桜庭姉妹の恋愛事情 溺愛なんて想定外の展開でした
1
「昨日送った資料には目を通したか?」
質問の声に返事はない。
木目が美しいオーク材のワークデスクにゆったりとした革張りの肘掛椅子、北欧モダンの個性的な造形の応接セット。ダークブラウンを基調としたシックな印象のオフィスの中で、カタカタとキーを打ち込む音だけが響き渡る。
「……14時からのオンラインミーティングまでに確認しておいてくれ。そのあと15時30分から」
デスクの前で、タブレットを手にすし詰めのスケジュールを読み上げていると、リズミカルなその音がふつりと途切れた。
「オムライスが食べたい」
「……15時30分からアプリ開発の進捗報告会議、19時から」
――ギュルルぅ――
自分のものではない、何かが唸る音が鳴る。
「秘書課の子たちが言ってたんだよ、近くに美味しいお弁当屋さんが来てるって。デミグラスソースのかかった、あったかオムライスなんて最高じゃない?」
キーボードの上に置かれた手は止まったままだ。仕方なく画面を確認する手を止める。腕時計を見ると、確かにそんな時間だった。
「なぁ、僕もアレ食べたい」
「俺の話を聞いてなかったのか。資料の確認をしろ。このあとオンラインミーティングが」
「買ってきて」
「なんだと」
「だってお前、僕の秘書だろ」
正確には秘書室長。だが、この男に言い返してもせんないことだとわかっている。再び液晶画面をなぞる。
「……夜は19時から大丸製薬の齋藤専務との会食予定が」
「僕がオムライスに目がないの知ってるだろう? アレを食べたら仕事のスピードが倍になるかもしれないなぁ」
タブレットから視線を上げると、机に頬杖をついた男が、据え置かれたモニターからひょっこり顔を出していた。
口元にはニンマリとした微笑み。
交渉の場ではいつもそうだ。人の懐にするりと入り込むような笑顔を浮かべ、なんでも自分の思う通りに事を運ぶ。この笑顔に抗える人物がそういないのを彼はわかってやっている。
「オムライス一つで仕事が進むならお安い御用だ」
細縁眼鏡のブリッジを中指でクイッと持ち上げると、口ぶりとは裏腹に深く息を吐き出した。
***
再開発の進む麓山エリアは、新興のオフィス街として有名な街である。立ち並ぶビルには複合施設や気鋭のIT企業などがこぞって参入し、街は大いに賑わいを見せている。
桜庭姉妹の戦場はそのオフィス街――ではなく、そこに隣接する芝生公園。ビルとビルの狭間に設けられた、緑豊かなオフィスワーカーたちの憩い場で、『キッチンカー・フォルトゥナ』は今日も元気に営業中だ。
「こちらロコモコ丼とオムライス、お待たせしました!」
笑顔でお弁当を手渡すのは販売担当の桜庭結衣。接客途中に見上げた空は雲一つない青空で、まさにお弁当日和である。
頃は昼時、公園に設けられたベンチやテーブルは、ランチを楽しむ人たちで満員御礼。定番のホットドックやケバブに始まり、変わり種のエスニック料理やクレープのような軽食に至るまで、遊歩道はキッチンカーでいっぱいだ。
「ジンジャーポーク2つに、あとオムライス3つ」
「ありがとうございます、2500円になります!」
お弁当はジンジャーポークとロコモコ丼とオムライスの3種類。値段は全てワンコイン。一番人気のオムライスは、あつあつの特製デミグラスソースをその場でかけて提供する。そのふくよかな香りに誘われて、モスグリーンとホワイトのツートンカラーでラッピングされたキッチンカーの前には今日も長蛇の列が出来ていた。
だが、数多の客を惹き付けるのは、なにもその香りばかりでない。
「結衣ちゃん、オムライスあがったよ」
「了解!」
キッチンカーの中から姉の彩が顔を出す。
「お待たせしました! ジンジャーポーク2つ、オムライス3つになります」
「……へ、あ、はい!」
弁当待ちの男性客が彩に目を奪われているのを見て、結衣は「ふふん!」と誇らしそうに心と中で鼻をならした。
(うちのお姉ちゃんは美人だからな!)
なにせ自慢の姉である。その出で立ちはといえば、長い髪の毛をひとつに結い、服装も白シャツと結衣とお揃いのグレーのエプロンといういたってシンプルなもの。料理の邪魔になるからと化粧だって控えめだ。でもそれがかえって可憐な容姿を引き立てているようで、彩見たさに足しげく通う客もいるくらいなのだ。
桜庭彩の美貌は、キッチンカー・フォルトゥナの隠れた名物と言っても過言ではない。
この客も、キッチンカーの奥からこんな美人が顔を出すとは思っていなかったのだろう。見惚れるあまり、手渡した弁当入りの紙袋を受け取り損ねて慌てている。
「お買い上げありがとうございます。気をつけてお持ちくださいね」
彩がにっこり笑って声をかけると、男性客は曖昧に返事をしてそそくさと去っていく。「見たか、すっげぇ美人」とか何とか囁き合う声は、彩にはきっと届いていない。彩にとって大事なのは、亡くなった両親の味をたくさんの人に届けたい、ただそれに尽きるからだ。
調理担当の彩は、滅多に表に出てこない。いつもキッチンカーの中で、デミグラスソースの入ったお鍋と向き合っている。彩の作るこのソースは、亡くなった両親が営んでいたレストランの味なのだ。それを再現するために彩がどんなに苦労したか――。
結衣はそんな姉を心から慕い、彼女の夢を支えることに生き甲斐を感じている。そして、このキッチンカーは、まだ夢の第一歩にすぎない。
「次のかたー、お待たせしました!」
そんな慌ただしいが平穏な二人の日常にちょっとした波乱が生じたのは、そのすぐあとのことだった。
「オムライスはあるか」
かきいれ時もすぎて、店じまいの準備をしていた結衣の視界に影が落ちる。顔を上げると、酷薄そうな眼鏡の男が、じろりと結衣を見下ろしていた。
(え、オムライス? この人が?)
仕立ての良さそうなスーツ姿。『キッチンカーの料理なんて』と見下していそうなこの表情で、頼んだ品がオムライス。
似合わねぇ――そんな言葉が頭に浮ぶが、相手はお客様である。
「申し訳ありません、オムライスは売り切れで。ジンジャーポークかロコモコ丼ならすぐにご用意できますが」
「いや、オムライスが欲しいのだが」
「ですから、オムライスは売り切れで」
聞けよ、話を。
イラつきを愛想笑いでごまかしながらそう伝えると、男はかけていた細縁眼鏡のブリッジを中指でクイと持ち上た。
「作れないのか」
「は?」
「作れないのかと聞いている。追加料金が必要ならいってくれ」
「いや、そういう問題じゃなくてですね」
「できないのか。金なら払うと言ってるだろう」
「ちょっと、なんなんですかさっきから!」
売り切れと言ったら普通、引下がるもんだろう。話が通じないにも程がある。
「結衣ちゃん、どうかしたの?」
押し問答を聞きつけて、彩がキッチンカーから顔を出した。男がついと声の方向に視線を向ける。
「君が調理担当者か。先程からオムライスは作れるかと聞いているのだが、埒があかなくてね」
「埒があかないって、どっちが!」
噛み付く結衣をさておいて、彩は何かを考えるように小首を傾げた。
「オムライスですか……少しお時間を頂けるならご準備出来ますが」
「お姉ちゃん!!」
「それはありがたい。だが俺も、ここで出来上がりを待てるほどの時間はなくてね。すまないが配達を頼まれてくれるだろうか」
「配達!? なんでそんなことまで……」
「結衣ちゃん」
結衣の言葉を遮ると、彩は男の方を見た。
「わかりました。どちらに伺えばよろしいですか?」
「CXビルの10階までお願いしたい。話は通しておく」
男はそう言って、胸ポケットからパスケースのようなものを取り出した。
「このカードを渡しておこう。これを使えば正面玄関から入れるから、迷うこともないだろう。君が話のわかる人で助かった」
最後のひと言は、絶対に自分に対する当てつけだ。
去っていく後ろ姿に「べーっ!」と舌を突き出してから、結衣は彩の方を見た。
「もう、お姉ちゃんたら、なんで受けちゃったのさ!!」
「だって、せっかく買いに来てくれたんだもの、お断りするのも悪いじゃない。お母さんたちだって、よくこうやって配達してたでしょ」
「それはそうだけど……」
下町の小さなレストランだった『フォルトゥナ 』にも、よく配達の電話がかかってきた。たとえ忙しい時間帯であっても、軽やかに受け答えしていた母の笑顔を思い出し、結衣はぐっと唇を噛む。
「……でも、卵を切らしちゃってるのに」
「近くで買ってくれば良いだけだもの。篠山さんの卵には劣るかもしれないけど、そこは私から説明しておくわ」
「え、じゃあ配達は」
「私が行くから、結衣ちゃんは店番と後片付けをお願いね」
***
「それじゃあ、行ってくるわね」
声をかけるが、返事はない。片づけをする結衣の表情は、やはり曇ったままだった。どうやら先ほどのやり取りで、すっかりへそを曲げてしまったようだ。
彩を慕い、高校を出てすぐにキッチンカーの手伝いをしてくれるようになった結衣。いつもはハツラツとしていい子なのだが、感情がすぐに顔に出てしまうのが玉に瑕だ。とはいえ結衣はまだ20歳になったばかり。気に障るお客をうまくあしらうことができなくても、それは仕方のないことだ。
オムライスの入った紙袋を握りしめ、彩は気合を入れなおす。ここは、姉である私がしっかりしなくては――とはいうものの、いつもは鍋の番をしているだけで、接客は結衣に任せきりの彩である。指定されたビルを見上げて、その大きさに圧倒されてしまっていた。
「ホントにここなの……?」
高いビルのてっぺんに『CXビル』のロゴが付いているので間違いない。間違いはないが、場違いだ。どうみても、一介の料理人の来ていいような場所ではない。
(大学を中退していなければ、こういう場所にも縁があったのかもしれないけど……)
とにもかくにも配達だ。きょろきょろ辺りを見渡しながらエントランスに入ると、エレベーターホールの手前に改札口のような機械が見える。おそるおそる渡されたカードをかざしてみると、すんなり中に入ることができた。そのまままっすぐ、言われた通りエレベーターで10階に進む。エレベーターを降り、再びあたりをきょろりと見渡す。ガラス張りのゲートの向こうに部屋がある。話は通してあると言っていたが、この奥が配達場所なのだろうか。ガラスにそっと手を触れようとしたその時だ。
「何か御用ですか」
尖った女の声がして、彩はびくりと飛び跳ねた。慌てて振り返ると、綺麗な女性が訝し気な表情でデスクから身を乗り出すようにこちらを見ていた。
(受付があったのね)
緊張しすぎて存在に全く気が付かなった。
「あ、あの、実はお弁当の配達を頼まれまして」
「お弁当?」
彩の頭から爪先までジロリと眺め、女が顔を歪ませた。
「ここにですか? ここは社長室ですよ」
「社長室!?」
「場所をお間違えでは」
「え、でも、確かに……」
あの男性は彩に「10階」と言ったような気がしたのだが、そう言われるとなんだか自信がなくなってきた。
挙動不審に陥った彩に、女はますます態度を硬化させていく。
「どうやって入ったのかは知りませんが、ここは部外者の立ち入りは禁止されています。警備員を呼びますよ」
「ええっ、ちょっと待ってください!」
いくらなんでも一方的すぎる。話くらい聞いてくれていいのに、彩が止めるのも聞かず、女は受話器に手をかける。
「あー、それはちょっと待ってくれるかな」
誰かがそう言って、女の手ごと受話器を電話に押し戻す。
口元に柔らかな笑みを浮かべた、やけにラフな格好をした男だった。
「悪いね。この子、僕の客人なんだ」
彩の手をとり笑みを深める。優しそうでいて、底の見えない、どこか掴みどころのない微笑み。握られた手と彼の笑顔を交互に見比べ困惑する彩の手を引き、ガラスの奥へと男が進む。
「社長!」
社長!? この人が!?
背後から追いかけるように響く女の声に、彩は男を二度見した。
質問の声に返事はない。
木目が美しいオーク材のワークデスクにゆったりとした革張りの肘掛椅子、北欧モダンの個性的な造形の応接セット。ダークブラウンを基調としたシックな印象のオフィスの中で、カタカタとキーを打ち込む音だけが響き渡る。
「……14時からのオンラインミーティングまでに確認しておいてくれ。そのあと15時30分から」
デスクの前で、タブレットを手にすし詰めのスケジュールを読み上げていると、リズミカルなその音がふつりと途切れた。
「オムライスが食べたい」
「……15時30分からアプリ開発の進捗報告会議、19時から」
――ギュルルぅ――
自分のものではない、何かが唸る音が鳴る。
「秘書課の子たちが言ってたんだよ、近くに美味しいお弁当屋さんが来てるって。デミグラスソースのかかった、あったかオムライスなんて最高じゃない?」
キーボードの上に置かれた手は止まったままだ。仕方なく画面を確認する手を止める。腕時計を見ると、確かにそんな時間だった。
「なぁ、僕もアレ食べたい」
「俺の話を聞いてなかったのか。資料の確認をしろ。このあとオンラインミーティングが」
「買ってきて」
「なんだと」
「だってお前、僕の秘書だろ」
正確には秘書室長。だが、この男に言い返してもせんないことだとわかっている。再び液晶画面をなぞる。
「……夜は19時から大丸製薬の齋藤専務との会食予定が」
「僕がオムライスに目がないの知ってるだろう? アレを食べたら仕事のスピードが倍になるかもしれないなぁ」
タブレットから視線を上げると、机に頬杖をついた男が、据え置かれたモニターからひょっこり顔を出していた。
口元にはニンマリとした微笑み。
交渉の場ではいつもそうだ。人の懐にするりと入り込むような笑顔を浮かべ、なんでも自分の思う通りに事を運ぶ。この笑顔に抗える人物がそういないのを彼はわかってやっている。
「オムライス一つで仕事が進むならお安い御用だ」
細縁眼鏡のブリッジを中指でクイッと持ち上げると、口ぶりとは裏腹に深く息を吐き出した。
***
再開発の進む麓山エリアは、新興のオフィス街として有名な街である。立ち並ぶビルには複合施設や気鋭のIT企業などがこぞって参入し、街は大いに賑わいを見せている。
桜庭姉妹の戦場はそのオフィス街――ではなく、そこに隣接する芝生公園。ビルとビルの狭間に設けられた、緑豊かなオフィスワーカーたちの憩い場で、『キッチンカー・フォルトゥナ』は今日も元気に営業中だ。
「こちらロコモコ丼とオムライス、お待たせしました!」
笑顔でお弁当を手渡すのは販売担当の桜庭結衣。接客途中に見上げた空は雲一つない青空で、まさにお弁当日和である。
頃は昼時、公園に設けられたベンチやテーブルは、ランチを楽しむ人たちで満員御礼。定番のホットドックやケバブに始まり、変わり種のエスニック料理やクレープのような軽食に至るまで、遊歩道はキッチンカーでいっぱいだ。
「ジンジャーポーク2つに、あとオムライス3つ」
「ありがとうございます、2500円になります!」
お弁当はジンジャーポークとロコモコ丼とオムライスの3種類。値段は全てワンコイン。一番人気のオムライスは、あつあつの特製デミグラスソースをその場でかけて提供する。そのふくよかな香りに誘われて、モスグリーンとホワイトのツートンカラーでラッピングされたキッチンカーの前には今日も長蛇の列が出来ていた。
だが、数多の客を惹き付けるのは、なにもその香りばかりでない。
「結衣ちゃん、オムライスあがったよ」
「了解!」
キッチンカーの中から姉の彩が顔を出す。
「お待たせしました! ジンジャーポーク2つ、オムライス3つになります」
「……へ、あ、はい!」
弁当待ちの男性客が彩に目を奪われているのを見て、結衣は「ふふん!」と誇らしそうに心と中で鼻をならした。
(うちのお姉ちゃんは美人だからな!)
なにせ自慢の姉である。その出で立ちはといえば、長い髪の毛をひとつに結い、服装も白シャツと結衣とお揃いのグレーのエプロンといういたってシンプルなもの。料理の邪魔になるからと化粧だって控えめだ。でもそれがかえって可憐な容姿を引き立てているようで、彩見たさに足しげく通う客もいるくらいなのだ。
桜庭彩の美貌は、キッチンカー・フォルトゥナの隠れた名物と言っても過言ではない。
この客も、キッチンカーの奥からこんな美人が顔を出すとは思っていなかったのだろう。見惚れるあまり、手渡した弁当入りの紙袋を受け取り損ねて慌てている。
「お買い上げありがとうございます。気をつけてお持ちくださいね」
彩がにっこり笑って声をかけると、男性客は曖昧に返事をしてそそくさと去っていく。「見たか、すっげぇ美人」とか何とか囁き合う声は、彩にはきっと届いていない。彩にとって大事なのは、亡くなった両親の味をたくさんの人に届けたい、ただそれに尽きるからだ。
調理担当の彩は、滅多に表に出てこない。いつもキッチンカーの中で、デミグラスソースの入ったお鍋と向き合っている。彩の作るこのソースは、亡くなった両親が営んでいたレストランの味なのだ。それを再現するために彩がどんなに苦労したか――。
結衣はそんな姉を心から慕い、彼女の夢を支えることに生き甲斐を感じている。そして、このキッチンカーは、まだ夢の第一歩にすぎない。
「次のかたー、お待たせしました!」
そんな慌ただしいが平穏な二人の日常にちょっとした波乱が生じたのは、そのすぐあとのことだった。
「オムライスはあるか」
かきいれ時もすぎて、店じまいの準備をしていた結衣の視界に影が落ちる。顔を上げると、酷薄そうな眼鏡の男が、じろりと結衣を見下ろしていた。
(え、オムライス? この人が?)
仕立ての良さそうなスーツ姿。『キッチンカーの料理なんて』と見下していそうなこの表情で、頼んだ品がオムライス。
似合わねぇ――そんな言葉が頭に浮ぶが、相手はお客様である。
「申し訳ありません、オムライスは売り切れで。ジンジャーポークかロコモコ丼ならすぐにご用意できますが」
「いや、オムライスが欲しいのだが」
「ですから、オムライスは売り切れで」
聞けよ、話を。
イラつきを愛想笑いでごまかしながらそう伝えると、男はかけていた細縁眼鏡のブリッジを中指でクイと持ち上た。
「作れないのか」
「は?」
「作れないのかと聞いている。追加料金が必要ならいってくれ」
「いや、そういう問題じゃなくてですね」
「できないのか。金なら払うと言ってるだろう」
「ちょっと、なんなんですかさっきから!」
売り切れと言ったら普通、引下がるもんだろう。話が通じないにも程がある。
「結衣ちゃん、どうかしたの?」
押し問答を聞きつけて、彩がキッチンカーから顔を出した。男がついと声の方向に視線を向ける。
「君が調理担当者か。先程からオムライスは作れるかと聞いているのだが、埒があかなくてね」
「埒があかないって、どっちが!」
噛み付く結衣をさておいて、彩は何かを考えるように小首を傾げた。
「オムライスですか……少しお時間を頂けるならご準備出来ますが」
「お姉ちゃん!!」
「それはありがたい。だが俺も、ここで出来上がりを待てるほどの時間はなくてね。すまないが配達を頼まれてくれるだろうか」
「配達!? なんでそんなことまで……」
「結衣ちゃん」
結衣の言葉を遮ると、彩は男の方を見た。
「わかりました。どちらに伺えばよろしいですか?」
「CXビルの10階までお願いしたい。話は通しておく」
男はそう言って、胸ポケットからパスケースのようなものを取り出した。
「このカードを渡しておこう。これを使えば正面玄関から入れるから、迷うこともないだろう。君が話のわかる人で助かった」
最後のひと言は、絶対に自分に対する当てつけだ。
去っていく後ろ姿に「べーっ!」と舌を突き出してから、結衣は彩の方を見た。
「もう、お姉ちゃんたら、なんで受けちゃったのさ!!」
「だって、せっかく買いに来てくれたんだもの、お断りするのも悪いじゃない。お母さんたちだって、よくこうやって配達してたでしょ」
「それはそうだけど……」
下町の小さなレストランだった『フォルトゥナ 』にも、よく配達の電話がかかってきた。たとえ忙しい時間帯であっても、軽やかに受け答えしていた母の笑顔を思い出し、結衣はぐっと唇を噛む。
「……でも、卵を切らしちゃってるのに」
「近くで買ってくれば良いだけだもの。篠山さんの卵には劣るかもしれないけど、そこは私から説明しておくわ」
「え、じゃあ配達は」
「私が行くから、結衣ちゃんは店番と後片付けをお願いね」
***
「それじゃあ、行ってくるわね」
声をかけるが、返事はない。片づけをする結衣の表情は、やはり曇ったままだった。どうやら先ほどのやり取りで、すっかりへそを曲げてしまったようだ。
彩を慕い、高校を出てすぐにキッチンカーの手伝いをしてくれるようになった結衣。いつもはハツラツとしていい子なのだが、感情がすぐに顔に出てしまうのが玉に瑕だ。とはいえ結衣はまだ20歳になったばかり。気に障るお客をうまくあしらうことができなくても、それは仕方のないことだ。
オムライスの入った紙袋を握りしめ、彩は気合を入れなおす。ここは、姉である私がしっかりしなくては――とはいうものの、いつもは鍋の番をしているだけで、接客は結衣に任せきりの彩である。指定されたビルを見上げて、その大きさに圧倒されてしまっていた。
「ホントにここなの……?」
高いビルのてっぺんに『CXビル』のロゴが付いているので間違いない。間違いはないが、場違いだ。どうみても、一介の料理人の来ていいような場所ではない。
(大学を中退していなければ、こういう場所にも縁があったのかもしれないけど……)
とにもかくにも配達だ。きょろきょろ辺りを見渡しながらエントランスに入ると、エレベーターホールの手前に改札口のような機械が見える。おそるおそる渡されたカードをかざしてみると、すんなり中に入ることができた。そのまままっすぐ、言われた通りエレベーターで10階に進む。エレベーターを降り、再びあたりをきょろりと見渡す。ガラス張りのゲートの向こうに部屋がある。話は通してあると言っていたが、この奥が配達場所なのだろうか。ガラスにそっと手を触れようとしたその時だ。
「何か御用ですか」
尖った女の声がして、彩はびくりと飛び跳ねた。慌てて振り返ると、綺麗な女性が訝し気な表情でデスクから身を乗り出すようにこちらを見ていた。
(受付があったのね)
緊張しすぎて存在に全く気が付かなった。
「あ、あの、実はお弁当の配達を頼まれまして」
「お弁当?」
彩の頭から爪先までジロリと眺め、女が顔を歪ませた。
「ここにですか? ここは社長室ですよ」
「社長室!?」
「場所をお間違えでは」
「え、でも、確かに……」
あの男性は彩に「10階」と言ったような気がしたのだが、そう言われるとなんだか自信がなくなってきた。
挙動不審に陥った彩に、女はますます態度を硬化させていく。
「どうやって入ったのかは知りませんが、ここは部外者の立ち入りは禁止されています。警備員を呼びますよ」
「ええっ、ちょっと待ってください!」
いくらなんでも一方的すぎる。話くらい聞いてくれていいのに、彩が止めるのも聞かず、女は受話器に手をかける。
「あー、それはちょっと待ってくれるかな」
誰かがそう言って、女の手ごと受話器を電話に押し戻す。
口元に柔らかな笑みを浮かべた、やけにラフな格好をした男だった。
「悪いね。この子、僕の客人なんだ」
彩の手をとり笑みを深める。優しそうでいて、底の見えない、どこか掴みどころのない微笑み。握られた手と彼の笑顔を交互に見比べ困惑する彩の手を引き、ガラスの奥へと男が進む。
「社長!」
社長!? この人が!?
背後から追いかけるように響く女の声に、彩は男を二度見した。
