どん底から突然御曹司との恋がはじまりました
第一章 裏切りからの出会い
「はぁ、ちょっと休憩しようかな……」
森永瑞穂は、集中力が切れて時計に視線を向けた。時計の針は、十一時を知らせている。九時の始業開始から、二時間パソコンに向かっていたようだ。ガチガチに固まった肩を回すとボキボキと音が鳴ってしまう。自分ではまだ若いと思っているが、身体は確実に悲鳴をあげていた。
ふとオフィス内に視線を向けると、人の姿はまばらで瑞穂の目的の人物の姿も見当たらない。外出したのだろうか。
でも営業の予定が書かれたホワイトボードを見ると、『金澤亮』の欄は真っ白で社内のどこかにいるはずなのだ。亮は瑞穂の彼氏で社内恋愛をしている。周囲に知られると気を遣わせてしまうと亮が言うので、二人の交際は秘密にしていた。
最近、亮の仕事が忙しいようでプライベートでは会えていない。同じ営業部でも課が違うので、仕事の進捗はわからないのだ。だから社内で会えると嬉しい。
つき合って三年……そろそろ結婚の話があってもいいはずだが、その話題は避けられているように感じている。プロポーズをしてもらえる日は来るのだろうか。
席を立って身体をほぐしながら、自動販売機のある休憩室に向かった。休憩室の手前には給湯室があるのだが、基本は来客用であまり利用することはない。各自でドリンクを持参するか自動販売機で購入している。
その滅多に利用することのない給湯室の扉が、不自然に少し開いていた。電気は消えているのに、ボソボソと人の話し声が聞こえる。思わず足を止めてしまったが、なぜか嫌な予感がした。瑞穂の第六感は知らない方がいいと告げているが、気になってしまい立ち去ることができない。
「ねぇ、いつ別れてくれるの?」
「もう少し待ってくれ。タイミングがあるんだよ」
「もう! 亮ちゃん、そればっかり」
亮ちゃん……そう呼ばれた男の声は、今この瞬間まで彼氏だと思っていた男の声で間違いない。そして、相手の声もよく知っている。いつも瑞穂先輩〜と甘えた声で頼ってくるかわいがっていた後輩の声だ。
頭が真っ白になってその場に立ち尽くしていると、この二人には危機感がないのか社内だというのにキスをしている。
「んんっ。亮ちゃん、もっと」
「美優は素直でかわいいな」
これ以上ない裏切りをもう聞きたくもないのに、足が震えて思うように動かない。いつまでもここにいては、鉢合わせしてしまう可能性があるのに……
悔しくて溢れてくる涙を、上を向いて堪えようとした。どうして? という言葉が頭の中をぐるぐると回っている。よりにもよって、こんな裏切り方をされるとは信じられない。
たまたまなのか、狙っているのか、ここを通る人の姿はなく、この最悪の場に瑞穂だけが遭遇してしまった。せめてバレないように扉を完全に閉めていたら、知ることもなかったのに。でもそうなると、気づかないまま裏切られていたということだ。
扉の向こうではまだ二人の密会が続いている。
足の震えは収まったが、驚きで腰が抜けてしまったのか膝から崩れ落ちそうになった。ヤバイ倒れる! と思った瞬間、後ろから大きな腕が瑞穂を支えてくれた。
「――えっ」
「しっ」
驚いて大きな声を上げそうになった瑞穂の口を大きな手が覆い、耳元でゾクッとするほどの色気のあるバリトンボイスが響いた。
そんな瑞穂達をよそに、扉の向こうではラブシーンが繰り広げられている。
「ちっ」
すると耳元からは舌打ちが聞こえた。頭が真っ白な瑞穂は、男性が何に対して舌打ちしているか理解が追いつかない。「音を立てないように」と言葉が聞こえて、うんうんと頷くと口を覆っていた大きな手が離れた。
そして後ろから抱きしめられたまま、一つの扉へ連れて行かれる。扉を開いた先は非常階段だ。給湯室以上に利用する機会がなくて、この扉が非常階段だったことも忘れていた。
――パタン
静かに非常階段の扉が閉まった瞬間、後ろの男性に視線を向けると、そこには見上げるほどの長身で見たことのないイケメンの姿があった。
亮も営業部の中ではイケメンと言われる部類で、常に女性が寄ってくる。瑞穂は、亮が自分を選んでくれたことに驚いたものだが、そんな亮なんて足元にも及ばないほどのイケメンが目の前にいるのだ。
身長一七八センチの亮よりも十センチ近く高い。切れ長の二重にサラサラの黒髪、小顔で芸能人と言われた方が納得できる。こんなイケメンが社内の人間なら、女性達が放っておくはずがないのだが、噂されているのを聞いたことがない。完全に目の前の彼を見つめて、呆けてしまっていた。
「なあ」
「はい」
「給湯室にいた奴は知り合いか?」
「……はい。今、この瞬間まで、彼氏だと思っていた人です」
「ちっ」
盛大な舌打ちが非常階段に響く。自分にされたわけではないとわかっていても、瑞穂は無意識にビクッとしてしまった。
「すまない。君に舌打ちしたわけではない。なあ、名前を聞いてもいいか?」
「あっ、営業アシスタントの森永瑞穂です」
「俺は、五十嵐慶だ」
五十嵐といえば、この会社『フィフティストーム』という社名でもわかるように、創業者一族が五十嵐だ。でも、まさか目の前の彼がその創業者一族だとは思いもしない。
「五十嵐さん……」
「ああ、慶でいい」
「下の名前で呼ぶなんて無理です」
「くすっ、今はまあいいか。それよりさっきの続きだが、相手の女は誰だ?」
「……同じ営業アシスタントの後輩です」
名前も口に出したくないほど嫌悪感に襲われている。
確か、美優には彼氏がいたはずだ。その彼氏と別れて亮と付き合い始めたということか。社内では交際を内緒にしていたから、美優は知らなかったかもしれない。でも、亮は美優が瑞穂のかわいがっている後輩だと知っているのだ。
「本当に最低な奴らだな。しかも社内で……痛い目に遭わないとわからないはずだ」
「えっ? どうするんですか?」
「なんだ? 裏切られた彼氏を庇うつもりか?」
「そんなつもりはありません!」
「ははっ、威勢がいいな」
こんな裏切られ方をして亮を庇うつもりはないし、知らなかったかもしれないが美優のことも許せない。
「どうするんですか?」
「ここは会社だ」
「は、はあ……」
「わからないか? 至る所に防犯カメラが設置されている」
「でも……」
亮もバカではないから、防犯カメラを意識して給湯室の電気を点けていなかったのではないだろうか。
「防犯カメラの記録は映像だけではない」
「え?」
「社内の防犯カメラは、音声もしっかりと記録されている」
「そうなんですか? でもどうして」
「知っているかって? それは企業秘密だ」
ニヤッと笑った悪い笑みに、思わず身震いしてしまう。この人は敵に回してはいけない人だと瞬時に理解した。
――トゥルルルル
五十嵐の胸ポケットから、スマホの着信音が鳴り響いた。
「おっと、時間切れだ。あとは、俺に任せろ。大丈夫か?」
「はい……」
大丈夫か? というのは、きっとこれから裏切り者の二人と顔を合わせることに対してだろう。初めて会ったはずなのに優しい人だ。
あの場で二人と鉢合わせしていたらこんなに冷静になれなかったが、五十嵐のお陰ですでに気持ちは落ち着いている。もちろんショックが消えたわけではないが、現実を受け入れる覚悟ができた。
「じゃあ、またな。――。もしもし――」
『またな』の後に五十嵐は『すぐに会える』と呟いたが、瑞穂には聞き取れなかった。鳴り続ける電話に出ると、非常階段を颯爽と上がって行く。五十嵐のバリトンボイスが聞こえなくなるまで、その場で惚けていた。
亮のことでショックを受けていたはずなのに、五十嵐にドキドキしている。
「スーハースーハー」
瑞穂は、気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸した。最悪の状況よりも、五十嵐のイケメンな顔とバリトンボリスが頭に残っている。俺に任せろと言った言葉を信じて、今日のことは知らない振りをするつもりだ。
オフィスに戻ると美優の姿が視界に入る。給湯室での密会がなかったかのように何食わぬ顔をしてパソコンに向かっているが、リップが薄くなっているのが生々しい。
「先輩〜」といつもと変わらない態度で何度か仕事の質問をされたが、視線はパソコンに向けたまま最低限のやり取りでこの日は何とかやり過ごした。
密会を目撃した二日後――
朝、オフィスに着くと異様な雰囲気が漂っていた。いつもなら始業前の和やかな雑談タイムなのに、誰もがパソコン画面を指差してヒソヒソと会話をしている。明らかに、よからぬことが起こっているようだ。
「敦ちゃん、おはよう~。ねぇ何があったの?」
「瑞穂……」
同期の敦子が瑞穂を見て、眉を八の字にして何かを言い淀んでいる。
「何? 何か悪い知らせ?」
「ちょっとこっち来て」
瑞穂の手を引いてオフィスの外へ連れ出した。朝の誰もいない休憩室の端まで連れて来られたと思ったら、ぎゅっと抱きしめられる。
「え? え? どうしたの?」
「金澤と美優が僻地へ転勤になった。金澤はそれでも働くみたいだけど、美優は退職したって」
「え?」
「金澤から何か聞いてる?」
「ううん」
ショックや戸惑いではなく驚きの声を漏らしてしまったが、敦子は違う意味で受け取ったようだ。瑞穂の哀しみを紛らわそうとするように、抱きしめてくれている。
社内で亮との交際を知っていたのは敦子だけで、亮のことをあまり良くは思っていなかったが、瑞穂の彼氏と思って接してくれていた。
それが今回こんなことになって、心を痛めてくれている。
「社内で不謹慎な行いがあったって」
「……」
今瑞穂の頭の中は、亮のことではなく先日のイケメンを思い出していた。
「瑞穂、大丈夫? ショックだよね……ホントに、信じられない!」
「敦ちゃん、落ち着いて」
「何でそんなに冷静なの? ショックじゃないの?」
「まあショックじゃないって言ったら嘘になるけど、自分のことのように怒ってくれる敦ちゃんがいるから私は大丈夫だよ。最近はすれ違ってたし、きっと私が気づかないだけで予兆はあったんだよ」
「でも……まあ瑞穂が大丈夫なら、私は金澤がどうなろうがざまぁ見ろとしか思わないけど……」
あの時、五十嵐が現れなかったらこんなに冷静にはなれていない。でも彼のお陰で冷静になれたし、覚悟もできていた。それよりも、俺に任せろの言葉を、有言実行してくれたに違いない。すぐにでもお礼を伝えたいが名前しか知らないのだ。
「ぷっ、敦ちゃんありがとうね。自分のことのように怒ってくれて」
「自分のこと以上に腹立つよ。まあでも、あんな奴だったって知れてよかったね」
「うん。ねぇ」
「ん? どうしたの?」
「長身で超イケメンの五十嵐さんって人知ってる?」
敦子の交友関係は広く、瑞穂よりも確実に社内のことを把握している。
「五十嵐……って、社長の一族しか社内では聞いたことないな……」
「だよね……」
やはり社長と関連のある人だったのだろうか。でも社内であんなにイケメンがいたら、女性達の噂の的になっているはずだ。
「あっ!」
「心当たりあるの?」
「一人噂になってる人が」
「誰?」
噂話に疎い瑞穂の耳には、イケメンの噂は届いていない。
「社長の息子が本社に戻ってきたって聞いたよ」
「社長の息子?」
「そう。海外勤務してた社長の息子が、専務として戻って来たって」
「そうなの? 知らなかった。その専務がイケメンなの?」
噂になるくらいだから、あの時の彼かもしれない。
「私も実際に見たことないから、あくまでも噂だけど超絶にイケメンって聞いたよ」
「社長の息子で専務……」
どう考えても二度と会うことのない遠い存在だ。気軽にお礼を言える相手ではない。しかも、そんなに注目されている人とは関わりたくないのが正直なところだ。
「どうしたの? もしかして瑞穂も専務狙い?」
「まさか! 当分恋愛はいいわ」
「そんなこと言わずに。新しい恋をして金澤のことはきっぱりと忘れよう!」
励ましてくれている敦子には悪いが、もう亮のことは過去のことになっている。顔を合わせるのは気まずいと思っていたが、その悩みも一瞬で消えたのだ。
一人で僻地へ行くのか、美優がついて行くのかは知らないが、もう二度と会わないだけで十分だと思える。
それにしても三年もつき合っていたのが嘘のように、突然別れの言葉もなく終わってしまった。相手を見る目がなかったのだと思うしかない。何も知らないまま結婚するより良かったのだ。
助けてくれた五十嵐が本当に専務だったら、もう二度と会うことはないだろう。そんな呑気な考えの瑞穂は、イケメン専務様にロックオンされているなんて、この時は知りもしなかった。通りかかったのは偶然ではなく、そして二人は初対面でもない。覚えていないのは瑞穂だけ……
森永瑞穂は、集中力が切れて時計に視線を向けた。時計の針は、十一時を知らせている。九時の始業開始から、二時間パソコンに向かっていたようだ。ガチガチに固まった肩を回すとボキボキと音が鳴ってしまう。自分ではまだ若いと思っているが、身体は確実に悲鳴をあげていた。
ふとオフィス内に視線を向けると、人の姿はまばらで瑞穂の目的の人物の姿も見当たらない。外出したのだろうか。
でも営業の予定が書かれたホワイトボードを見ると、『金澤亮』の欄は真っ白で社内のどこかにいるはずなのだ。亮は瑞穂の彼氏で社内恋愛をしている。周囲に知られると気を遣わせてしまうと亮が言うので、二人の交際は秘密にしていた。
最近、亮の仕事が忙しいようでプライベートでは会えていない。同じ営業部でも課が違うので、仕事の進捗はわからないのだ。だから社内で会えると嬉しい。
つき合って三年……そろそろ結婚の話があってもいいはずだが、その話題は避けられているように感じている。プロポーズをしてもらえる日は来るのだろうか。
席を立って身体をほぐしながら、自動販売機のある休憩室に向かった。休憩室の手前には給湯室があるのだが、基本は来客用であまり利用することはない。各自でドリンクを持参するか自動販売機で購入している。
その滅多に利用することのない給湯室の扉が、不自然に少し開いていた。電気は消えているのに、ボソボソと人の話し声が聞こえる。思わず足を止めてしまったが、なぜか嫌な予感がした。瑞穂の第六感は知らない方がいいと告げているが、気になってしまい立ち去ることができない。
「ねぇ、いつ別れてくれるの?」
「もう少し待ってくれ。タイミングがあるんだよ」
「もう! 亮ちゃん、そればっかり」
亮ちゃん……そう呼ばれた男の声は、今この瞬間まで彼氏だと思っていた男の声で間違いない。そして、相手の声もよく知っている。いつも瑞穂先輩〜と甘えた声で頼ってくるかわいがっていた後輩の声だ。
頭が真っ白になってその場に立ち尽くしていると、この二人には危機感がないのか社内だというのにキスをしている。
「んんっ。亮ちゃん、もっと」
「美優は素直でかわいいな」
これ以上ない裏切りをもう聞きたくもないのに、足が震えて思うように動かない。いつまでもここにいては、鉢合わせしてしまう可能性があるのに……
悔しくて溢れてくる涙を、上を向いて堪えようとした。どうして? という言葉が頭の中をぐるぐると回っている。よりにもよって、こんな裏切り方をされるとは信じられない。
たまたまなのか、狙っているのか、ここを通る人の姿はなく、この最悪の場に瑞穂だけが遭遇してしまった。せめてバレないように扉を完全に閉めていたら、知ることもなかったのに。でもそうなると、気づかないまま裏切られていたということだ。
扉の向こうではまだ二人の密会が続いている。
足の震えは収まったが、驚きで腰が抜けてしまったのか膝から崩れ落ちそうになった。ヤバイ倒れる! と思った瞬間、後ろから大きな腕が瑞穂を支えてくれた。
「――えっ」
「しっ」
驚いて大きな声を上げそうになった瑞穂の口を大きな手が覆い、耳元でゾクッとするほどの色気のあるバリトンボイスが響いた。
そんな瑞穂達をよそに、扉の向こうではラブシーンが繰り広げられている。
「ちっ」
すると耳元からは舌打ちが聞こえた。頭が真っ白な瑞穂は、男性が何に対して舌打ちしているか理解が追いつかない。「音を立てないように」と言葉が聞こえて、うんうんと頷くと口を覆っていた大きな手が離れた。
そして後ろから抱きしめられたまま、一つの扉へ連れて行かれる。扉を開いた先は非常階段だ。給湯室以上に利用する機会がなくて、この扉が非常階段だったことも忘れていた。
――パタン
静かに非常階段の扉が閉まった瞬間、後ろの男性に視線を向けると、そこには見上げるほどの長身で見たことのないイケメンの姿があった。
亮も営業部の中ではイケメンと言われる部類で、常に女性が寄ってくる。瑞穂は、亮が自分を選んでくれたことに驚いたものだが、そんな亮なんて足元にも及ばないほどのイケメンが目の前にいるのだ。
身長一七八センチの亮よりも十センチ近く高い。切れ長の二重にサラサラの黒髪、小顔で芸能人と言われた方が納得できる。こんなイケメンが社内の人間なら、女性達が放っておくはずがないのだが、噂されているのを聞いたことがない。完全に目の前の彼を見つめて、呆けてしまっていた。
「なあ」
「はい」
「給湯室にいた奴は知り合いか?」
「……はい。今、この瞬間まで、彼氏だと思っていた人です」
「ちっ」
盛大な舌打ちが非常階段に響く。自分にされたわけではないとわかっていても、瑞穂は無意識にビクッとしてしまった。
「すまない。君に舌打ちしたわけではない。なあ、名前を聞いてもいいか?」
「あっ、営業アシスタントの森永瑞穂です」
「俺は、五十嵐慶だ」
五十嵐といえば、この会社『フィフティストーム』という社名でもわかるように、創業者一族が五十嵐だ。でも、まさか目の前の彼がその創業者一族だとは思いもしない。
「五十嵐さん……」
「ああ、慶でいい」
「下の名前で呼ぶなんて無理です」
「くすっ、今はまあいいか。それよりさっきの続きだが、相手の女は誰だ?」
「……同じ営業アシスタントの後輩です」
名前も口に出したくないほど嫌悪感に襲われている。
確か、美優には彼氏がいたはずだ。その彼氏と別れて亮と付き合い始めたということか。社内では交際を内緒にしていたから、美優は知らなかったかもしれない。でも、亮は美優が瑞穂のかわいがっている後輩だと知っているのだ。
「本当に最低な奴らだな。しかも社内で……痛い目に遭わないとわからないはずだ」
「えっ? どうするんですか?」
「なんだ? 裏切られた彼氏を庇うつもりか?」
「そんなつもりはありません!」
「ははっ、威勢がいいな」
こんな裏切られ方をして亮を庇うつもりはないし、知らなかったかもしれないが美優のことも許せない。
「どうするんですか?」
「ここは会社だ」
「は、はあ……」
「わからないか? 至る所に防犯カメラが設置されている」
「でも……」
亮もバカではないから、防犯カメラを意識して給湯室の電気を点けていなかったのではないだろうか。
「防犯カメラの記録は映像だけではない」
「え?」
「社内の防犯カメラは、音声もしっかりと記録されている」
「そうなんですか? でもどうして」
「知っているかって? それは企業秘密だ」
ニヤッと笑った悪い笑みに、思わず身震いしてしまう。この人は敵に回してはいけない人だと瞬時に理解した。
――トゥルルルル
五十嵐の胸ポケットから、スマホの着信音が鳴り響いた。
「おっと、時間切れだ。あとは、俺に任せろ。大丈夫か?」
「はい……」
大丈夫か? というのは、きっとこれから裏切り者の二人と顔を合わせることに対してだろう。初めて会ったはずなのに優しい人だ。
あの場で二人と鉢合わせしていたらこんなに冷静になれなかったが、五十嵐のお陰ですでに気持ちは落ち着いている。もちろんショックが消えたわけではないが、現実を受け入れる覚悟ができた。
「じゃあ、またな。――。もしもし――」
『またな』の後に五十嵐は『すぐに会える』と呟いたが、瑞穂には聞き取れなかった。鳴り続ける電話に出ると、非常階段を颯爽と上がって行く。五十嵐のバリトンボイスが聞こえなくなるまで、その場で惚けていた。
亮のことでショックを受けていたはずなのに、五十嵐にドキドキしている。
「スーハースーハー」
瑞穂は、気持ちを落ち着けるように大きく深呼吸した。最悪の状況よりも、五十嵐のイケメンな顔とバリトンボリスが頭に残っている。俺に任せろと言った言葉を信じて、今日のことは知らない振りをするつもりだ。
オフィスに戻ると美優の姿が視界に入る。給湯室での密会がなかったかのように何食わぬ顔をしてパソコンに向かっているが、リップが薄くなっているのが生々しい。
「先輩〜」といつもと変わらない態度で何度か仕事の質問をされたが、視線はパソコンに向けたまま最低限のやり取りでこの日は何とかやり過ごした。
密会を目撃した二日後――
朝、オフィスに着くと異様な雰囲気が漂っていた。いつもなら始業前の和やかな雑談タイムなのに、誰もがパソコン画面を指差してヒソヒソと会話をしている。明らかに、よからぬことが起こっているようだ。
「敦ちゃん、おはよう~。ねぇ何があったの?」
「瑞穂……」
同期の敦子が瑞穂を見て、眉を八の字にして何かを言い淀んでいる。
「何? 何か悪い知らせ?」
「ちょっとこっち来て」
瑞穂の手を引いてオフィスの外へ連れ出した。朝の誰もいない休憩室の端まで連れて来られたと思ったら、ぎゅっと抱きしめられる。
「え? え? どうしたの?」
「金澤と美優が僻地へ転勤になった。金澤はそれでも働くみたいだけど、美優は退職したって」
「え?」
「金澤から何か聞いてる?」
「ううん」
ショックや戸惑いではなく驚きの声を漏らしてしまったが、敦子は違う意味で受け取ったようだ。瑞穂の哀しみを紛らわそうとするように、抱きしめてくれている。
社内で亮との交際を知っていたのは敦子だけで、亮のことをあまり良くは思っていなかったが、瑞穂の彼氏と思って接してくれていた。
それが今回こんなことになって、心を痛めてくれている。
「社内で不謹慎な行いがあったって」
「……」
今瑞穂の頭の中は、亮のことではなく先日のイケメンを思い出していた。
「瑞穂、大丈夫? ショックだよね……ホントに、信じられない!」
「敦ちゃん、落ち着いて」
「何でそんなに冷静なの? ショックじゃないの?」
「まあショックじゃないって言ったら嘘になるけど、自分のことのように怒ってくれる敦ちゃんがいるから私は大丈夫だよ。最近はすれ違ってたし、きっと私が気づかないだけで予兆はあったんだよ」
「でも……まあ瑞穂が大丈夫なら、私は金澤がどうなろうがざまぁ見ろとしか思わないけど……」
あの時、五十嵐が現れなかったらこんなに冷静にはなれていない。でも彼のお陰で冷静になれたし、覚悟もできていた。それよりも、俺に任せろの言葉を、有言実行してくれたに違いない。すぐにでもお礼を伝えたいが名前しか知らないのだ。
「ぷっ、敦ちゃんありがとうね。自分のことのように怒ってくれて」
「自分のこと以上に腹立つよ。まあでも、あんな奴だったって知れてよかったね」
「うん。ねぇ」
「ん? どうしたの?」
「長身で超イケメンの五十嵐さんって人知ってる?」
敦子の交友関係は広く、瑞穂よりも確実に社内のことを把握している。
「五十嵐……って、社長の一族しか社内では聞いたことないな……」
「だよね……」
やはり社長と関連のある人だったのだろうか。でも社内であんなにイケメンがいたら、女性達の噂の的になっているはずだ。
「あっ!」
「心当たりあるの?」
「一人噂になってる人が」
「誰?」
噂話に疎い瑞穂の耳には、イケメンの噂は届いていない。
「社長の息子が本社に戻ってきたって聞いたよ」
「社長の息子?」
「そう。海外勤務してた社長の息子が、専務として戻って来たって」
「そうなの? 知らなかった。その専務がイケメンなの?」
噂になるくらいだから、あの時の彼かもしれない。
「私も実際に見たことないから、あくまでも噂だけど超絶にイケメンって聞いたよ」
「社長の息子で専務……」
どう考えても二度と会うことのない遠い存在だ。気軽にお礼を言える相手ではない。しかも、そんなに注目されている人とは関わりたくないのが正直なところだ。
「どうしたの? もしかして瑞穂も専務狙い?」
「まさか! 当分恋愛はいいわ」
「そんなこと言わずに。新しい恋をして金澤のことはきっぱりと忘れよう!」
励ましてくれている敦子には悪いが、もう亮のことは過去のことになっている。顔を合わせるのは気まずいと思っていたが、その悩みも一瞬で消えたのだ。
一人で僻地へ行くのか、美優がついて行くのかは知らないが、もう二度と会わないだけで十分だと思える。
それにしても三年もつき合っていたのが嘘のように、突然別れの言葉もなく終わってしまった。相手を見る目がなかったのだと思うしかない。何も知らないまま結婚するより良かったのだ。
助けてくれた五十嵐が本当に専務だったら、もう二度と会うことはないだろう。そんな呑気な考えの瑞穂は、イケメン専務様にロックオンされているなんて、この時は知りもしなかった。通りかかったのは偶然ではなく、そして二人は初対面でもない。覚えていないのは瑞穂だけ……


