野いちご源氏物語 〇九 葵(あおい)
ご出産はまだ先だとどなたも油断なさっていたころに、葵の上は急に産気づかれた。左大臣家ではこれでもかというほどたくさんのお祈りをおさせになるけれど、あのしつこい妖怪だけが葵の上のお体から離れない。
有名な僧侶でさえ、
「このような妖怪はめったにいない」
と手をこまねいている。しかしさすがに妖怪も苦しいらしく、葵の上の口を借りて話しはじめた。
「少しお祈りをゆるめてくださいませ。源氏の君に申し上げたいことがあるのです」
葵の上の父大臣と母君は、まさか妖怪が話しているとはお思いにならない。
<婿君に何か遺言があるのだろう>
そっと席をお外しになった。
源氏の君は奥様のすぐそばに近づかれた。病人だけれどお美しくて、お腹が大きくふくらんでいる。他人が見ても胸が痛むようなお姿だった。まして源氏の君は、
<このままお亡くなりになるのだろうか>
と惜しくも悲しくもお思いになる。
ご出産用の白い着物をお召しになって、長いお髪はひとつにまとめてある。いつものお人形のような澄まし顔ではいらっしゃらない。
<初めてこの人の素顔を見たような気がする。なんとかわいらしい>
源氏の君は思わず見とれてしまわれる。
奥様のお手を取って、
「ひどいではありませんか。私をこんなにつらくさせて」
とお泣きになった。それ以上は言葉が出てこない。
いつもは人を緊張させる葵の上の目が、今日はけだるげに開けられている。じっと源氏の君を見つめて、ぽろりと涙をこぼされた。それを見れば、源氏の君のお胸にご愛情があふれないはずがない。
葵の上はそのままひどくお泣きになる。
<残していくご両親が心苦しく、私との別れも残念にお思いなのだろう>
勘違いして源氏の君はお慰めになった。
「そんなに悲しまれることはありませんよ。きっとすぐによくなられます。万が一のことがあったとしても、夫婦や親子はあの世でもまた会えると申しますからね」
「そうではないのです」
妖怪は弱々しく首をふった。
「まさか本当にこんなところまで来ていたなんて。自分が嫌になって泣いているのです。悩みすぎた人の魂は、本当に体から離れてしまうのですね」
優しく寂しい声で言う。
「それを止められたのは、あなたしかいらっしゃらなかったのに」
葵の上のお声ではない。どうお聞きになっても、六条の御息所のお声だった。
<妖怪の正体は御息所なのでは、という噂は聞いたことがある。失礼で無責任な話だと否定してきたが、今、目の前で起きていることは何だ。あの噂は真実だったのか>
薄気味悪くて耐えられない。
「そうおっしゃってもどなたか分からない。はっきり名乗られよ」
しかし返事を聞くまでもなく、源氏の君には分かってしまわれた。病人のお顔は、御息所のお顔になっていた。
女房たちが様子を見に近づいてくるから、源氏の君はお困りになる。
有名な僧侶でさえ、
「このような妖怪はめったにいない」
と手をこまねいている。しかしさすがに妖怪も苦しいらしく、葵の上の口を借りて話しはじめた。
「少しお祈りをゆるめてくださいませ。源氏の君に申し上げたいことがあるのです」
葵の上の父大臣と母君は、まさか妖怪が話しているとはお思いにならない。
<婿君に何か遺言があるのだろう>
そっと席をお外しになった。
源氏の君は奥様のすぐそばに近づかれた。病人だけれどお美しくて、お腹が大きくふくらんでいる。他人が見ても胸が痛むようなお姿だった。まして源氏の君は、
<このままお亡くなりになるのだろうか>
と惜しくも悲しくもお思いになる。
ご出産用の白い着物をお召しになって、長いお髪はひとつにまとめてある。いつものお人形のような澄まし顔ではいらっしゃらない。
<初めてこの人の素顔を見たような気がする。なんとかわいらしい>
源氏の君は思わず見とれてしまわれる。
奥様のお手を取って、
「ひどいではありませんか。私をこんなにつらくさせて」
とお泣きになった。それ以上は言葉が出てこない。
いつもは人を緊張させる葵の上の目が、今日はけだるげに開けられている。じっと源氏の君を見つめて、ぽろりと涙をこぼされた。それを見れば、源氏の君のお胸にご愛情があふれないはずがない。
葵の上はそのままひどくお泣きになる。
<残していくご両親が心苦しく、私との別れも残念にお思いなのだろう>
勘違いして源氏の君はお慰めになった。
「そんなに悲しまれることはありませんよ。きっとすぐによくなられます。万が一のことがあったとしても、夫婦や親子はあの世でもまた会えると申しますからね」
「そうではないのです」
妖怪は弱々しく首をふった。
「まさか本当にこんなところまで来ていたなんて。自分が嫌になって泣いているのです。悩みすぎた人の魂は、本当に体から離れてしまうのですね」
優しく寂しい声で言う。
「それを止められたのは、あなたしかいらっしゃらなかったのに」
葵の上のお声ではない。どうお聞きになっても、六条の御息所のお声だった。
<妖怪の正体は御息所なのでは、という噂は聞いたことがある。失礼で無責任な話だと否定してきたが、今、目の前で起きていることは何だ。あの噂は真実だったのか>
薄気味悪くて耐えられない。
「そうおっしゃってもどなたか分からない。はっきり名乗られよ」
しかし返事を聞くまでもなく、源氏の君には分かってしまわれた。病人のお顔は、御息所のお顔になっていた。
女房たちが様子を見に近づいてくるから、源氏の君はお困りになる。