姫始め
 大晦日《おおみそか》はすきだ。大晦日の「晦日《みそか》」は末日のことで、晦《つごもり》は月隠《つきごもり》、月が隠れる月末そのものを指す。一年が終わる晦日なので、「大晦日」と呼ぶようになったと、昔死んだ母ちゃんが話していた。寒い晦日に蕎麦を食べながら、母ちゃんのあったけえ膝の上で聞いたその話を、俺はいつもこの日になると、ふと思い出す。
 何かが終わってゆくこの感じは。諦念《ていねん》とも失望とも違う。受け入れて手放してゆく。心がおだやかになってゆく。俺がいつか死ぬ時は、晦日に死にたいと願う。新年を迎えて、死にたくはない。くっきりと、年の最期とともに逝きたいもんだ。
 鈴が、風にゆれて鳴る音がする。ちりん、ちりんと、しずかだが、熱く、冥界《めいかい》へと、いざなうように。
 風は、ちいさなものではない。透明だが質量があって、冬にしては生温《なまぬる》い風だ。
 遊郭はどこもかしこも、女のにおいに満たされている。つややかだが、どこか上品なおんなの匂い。今年最後の夜は暮れて、星が浮かび、終わりへと近づくばかりで、冬は深まって青くなってゆく一方だというのに、火鉢が炊かれた遊郭の部屋の中は、春のようになまあたたかい。白粉《おしろい》や紅が、空気中を漂うあまい水の如《ごと》く散りばめられて、乾いた男たちの肌にそっとふれてくる。
 俺はいつもよりも湿った己の頬に、ひたとてのひらを当てて、まだ飲んでもいないというのに、酒を浴びたようにぼうっと虚ろになっていた。

「ああ、うめえ。今年の仕事終わりの遊郭の酒は、格別だ。なあ佐助《さすけ》」

 勤め先の簪屋《かんざしや》の親方の声が、遠くのほうから額に響いてくる。じわりとぬるい水が染み込むような感覚だった。

「佐助。なあおい、聴いてんのか。はは、遊郭に漂う女のにおいで、もう酔っぱらっちまったかぁ」

 先ほどよりも間延びした声が、今度はこめかみのあたりにふれてきた。
 昼寝から起こされた餓鬼《がき》みてえに、真っ白に染まっていた意識が、晦日《みそか》の冷えた夜に戻る。嗅覚がとらえるものが、女のにおいから、芳醇《ほうじゅん》な酒の香りへ、ゆっくりと変わってゆく。そこに年老いた男の、汗の乾いた匂いも混じって、俺は少し眉を歪めた。

「……へい。そうですね、親方」

「へい、そうですね。じゃねえや。さっきまで、ぼけーっとしてたくせに。俺の話聴いてたのか?」

「……すいやせん。正直言うと、聴いてやせんでした」

 目の前で親方が、かか、と笑う。共に仕事をしている普段なら、居眠りなんぞ許されねえが、今年の仕事が仕舞《しま》いになって、今宵《こよい》は大晦日。妻子ある他の簪職人たちを先に帰して、残った独り身ふたりだけの無礼講《ぶれいこう》だからこその、ゆるんだ空気感というものが生まれていた。
 さきほどまで、朧《おぼろ》に曇っていたぼやけた視界が、いつの間にかはっきりとしていた。
 親方は片手にちいさな酒器をかるく持っている。
 酒器は白い釉薬が塗られ、その上に藍で椿の花が一輪、器全体を覆うほどの大きさで描かれている。
 立膝をついて座る親方の、すね毛が茂った浅黒い脚のあいだから、むすこが覗きそうになっている。指摘してやろうかと思ったが、面白いのでそのままにしておいた。
 親方のむすこが覗こうがどうしようが、酒の席だし俺は気にしねえ。ましてやここは、遊郭だ。
 そう、俺は遊郭に来ちまったんだ。改めてはっとした。

「お前、遊郭ははじめてか」

 親方の声音が、先ほどよりも低くしずかに響いた。下卑た男のいやしさが、吐息に滲んでいる。

「……ここは、はじめてです」

「へへ。そうかよ。ここの女はいいぞ。あまくて、やわくて、やさしくてな。お前もうちの簪屋に職人として奉公に来て、はじめての年越しだ。遊女のひとりでも抱いて越せ」

「……晦日に女を抱くんですか」

「お前、晦日の夜に男の一人寝《ひとりね》はつらいだろうが」

 俺は押し黙り、そっと親方から視線を落とす。花が落ちるような速度だった。盆に置かれた、白い徳利に描かれた藍の花弁の、端の釉薬がかすれていて、なんだか枯れそうだった。

「お前が前に奉公してた松木屋《まつきや》はひどい潰れかたをした。あこがれの簪屋が跡形も無くなったのをこの目にしたのは、本当に諸行無常《しょぎょうむじょう》というか、虚しかったな……。お前も向こうで苦労した分、うちでよく働いてくれた。今宵は俺の驕《おご》りだからよ。ぞんぶんに女を抱けよ」

「……へい。わかりました」

 ふたたび持ち上げた酒器はかるかった。
 __女を抱く。
 言葉だけが、頭にしっとりと染み込んで残る。女を抱いたことがないわけではない。だがはっきりと言葉にされることで、やがて訪れる出来事に緊張感が生まれる。しかも、そんな気分でもなかった。晦日の夜は早く寝て、新年に備えるのが俺の常だった。実家にいたときは、俺が長男だったので年男《としおとこ》と呼ばれ、正月の準備をまっさきに手伝っていた。12月13日から始まっていた事始《ことはじ》めが、ようやく終わるって感じだった。晦日は晦日で、年の市で売れ残った正月用品を捨値で販売する、捨て市が開かれるから、そっちに体力を使う。だから用が終わりゃあ、すみやかに寝て、体力を回復しておきたかったんだ。晦日にすす払いして疲れた体を癒やすために。
 皮膚の熱が少しあがり、こめかみに汗がにじむ。
 俺は何食わぬ風をして、そっとくちびるに酒器の縁《ふち》をつけると、そのままごくりと残りの酒を飲みほした。
 透明な酒は、見た目の地味さに反して華やかで、どこかせつない香りをはなっていた。口から離す瞬間、見えた酒器のましろい底は、きらきらと昼の川の水面《みなも》のようにひかっていた。そこに映っていた己の顔は、かすかに怯えているようにも、高揚しているようにも見えた。
 さらり。
 背後から音がした。障子が開いたのだ。羽が落ちるような音だったので、障子が動いた音だと理解するのに、いくぶん時間がかかった。
 障子と障子のあいだから、縦に四角く切り取られた紺色の夜空に、白い粉雪がちり、ちりと霞のように、かすかに降っている。
 その下に、白い影があった。畳に三つ指をついて頭を下げている。小柄な遊女だ。髪は島田に結い、べっ甲の櫛《くし》を二枚と、べっ甲製の笄《こうがい》ひとつと、簪《かんざし》を六本さしている。着物は、内が花勝見、外が菊模様で、色は紅と橙。それに格子《こうし》に花菱《はなびし》模様の深緑の帯をだらりと前で締めている。髪は遊女らしくきらびやかで派手だが、図体は小柄だった。だが、確かに大人の女だとわかる。放たれる色香があった。あまくせつないものが、黒い鬢《びん》の下ですっと伸びた白いうなじから香っていた。部屋にほのかに灯された行灯《あんどん》のひかりを浴びて、しらじらと粉雪のようなきらめきを首筋に浮かべている。
 何の花の香りだろう、と無意識に忘れていた記憶の片隅を探っていた。
 うなじにぽちりと、ひとつだけ黒いほくろが浮いていた。
 俺はそれを見て、遠い昔に別れた女のことをふっと思いだした。恋愛関係ではなかった。俺が一方的に想っていただけの、大切なおんなを___
 
「向こうでお部屋の準備が出来んした。あちきが今宵《こよい》、主《ぬし》様のお相手をさして頂く雛菊《ひなぎく》でありんす。よろしゅうに」

 背格好のとおり、可憐《かれん》な名前だと思った。 
 遊女__雛菊は、花が咲いたように、ぱっと顔をあげた。ちり、と花の香りが、彼女の顔を中心にして、円を描くようにふわりと広がる。
 ああ、菊の香りだったのか、と気付いたとき、香りが空気や畳に落ちて、馴染んでゆくのと並行して、俺は硬直した。

「おお、可愛らしい遊女じゃねえか。佐助にお似合いだ。おい、佐助。お前。行ってこい」

 親方が嬉しそうに赤く染まった顔に笑みを浮かべて、顎で俺に示した。出来上がっているが、まだ理性の残っている声だった。
 酒器が畳に落ちて、かすかに残っていた酒のしずくが、畳にしゅりと染みる。
 腕に力が入らない。白蛇が突然腕にからまって、力が吸い取られたようだ。
 俺に向かってちょうど正面にいる雛菊も、俺をまっすぐに見て固まっていた。
花弁のように長く黒いまつげに覆われた大きな瞳だけが、みずうみに月が映ったように、ゆらゆらとゆれて鈍いひかりを浮かべて冴えている。あざやかな着物の裾から出ている揃えた細い三つ指の、蝋燭のような白さが、いやに目立っていた。まだ火をつけられていない、まっさらでなめらかな蝋燭の芯。

「おい、どうした! ああ、酒杯を落としちまって。あんまり綺麗だから、一目惚れしちまったのか?」

 親方はやっと俺の挙動に気付いたらしく、かるく動揺していたが、茶化してくれていた。そして、膝をつめて俺に近寄ると、ぽんと俺の背を叩いた。
 俺はそのかるい衝撃で、はっと理性を取り戻した。

「へ、へい」

 割としっかりした低い声が出たので、自分で安心した。まだ心壊されるほどに乱れてはいない。未《ま》だ。
 雛菊は依然《いぜん》として俺を見上げて呆然としている。かすかに縦に開いたくちびるの紅が目に入り、ふいと目をそらした。

 生ぬるかった部屋に比べて、渡り廊下はきんと寒く、足先から氷《こお》るようだった。素足に、木のつめたさが染み込んでくる。前をしずかに歩く雛菊の速度に合わせていると、肌に染みる寒さのほうが追いついて、俺のからだを喰らい尽くすのではないかというほどに。
 紺色の夜空の下で、中庭に咲いた紅い椿の花と、それを覆う深緑の葉のむれが、くらやみにの中で浮かびあがっていた。色彩がはっきりとしていて、注視しせずとも、存在感がある。
 正直、気持ちが落ち着かなかった。酒のせいではない。意識は、はっきりしている。はっきりと、眼の前の女が誰なのか、からだが告げていた。
 手に持った箱提灯《はこちょうちん》の淡いあかりに、輪郭をうすい黄金《こがね》にいろどられた、ふわりとゆれる雛菊の背と、ましろいうなじに浮くほくろ、時折着物の裾から覗く、寒さでうす紅に染まっている足首に、過去の残像が重なっては消えてゆく。
 
「……お嬢さん」

 雛菊は歩き続ける。静かな速度なので、俺がそっと立ち止まっても、それほど離れることはない。髪にさしたべっ甲が、紺色の闇の中をほろほろと走る月あかりを浴びて、薄黄色に透き通って、しずかさを宿していた。

「お嬢さんですよね」

 ひとひら、何かが紺色の夜空から剥がれ落ちてきた。
 雪だった。まだ降りはじめの、最初のひとかけらだ。
 渡り廊下に雪のかけらが、しずかに染みて消えてゆく。
 雛菊が立ち止まった。
 俺と、ひとひとり分の間を残したまま。
 雛菊の頭にさされた、小菊を象《かたど》った銀の簪が、ゆれてしゃなりと音を奏でた。氷と氷がしずかにふれて鳴る、高い音のようだった。
 雛菊は黙っていた。
 俺も黙っていた。
 時間にしては、かすかな秒であっただろうが、永遠にも思えるほど長い時が、彼女の背中と、俺の鼻尖(びせん)のあいだに止まっていた。
 そして、ふたたびしゃなりと簪がゆれて音が鳴る。きらきらと月のひかりを受けて、白銀にひかる簪だけが、唯一、ふたりの間に希望を生んでいた。
 雛菊は、うつむいたまま歩き出していた。
 俺は、雛菊の歩行と同時に足を踏み出し、彼女のうすい背を追った。
雛菊の手が、障子を開ける音がした。白魚《しらうお》のような、しなやかなゆびだ。
 さらり。
 何故この女が障子を開ける音は、乾いて透明なのだろうと思った。俺や親方が開けたときは、ざらついていたというのに。
 雛菊の手が、そっと障子から離れる。
 障子から横に体を置いて、雛菊が俺に向かって頭を下げた。
 先に入ることをうながされている。神妙に入室した。
 部屋に入ると、渡り廊下の冬の冷気が嘘だったかというほど、春のような生あたたかさが漂っていた。少しの外気にふれただけで、自分の身体が冷えていたことに気づき、両の手を擦り合わせて、裾の中に入れて胸の前で交差させると、敷かれていた紅い座布団にさっと胡座《あぐら》をかいた。
 さらり。
 ふたたび障子が閉じられる音が、背後で鳴る。
 ちら、と振り返ると、雛菊がうつむいたまま後ろ手で障子を閉めていた。銀の簪がひらひらとゆれて、障子からさす薄青《うすあお》の仄明《ほのあ》かりにゆるくひかって、青く染まった雛菊の白い顔の上で、星のように主張していた。
 雛菊は顔をあげた。
 墨で描いた眉を寄せて、瞳はふるえ、今にもしずくとなって落ちそうだった。

「……佐助」

 かすれた声だった。さきほど親方と一緒の部屋にいたときに出していたあまさのある高い声とは違って、低いが芯のある声。一音の質感がしっとりとして聴こえてくる。
 その声を、耳が、この身が覚えていた。

「きく乃《の》お嬢《じょう》さん……!」

「お前、元気だったのね。良かった……」

 心から安堵した吐息を、雛菊__きく乃お嬢さんはついた。やはり、俺の目に間違いはなかった。今の簪屋に勤める前に、勤めていた簪屋の店主の長女・きく乃だった。名も似ていて、ほくろの位置も一緒、顔も瓜ふたつということで、俺の頭がおかしくなっちまったんじゃねえか、と額を小突いてみようかと考えた瞬間《とき》もあったが。やはり、時を共に過ごした女のにおいというものは、いくらあざやかな香《こう》に隠されていても、覚えているものなんだなぁ。涙がほろりと一粒こぼれそうになるのを、鼻を摘んで、うつむいてこらえた。
 ふたたび顔をあげた時、神妙な面持ちになるように、顔の筋肉を保って努めていた。

「お嬢さん、何であなたがここに。しかも遊女に身をやつしているんだ」

 お嬢さんは、瞳を半分伏せて笑った。なんでもないことのように。

「松木屋が潰れた時、借金を返す為にあたしが売られたの」

 俺は、頭がかち割られたように視界がくらりと歪んだ。
 明滅が落ち着くと、今度はお嬢さんが震えていた。
 いや、違う。俺が震えてんだ。
 膝を立てて、力の限りこぶしを握りしめ、振りあげると、畳を数回殴った。三回目に振りあげた時に、血が指と指のあいだから飛び散った。最後にあきらめたように腕を振りあげると、そのままはたりと力を抜いて、情けなく畳に落ちてゆく。

「何てこった……! 何てこった!!」

「……いいのよ。松木屋のためだったらあたし何でもするもの。あたしの体で母さんと父さんと職人達が助かるなら本望だった。あたしから望んだの」

 俺は顔をあげて、お嬢さんを見た。
 お嬢さんは、あたたかな面《つら》と声だった。白い顔は、燐光《りんこう》が重なったように霞んでやわらかくひかっている。天女さまが実在するとしたら、このひとみてえなひとなんじゃねえかと思わせるほど、きよらかさに満ちていた。

「お嬢さん……あなたは」

 俺は立ちあがり、冷静になってあたりを見渡した。
 つながっている隣室があることに気付いた。くらやみの中に、紅い布団がひとつきり、真ん中に置かれている。あでやかな香も、そちらから香っていた。
 息を飲んだ。まばたきも出来ずに紅をみつめた。
 遊郭がどういう場所かわかっていたが、今、この部屋には俺とお嬢さんしかいねえ。

__てぇことは。

 俺はわざとらしく乾いた笑いをこぼすと、隣室から目をそらし、うつむいてお嬢さんの膝に目を落とす。
   
「俺は部屋の端で、てめえの立膝枕にして寝ますんで、お嬢さんは布団でゆっくりやすんでくだせえ」

「佐助」

「じゃあ、おやすみなせえ。よいお年を」 

 踵を返し、お嬢さんに背を向けると、俺は部屋のすみへそろそろと歩き出そうとする。
 腰に衝撃があった。あまくやわらかな感触が、背中いっぱいに広がる。ゆっくりとうつむくと、しなやかな白い腕が、腹にまわされている。
 お嬢さんが、俺の腰に抱きついたらしい。
 何が起きたのか理解するのに時間がかかり、いつの間にか俺は固まっていた。お嬢さんがふれたところに血が集まり、そこばかりが熱く燃えるようだ。
   
「お――」

「佐助、あたしを抱いて」

 目が痛い。俺はそれで、てめえが目を見開いたことを知った。人間、極限まで目をひらくとこうなるのだ。視界が広がっているがぼやけていて、ちかちかと変な色のひかりが浮いて散っている。
 腹の肉に、お嬢さんの腕がさらに食い込んでくる。腹の皮の内側から、火花が咲くようだ。熱い。あつい。やめてくれ__いや、やめないでくれ。
 こめかみにたらりと汗がひとしずく流れる。

「あたしは遊女になってから、すきでもない男に春を売り続けた。来年の姫始めは、すきな男に捧げたい」

「お嬢さん……」

 背中が濡れる感触がした。 
 首をめぐらせて、背後を見やると、お嬢さんがまぶたを伏せて泣いていた。
 まるいまぶたの端に塗られた紅と、ひらひらと白いひかりが浮くまぶた。花弁のように上向いて覆う黒いまつげに、涙のしずくがふれているのを見て、俺はいつの間にかお嬢さんを抱きしめていた。
 顔の横で、お嬢さんの息を飲む声がする。
 抱いた途端、それまで感じていた菊の香りがさらに華やかに広がり、酔いそうだった。俺がお嬢さんを包んでいるのに、俺のほうがお嬢さんに包みこまれている。笑えるな、こりゃ。

「俺も、俺も松木屋で働いていた時からずっとあんたのことが、すきだった。でも、ただの職人の俺が雇い主のお嬢さんに手ぇ出しちゃいけねえって、自分を抑えてたんだ」

 言いながら、手先が震えてきた。いつも簪を作って、器用さを大事にしている手だというのに、惚れた女を抱くときは、愛を告げるときにゃ、こんなに緊張するもんなんだな。てめえの動揺を抑えるために、さらに強くお嬢さんを抱きしめる。
 
「佐助……お前」

 俺は、お嬢さんの細い肩から顔を離し、お嬢さんをみつめた。息がかかるほどすぐそこに、お嬢さんのこぶりな顔がある。
 満月のように大きな瞳は、涙で濡れている。そこに俺の顔が浮かんでいた。情けないほどせつない顔をしていた。ゆれるてめえの顔が、黒いひとみの泉の中で、さらに大きくなってふるふると震える。
 俺はお嬢さんの頬を両手で包み、舌を出すと、頬を下から舐めあげた。
 まるい頬に、唾液の銀の橋が流れる。なめくじが歩いた痕のように。
 なめらかな白い肌は、あまくやわらかで、一度その味を覚えてしまうと、俺の体全体がそれを欲しがって、血が逆《さか》だってゆくのがわかった。
 お嬢さんは最初驚いて瞳をかがやかせていたが、やがて目を閉じた。
 俺は、お嬢さんの真っ赤なくちびるをみつめると、しずかにまぶたを伏せてそこにくちづけた。
 ふれるだけのくちづけは、徐々に激しくなり、お嬢さんが口をかすかにひらいて中へ俺を受け入れるのを合図に、俺はお嬢さんとひとつにからみあった。
 蛇と蛇が身をからませあうような、愛を交わしあう。

 部屋の中はいつの間にか、汗と菊の香りが入り混じったにおいで溢れかえっていた。
 何度交わったか、頭が霞がかって覚えていない。ただ、体が熱かった。互いの熱を与え合って、互いのつめたさを吸い取るような交合《こうごう》が続いた。藍色のくらやみの中に、お嬢さんの白い肌がぼやけて浮かびあがっている。飴玉のようなお嬢さんの声が、俺の口の中へ溶けて消えていった。
 お嬢さんの両足を肩に乗せて、紅の布団を右手で摑んで動く。
 お嬢さんの白いゆびに浮かぶちいさなほくろをみつめていた時、ごおん、ごおん、とどこかで除夜の鐘が鳴った。
 ああ、交わっているうちに、晦日が終わり、年が明けたのだ。
 顔をあげて、小窓の外を見る。ここから寺は見えない。ただ、女の肌と等しい、白い月が浮かぶ紺色の夜空だけが、くっきりと四角く切り取られ、そこから冬の冷気が漂って、部屋の生ぬるい温度と、湿った俺達の肌に溶けてゆくだけだ。

「佐助……」

 俺の肩を摑んだお嬢さんの左手に、ぎりと力が込められる。立てられた爪が肌に食い込み、かるく鈍い痛みが走る。今はその痛みさえ、快楽へと変わった。

「ああ、もう夜《よ》が明ける……。無理をさせましたね」

 布団を摑んでいた右手が離れ、ふわりと浮いたその白を、俺は摑んだ。
 重なった手を縫い付けるように、お嬢さんの濡れた顔の横に置いた。
 肩に乗せていたやわらかな脚を、ゆっくりと下ろし、足の裏を舐めると、お嬢さんはがくがくと震えた。感じるようだ。
 ふたたび、鐘が鳴る音が遠くのほうで聞こえた。もうすぐ濃く深い夜が終わり、朝がやってくる。
 
「佐助……」

 お嬢さんの声はとうにかすれて乾いていた。あれだけ鳴いてりゃ当然だ。誰が鳴かした。おれしかいねえ。その現実にぞくぞくする。背中のすじに、つめたい汗が流れた。
 
 からめた手を持ちあげると、手の甲にくちづけを落とす。節が固く、骨が浮いているのがわかった。汗ばんだ肌は、水を塗られたように湿っていて、吸いつくほどだ。さざんかの花弁にゆびさきでふれたときの、絹のようなやわらかな感触がする。離れると、また菊の香りがはらりと広がって散った。
 
「お嬢さん……」

 俺はそのまま、お嬢さんに覆いかぶさった。固い胸にやわらかな胸が重なり、沈んで合わさってゆく。
 お嬢さんはきつくまぶたを閉じた。目尻から、こめかみに涙が流れて、黒髪のすじに溶けてゆく。
 俺はその涙すらも、舐め取って己のものにした。
 背に回されたお嬢さんの腕が震え、肩に刺された爪に、さらに圧力がかかる。体にも限界が近づいていた。
 そこにあたたかな空気が、こもれびのようにふれた。乾いた朝日が近づいてきたのだ。新しい年が、もうやってきていた。
 ごおん、と最後の除夜の鐘が鳴った音と重なって、お嬢さんの高い声があまく響いて、新しい空気に湿って溶けていった。
 目の前の白い肌が明滅し、さらに純白になったとき、俺の意識も果てた。


 白い朝の凜とした空気が、布団からはみでた脚や、肩を撫でて熱を冷ましてくれる。
頬につめたいものがふれた。風かと思ったらお嬢さんのゆびさきだった。手を裏返す形で、上から下へ。泣いてもいないのに、そっと涙を拭うように撫でてくれる。

「……すみません」

 未《いま》だに俺達は、落ち着かない息遣いをしていた。熱い呼吸が、わずかに空いた顔と顔のはざまで交わって溶け合う。  
 夜の泉のように濡れている、お嬢さんの黒いひとみをみつめた後、俺はそっとまぶたを閉じた。
 真紅に染まった視界の中で、お嬢さんのあたたかな笑い声が聞こえた。鼻先に、季節外れの春の息吹がかかる。
   
「……何で謝るの」

 こちん、と額に固いものが当たり、俺ははっと目を開けた。視界いっぱいに、お嬢さんの顔が広がっていた。額が熱い。お嬢さんに額をくっつけられたのだと気付く。
 さっきまであんなに激しく求め合っていたというのに、額がくっついただけで、餓鬼《がき》のように照れくさくなった。まっすぐにみつめてくるお嬢さんの瞳から、目を逸らしそうになる。情けねえもんだ。

「あけましておめでとうございます」

「おめでとう」

「俺、今年の抱負が決まりました」

「え?」

 驚いて、お嬢さんは口を縦に開けた。
 
「金を貯めて、お嬢さんを見受けすることです」

 俺はしずかに、だが芯をこめて言った。

「佐助……」 
 
 お嬢さんは最初、何を言われたのかわからないというように唖然《あぜん》としていたが、やがてまばたきもせずに、瞳からはらはらと涙をこぼしはじめた。それはやわらかな頬と、こめかみを伝って、透明な川のように白い肌の上を流れてゆく。
 俺はそっと笑みを浮かべ、ゆびさきでお嬢さんの涙を拭うと、やわらかなくちづけをした。



・参考文献
“髪型とファッション 遊女”.ポーラ文化研究所.2021-12-23.
https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture/nihongami/18.html,(参照2025-01-23)

“ 江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子”. EDO→TOKYO 東京の町並みから江戸の輪郭を探る.2015-12-26.
https://edokara.tokyo/conts/2015/12/26/385,(参照2025-01-27)
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