濡れた月

プロローグ

夜の湿った空気が、肌にまとわりつくようだった。

 小夜子は友人との食事を終え、原宿から渋谷の駅へと向かう坂道を歩いていた。

 雨は小降りになったものの、濡れたアスファルトが街灯に照らされ、鈍く光っている。 

 行き交う人々の傘が揺れ、車のヘッドライトが闇の中でにじむ。

 久しぶりに会った友人との時間は楽しかった。

 お互いの近況を語り合い、笑いながら食事をし、別れ際には「またね」と手を振った。

 それなのに、ひとり坂道を下るうちに、小夜子の胸には奇妙な静けさが広がっていた。

 帰らなければならない。

 いつものように、夫と娘がいる家へ。

 けれど、今夜の街はどこか違って見えた。

 ふと、足が止まる。


 坂道の途中、脇道へと続く路地裏に、ひとりの男がいた。
 
黒いシャツが雨に濡れ、細身の体に張りついている。

 額にかかった濡れた髪の奥、鋭くも物憂げな瞳がこちらを見ていた。

 目が合う。

 暗がりの奥から、小夜子を見つめるその視線は、まるで何かを語りかけるようだった。

 無造作に立っているようで、そこにあるのは確かな存在感。

 知らない男。 

 なのに、なぜかこの視線を無視できなかった。

 雨音がすべてをかき消す。

 街のざわめきが遠のき、時間が引き伸ばされるようだった。

 男の唇が、何かを言おうと動いた。

 けれど、小夜子には聞こえなかった。

 ただ、その瞬間、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを感じた。

 この夜が、自分の人生を変える扉になるとも知らずに——。
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