求婚は突然に…       孤独なピアニストの執着愛

突然の同棲

紫音は密かに嬉しくて、こんな時なのに…彼女に対して不謹慎だと自らを律しながら、それでも抑えられないほどの喜びに、胸の内は震えた。

今まで、出会ってから一度も心奈からすり寄って来る事なんて無かった。

何よりも誰よりも大事にしたい彼女だから、これまで、慎重に壊れ物に触れるかのように扱ってきた。

全ては彼女の病気の為…怖がらせ嫌われたら最後だと、恐れ慄き、自分でも滑稽なほどに慎重になっていた。

その彼女が自ら自分の身を俺に預けてくれたのだ。
その小さくて可愛らしい生き物をそっと抱きしめながら、やっとここまで信頼を得たのだと噛み締めていた。

彼女の自宅に泥棒が入った。
今の地点で何も出来ず、ただ、囲い慰め彼女の身の安全を守るべく、衣食住を与える事しか出来ない自分を歯痒く感じる程だ。

愛しさは日に日に増して行く一方だ。会うたびに愛しているの最上級の言葉を探す。
もはや、言葉では言い表せないくらい、彼女の事は大事で、かけがえのない存在になっていた。

唯一無二の代替えの決して効かない大事な人。そんな存在に再会する事が出来て、それまで人生は、空虚で無意味な時間だったのではと思うほど、再会してからの毎日が輝き意味のあるもので満たされていた。

堪らず、降り注ぐキスの嵐を懸命に受け答えてくれる彼女が、愛おしくて狂わしいほどで…
そろそろ止めなければ、本当に嫌われたらと恐れ慄く理性と、どうしようもない男の性の間で、葛藤を繰り返す。

くたっと座り込みそうになる彼女を抱き止め、抱き上げてソファに運ぶ。

初心な彼女にやり過ぎたかと、反省しながらも優越感に浸る。出来ればこのままベッドに運び自分のものにしてしまいたいが…。

一歩のところで壊れかけた理性が働いた。

やり過ぎた罪滅ぼしをするが如く、甲斐甲斐しく世話を焼く。
まずはホッとひと時寛いで貰いたいと、温かい紅茶を用意する。

この1、2ヶ月で覚えた事は…。
コーヒーよりも紅茶派で、塩味よりも甘党派。自ら作るのは洋食よりも和食だけれど、外食で選ぶのは洋食寄りだ。

彼女が好む嗜好は抜かりなく頭にインプットしてある。いつ何時家に来ても困らないよう、密かに買い揃えたりもしてしまっていた。

今日がその記念すべき第一歩なのだと、実感しながら、先程の出来事で打ちひしがれてしまった彼女の心を優しく包みたいと、せっせと世話を焼く。

元々、筧 紫音はいう男はそういう人間では決して無かった。

それどころか全くの正反対で、他人に厳しく誰とも深く心を交わさず、神秘的と言えば聞こえはいいが、取っ付きにくく近寄り難い存在だった。

それは幼少期からの特殊な生き方のせいでもあるのだが…。
紫音自身、物心がついた頃からピアノとは切っても切り離せない場所に居た。

母はピアノの伴奏者で、父は有名な音楽家。そんな音楽一家の1人息子として、幼い頃から身に付けた絶対音感に、鋭いほどの感性。

天才的な音楽センスはその環境が作り出したといっても過言ではない。

逸材現る。
紫音が有名になればなるほど、数ある名高い賞を獲れば取るほどに…。
周囲は尊敬と憧れの眩い幻想を抱き、近づいて来るのは下心のある者達ばかりで、いつしか警戒感が全開になった。

独りでいる方がよっぽど楽だ。
特に母親が不慮の事故で亡くなってからは、ストッパーが効かず。ありとあらゆる手段で、紫音を手に入れたいと思う大人達の渦に巻き込まれていった。

その見目の良さも仇となり、紫音という人間を、ダイヤやルビーなどの宝石の如く、所有したいと躍起になるセレブ達。

はたまた商品としてこの世に担ぎ上げ、金儲けを企む不届な大人達が群がって来た。

たった1人の肉親でもある父は、紫音に対しては経済的に支援するのみ。子として愛情を注ぐ事は一切無かった。
だから20も年下の女性と再婚した時も、歳の離れた兄妹が産まれた時でさえ、まるで他人事で物理的にも心情的にも遠く離れたところにいた。

このまま天涯孤独に生きたとてなんら問題もないだろうと、本人自身が思うほど淡々とした人生を送っていた。
そんな男だから、青春の唯一1ページに刻み込まれた彼女の存在がどれほど大きかったのかは計り知れるところではない。

その彼女が耐えて耐えて耐え抜いて、濃厚な口付けまで受け入れてくれるようになったのだから、喜ばしい事この上ないのだ。
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