蜘蛛の糸に囚われた蝶は
夜桜(よざくら)夏初(なつは)は煌びやかなパーティ会場でひとり、目立たない場所でシャンパンを飲んでいた。
会社の同僚が連れてきてくれた、さる大会社の御曹司が主催するタワーマンションでのパーティだが、夏初は自分が完全に浮いているのを感じていた。

「えー、ヨット持ってるんですか!?」

いかにも作られた女性の高い声が聞こえ、そちらへ視線を向ける。
そこでは綺麗に着飾った若い女性と、スーツ姿のやはり若い男性が話していた。

「まあ、中古だけどね」

男性は謙遜して見せながらも得意げだ。
某木の操り人形ならば、きっと鼻はぐんぐん伸びていっているだろう。

「えっ、中古でもヨット持ってるだけで凄いですよ」

尊敬というよりも漫画だったら瞳が円マークになっていそうな目で女性は男性を見つめている。

「ありがとう。
そう言ってくれるなんて、君って優しいね」

にっこりと男性が笑いかけ、女性はぽっと頬を赤らめた。
それを見ながら夏初はグラスのシャンパンを一気に飲み干し、憂鬱なため息をついた。

会社の同僚をはじめ女性たちはセレブ男性とのワンナイト、あわよくば玉の輿を狙っているのが見え見えだったし、男性たちもそんな女性たちを下に見て弄び、一晩の相手くらいにはしてやってもいいという態度が滲み出ている。
夏初はといえばそんな女性たちと同じようにそんな男性たちに媚びる気にもなれなかった。
ここへ来た目的を考えればそうしなければならないのはわかっている。
しかし爽やかな笑顔の下にはゲスな下心しかない男性とは話す気にもなれなかった。

そもそも今日、なぜ夏初がこんなところにいるのかといえば、父の借金返済のためだ。
父は小さな町工場を経営していたが、大手依頼主である会社の無理難題に耐えかねてとうとう倒産した。
あとには多額の借金が残り、年齢的にも再就職の難しい父の稼ぎで返済していくのは難しそうだ。
父は自分たちでなんとかするから夏初は気にしなくていいと言ってくれたが、そんなのできるはずがない。
それをついこぼしていたら、ちょうどいいパーティがあると連れてこられたのがここだったのだ。

「だから!
俺が今すぐやれって言ってんだろ!」

不意に怒鳴り声が聞こえてきて、ざわめきが止まる。
部屋の隅のほうで、電話をしながら男が怒りを露わにしていた。

「次、そんなこと言ったら、クビだからな!」

通話を終えた男は周囲の視線に気づいたのか一瞬、気まずそうな顔をした。

「ほんと、使えない社員ばかりで嫌になるよね」

すぐに気を取り直した彼の呆れるような言葉で、同意するようなそれでいてどこか馬鹿にしている笑いが起きてこの騒ぎは落着となった。
夏初も視線を彼から外そうとした瞬間、目があった気がした。
どうか気のせいであってくれと願うが、彼は真っ直ぐに自分のところへ向かってくる。

「隣、いいかな」

「あっ、はい。
どうぞ」

失敗したと悟ったが、もう遅い。
作り笑顔を浮かべ、座っているソファーを詰めて少し場所を開ける。
そこに彼は腰を下ろした。

「知らない顔だけど、こういうパーティに来るのは初めて?」

「ええ、はい。
知り合いに連れられて」

会場の中、同僚を目で探す。
彼女はやはり男性と談笑していたが、視線に気づいたのかこちらを向いた。

「ああ、彼女?」

「はい」

同僚が小さく手を振るので、曖昧な笑顔で振り返す。
彼女がどこか鼻高々な感じなのは、連れてきたのが自分だからだろう。

自慢ではないが色白でぱっちり大きな黒目の自分は美人とまではいわないでも中の上くらいだろうと夏初は思っている。
それがしっかりメイクしてドレスアップしているのだ、この場にいる女性の中でもそれなりに綺麗な部類ではないだろうか。
そしてここにいる男性たちは自分を満足させてくれる遊び相手を求めているわけで、そうなると夏初は絶好のターゲットだった。
それでそんな人間を提供した同僚は鼻が高く、ご褒美として誰か相手をしてくれないかと期待しているわけだ。

「ふぅん。
友達は選んだほうがいいんじゃない?」

どこか彼女を小馬鹿にするそれは感じが悪いが、それでも彼の忠告には同意だった。
もっとも、彼女と自分はただの同僚であって友人ではないが。

「自己紹介がまだだったね。
俺は丸木(まるき)
小さなゲーム会社の社長をしている」

にっこりと笑う彼の笑顔が、夏初には作り物めいて見えた。
それにわざわざ〝小さな〟と強調していたが、その割に着ているスーツはひと目で上等なものだとわかるし、着けている時計も高級なものだ。

「夜桜、です。
……ただの、会社員です」

少し悩んで笑顔を貼り付け、当たり障りのない自己紹介をする。

「ねえ、名前は」

彼が軽くこちらへ身を乗り出してきて、軽く背中が仰け反った。

「だから、夜桜……」

「下の名前」

夏初の言葉を遮るように彼がさらに聞いてくる。
それでようやく合点がいき、夏初は再び口を開いた。

「夏初、です」

「夏初ちゃん」

満足げに頷き、彼がようやく顔を離してくれてほっとした。
しかし、今知り合ったばかりの男に下の名前を、しかも〝ちゃん〟付けで呼ばれるのには背筋がぞわっとする。

「夜桜なのに夏なんだ?」

「そう、ですね。
なんででしょう?」

よく聞かれる質問をされ、適当に笑って誤魔化した。
本当は名前をつけた父らしいおっちょこちょいなエピソードがあるのだが、初対面、しかも自分を値踏みしているような男には話したくない。

「夏初ちゃんはどういう男がタイプ?」

男はさらに聞いてくるが、ここは合コン会場かキャバクラだっただろうか。
いや、当たらずとも遠からずだ。

「そうですね、優しい人ですかね」

当たり障りのない返事をし、その場を濁す。
もうすでにここから立ち上がって帰りたい心境だが、当初の目的を達成していないのでぐっと我慢した。
けれどここに、自分の希望を叶えてくれる人間がいるのか、甚だ疑問だ。

夏初は今日、父の借金返済のため、お金を貸してくれる人を探しにここへ来ている。
確かに御曹司や社長が集まるパーティならいそうではあるが、彼らは女性を玩具くらいにしか思ってなく、真剣に相談など聞いてくれそうにない。
それにもし、貸してくれる人がいたとしても代わりにとんでもない要求をされそうだ。

適当に相づちを打ちながら男の話を聞き流す。

「ねえ、このあとふたりで飲み直さない?」

男の目がイヤラシく歪み、全身が鳥肌立つ。
〝飲み直さない?〟の前にはもちろん、〝ホテルの部屋で〟か〝自分の部屋で〟がつくのだろう。

「あ、すみません。
ちょっと電話」

証明するように鞄から携帯電話を出して見せる。
もちろん、画面は男から見えない角度だ。
途端に男は鼻白んでいた。

「上司が至急、確認したいことがあるってことなんで。
すみませーん」

困ったような顔を作って立ち上がり、断って去ろうとしたが。

「待てよ」

不機嫌に男から手を掴んで止められた。

「こんな時間に仕事の連絡なんてありえないだろ。
放っておいたらいい」

つい先ほど、社員に今すぐやれと命じていたのは誰でもないこの男だ。
立派な二枚舌が呆れるよりも気持ち悪い。

「でも、上司に逆らってクビになったら困るので。
すみません」

頭を下げて手を振り払い、トイレへ逃げ込む。
個室で便器に座り、ようやくひと息ついた。
皮肉を込めて言ったが、彼は気づいただろうか。
気づいていたらきっと今頃大騒ぎだろうし、戻ったら追い出されるかもしれない。
いや、追い出されるのなら願ったり叶ったりだが、暴力を振るわれたらどうしよう。
しかし夏初にはどうしても我慢ができなかったのだ。

「はぁーっ」

重いため息をつき、トイレを出て会場のほうをうかがう。
荒れた様子はなく、とりあえず大きな騒ぎにはなっていそうになくてほっと息をついた。

「なあ」

「ひっ!」

その瞬間、唐突に声をかけられて飛び上がるかと思った。
そこにはやはり、若き実業家といった感じの男が立っている。
背が高く、細面な顔に銀縁スクエアの眼鏡をかけ、小粋にスーツを着こなす彼は他の男と違い、身の内から上品さのようなものを漂わせていた。

「さっきのあれ、最高だったな」

軽く手を口もとに当て、彼は笑うのを堪えているのか肩を震わせている。

「はぁ……」

あれのどこが面白いのかわからないが、けれど彼はここにいる男性たちとは決定的に違うように感じた。

「でも彼、君の皮肉に全然気づいてないよ」

「そう、ですか」

別にそうやってあの男に警告しようと思ったわけでもないのでかまわない。
あんな電話をしていてさらに皮肉に気づかないなど、その程度の男なのだと軽蔑しただけだ。

「僕は愉しませてもらったけれど、ああいうのはあまりやらないほうがいい。
特に、こういう場では」

男が急に真剣な顔になり、夏初に忠告してくる。

「ご忠告、ありがとうございます」

それは自分でも思っていただけに、夏初は素直にそれを受け入れた。

「それで、さ」

一歩、男が足を踏み出してきて思わず後ろに下がる。
けれどすぐに壁にぶち当たってしまった。
目の前に立たれると思ったより背が高く威圧感がある。
小柄な夏初など、彼の胸あたりまでしかなかった。
逃さないかのように壁に腕をつき、ゆっくりと彼がその高い背を折り曲げて自分に顔を近づけてくるのを怯えて見ていた。
彼の口が、夏初の耳もとに寄る。

「……このままふたりで、抜けないか?」

甘い重低音が鼓膜を揺らすのと同時に、甘いけれどどこかシャープな香りが夏初を包む。
離れていく彼の顔をただ黙って見ていた。
レンズ越しに目のあった彼が右の口端を僅かに持ち上げ、挑発するように笑う。

「このままここにいたいのならかまわないが」

きっと彼は彼らとは違う。
夏初の直感がそう囁いている。
それにここを出る口実ができるのなら、それに越したことはない。

「……いい、ですよ」

それでも返事をする夏初の唇は震えていた。
もし判断を間違えていればそういうことになる。
しかし、夏初は自分の直感を信じようと決めた。

連れてきてくれた同僚に帰ると一応、告げる。
待っている彼を見て彼女は「楽しんできて」などと言ってきたが、なにを勘違いしているのだろう。

会場であるタワーマンションを出て彼が連れてきてくれたのは、遅くまでやっている寿司屋だった。

「お腹が空いてるんだ」

情けなく彼が笑って見せ、つられて夏初も笑っていた。

カウンターだけの寿司屋は気後れするが、彼は慣れているようだ。
夏初に苦手なものはないか聞いてくれ、それを避けてお任せでと頼んでくれた。

「そういえば自己紹介がまだだったな」

お酒まで注文したあと、思い出したかのように彼が夏初の顔を見る。

陽川(ひかわ)晴貴(はるき)です。
弁護士をしています」

証明しようとスーツの襟を引っ張りかけた彼だが、すぐにそこに目的のものがついていないと気づいて、やめた。
代わりに内ポケットから名刺入れを出し、一枚抜いて渡してくれる。
そこには『月森(つきもり)弁護士事務所』に所属する弁護士だと書かれていた。

「あそこであまり、弁護士だって知られたくないからな」

彼――晴貴は本当に嫌そうだが、ならばなぜあんなパーティに参加していたのだろう。

「夜桜夏初、です。
ごく普通の会社員です」

今度は相手がフルネームで名乗ったので、夏初もフルネームを教える。

「夜桜なのに夏なんだ?」

やはり彼もあの男と同じ質問をしてくるが、大抵の人間から聞かれるので別にかまわない。

「夏初……夏の初めって書くんですけど、四月の異名なんですよ。
名字が夜桜で本当に桜が満開の夜に生まれたので、捩って桜の時期で卯月って最初はつけようとしたみたいです。
でも、四月生まれの卯月って捻りがないなっていろいろ調べて、夏初月って呼び方もあるんだって知って、これにしたらしいです」

「そうなんだ、四月って夏初月ともいうんだ。
知らなかった。
でも、夏だよな?」

晴貴が不思議そうに首を捻り、夏初は頷いた。

「旧暦の四月なんで、だいたい一ヶ月ズレちゃうんです。
だから、今なら五月なんですよ」

「なるほど!」

合点がいったとばかりに彼が拳で手のひらを叩く。
父は桜の時期ではなく五月だと知ってがっくりきたらしいが、この自分の名前にまつわるエビソードが夏初はお気に入りだった。

「しかし、夜桜さんは本当にご両親から愛されているんだな」

両親を褒められるのはとても嬉しい。
しかし今、自分に愛情を注いで大事に育ててくれた両親がピンチに立たされているのを思い出し、みるみる夏初の表情が沈んでいく。

「どうかしたのか」

心配そうに聞かれ、申し訳なくなった。

「いえ、なんでもないんです」

これ以上、気を遣わせまいと勢いよく顔を上げる。
しかし眼鏡越しに目のあった彼は自分を案じているように見えた。
けれど夏初が話さないと決めたのに気づいたのか、彼はそれ以上聞いてこなかった。

寿司を肴に日本酒を飲む。

「そういえば君はなんで、あのパーティにいたんだ?
僕はクライアントに誘われて、仕方なくだが」

それで彼が、あの場の男性たちと雰囲気が違った理由がわかった。
そもそもそういう目的であそこにいたわけではないので、空気が違ったのだ。
それに言い方は悪いがあの場にいる男の地位に群がる女性には自分が弁護士だと知られたくなかったのだろう。
知られればどんなやっかいごとを持ち込まれるかわからない。

「その。
会社の同僚に誘われて」

嘘ではないが目的からは離れた返事をする。
自分も彼の立場を利用する人間だと思われたくなかった。

「君のような人間がこんな誘いを断らないとは思えないがな」

「うっ。
ごほっごほっ!」

もっともな指摘で食べていた鯛の寿司が喉に詰まり、咽せる。

「大丈夫か!?
すみません、水を」

すぐに板前がグラスに注いだ水を渡してくれ、それを飲んでどうにか落ち着いた。

「……すみません」

「いや、いい」

晴貴は気にしていないようだが、これほど取り乱すとは恥ずかしい。

「それで。
なにかあそこに行かなければならない事情があったんじゃないか」

じっと夏初を見つめる彼の目には、揶揄うようなところも馬鹿にするようなところもない。
それだけ自分を心配してくれているのだと気づいた。

「その。
これはあなたが弁護士だからという理由で話すのではありません」

そもそも自分は父の借金返済の力になってくれる人を探すためにあそこへ行ったのだ。
だったら、相談に乗ってくれそうなのに話さないなどありえない。
それでもつい、前置きをしていた。

「うん」

彼の姿勢が少し、夏初に向かって前のめりになる。
それだけ真剣に話を聞いてくれる気なのだと少し嬉しくなった。

「父が経営してた町工場が倒産して。
それで多額の借金ができてしまいました。
両親は自分たちでなんとかするから私は気にしなくていいと言ってくれたんですが、どう考えても両親だけでどうにかできる額ではないんです。
それで、誰か助けてくれる人がいないかとあのパーティに参加しました」

絶対に無理をしているのに、心配させまいと自分の前では笑っている両親を思い出し、涙が浮いてくる。
落ちないように顔を上げると晴貴と目があった。

「だったら、あのパーティに参加したのは失敗だったな」

それは自分でもわかっているだけに、夏初はきつく唇を噛んだ。
しかし、あそこへ行くのは夏初にとって、藁をも掴む思いだったのだ。

「でも、ひとつだけ正解だったのは、こうやって僕の誘いに乗ったことだな」

どういうことかと目で問う夏初に、彼は力強くうんと頷いた。

「今は酒が入っているから詳しい話はしないが、僕がなんとかしてやる」

それは夏初にとってとても嬉しい申し出だけれど、どうして彼は知り合ったばかりの女にそこまでしてくれるのだろう。
それともなにか、とんでもない交換条件を出されるのだろうか。

「あの。
本当にいいんですか……?」

それでも一度掴んだ藁は離しがたく、おずおずと彼に尋ねる。

「ああ。
面白いものを見させてもらったからな。
それに対する報酬だ」

思い出しているのか晴貴は軽く手を口もとに当てて笑っている。
本当にそれでいいのか疑問はあるが、彼は納得しているようなので頼ろうと夏初は決めた。
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