄かに桃色が滲んだように見えた。

 この時の私は、想像もしていなかった。

 ギルドレッド様が私のことを、本当はどう思っていたのかを。
 そして……私が子を身ごもってしまう、ということを……。
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