野いちご源氏物語 一三 明石(あかし)
 四月になった。
 明石(あかし)の入道(にゅうどう)は源氏(げんじ)の君(きみ)のために、夏用の着物や涼しげな家具をご用意した。そこまで熱心に世話されてしまうと源氏の君は落ち着かない。
 入道は平気な顔をしている。あまりに自然で堂々とした態度だから、
<まぁ、よいか>
 と源氏の君もお許しになっている。

 都からは頻繁(ひんぱん)に手紙が届いた。
 のんびりとした夕月夜、海の上に雲もないのをご覧になって、源氏の君は二条(にじょう)の院(いん)の池を思い出される。しかし目の前にあるのは淡路島(あわじしま)だった。
「私が都を恋しがっていることを知っていて、月はこんなにも明るく輝いているのだろうか」
 ひさしぶりに懐(なつ)かしい琴(きん)をお出しになった。
 めずらしい曲を上手に弾かれる音色が、岡(おか)の館(やかた)まで届く。松を通る風や波の音と合わさって、美しく響(ひび)いてきた。入道は修行を中断して浜(はま)の館(やかた)へ急いだ。

「極楽(ごくらく)浄土(じょうど)のような琴(きん)の音色が聞こえたので参上いたしました。出家(しゅっけ)して華やかな暮らしは捨てたはずですが、昔に戻りたいと思わせるような音色でございます」
 泣きながら源氏の君に申し上げる。源氏の君は内裏(だいり)で行われた音楽会のことを思い出しながら、演奏をお続けになる。
<あの人は和琴(わごん)が得意だった、あの人は笛が上手で、あの人はよい声で歌った。そういう人たちを帝(みかど)は大いにおほめになって、私をほめてくださることもあった。まぶたを閉じればありありと思い出せる>
 夢の中を漂(ただよ)うような気分でお弾きになる。

 入道は岡の館から琵琶(びわ)と箏(そう)を持ってこさせて、琵琶を弾いた。筝(そう)は源氏の君の方に差し出す。源氏の君は少しだけお弾きになった。
<琴(きん)だけでなく筝(そう)もお上手でいらっしゃる>
 入道は感動する。
 水鶏(くいな)が鳴いている。戸を叩(たた)くような鳴き声が聞こえた。
<この入道は、私が岡の館の戸を叩いたら、よろこんで娘婿(むすめむこ)として迎えいれるつもりなのだろう>
 源氏の君は入道の心中(しんちゅう)をお分かりになっている。

「やはり筝(そう)は、女性が優しい雰囲気(ふんいき)で弾く方が似合うな」
 何気(なにげ)ない源氏の君の一言を入道は逃(のが)さなかった。
「あなた様以上に優しい雰囲気で弾ける女性などおりませんでしょう。私は昔、とある親王(しんのう)から筝(そう)の弾き方を教えていただきました。もう亡くなってしまわれましたが、親王はそのころの帝(みかど)からお習いになったそうでございます。
 結局たいした上達もしないまま気晴らし程度に弾いておりましたのを、娘がまねしていたようでして。親(おや)馬鹿(ばか)とお思いになるかもしれませんが、今では亡き親王そっくりに弾くようになりました。いかがでございましょう。娘の筝(そう)をお聞きくださいませんか」

 焦(あせ)りと祈りで入道は震(ふる)えながら泣いていた。
<どう答えるべきか。娘のことは気になるが>
 源氏の君はさりげなく話を続けて、返事を先(さき)のばしになさる。
「立派な師匠(ししょう)に習った人の前で、うっかり弾いてしまったな。なぜか昔から筝(そう)は女性向きの楽器と言われますね。
 かつて嵯峨(さが)帝(てい)からお習いになった内親王(ないしんのう)は、特にお上手だったそうです。しかしそのお弟子(でし)は途(と)絶(だ)えてしまって、もう技を伝授(でんじゅ)する人はどこにもいないと思っていました。実際都にも名人と言うほどの人はいませんしね。それなのにこんなところに由緒(ゆいしょ)正しいお弟子がいらっしゃったとは」

 やはり入道の誘(さそ)いを断るのは惜(お)しい。
「消えたと思っていた技が思わぬところで残っているとはうれしい話です。ぜひお聞きしたい」
 入道はぱっと顔を輝かせた。
「ぜひ聞いてやってくださいませ。この館に女房(にょうぼう)として連れてまいりましょうか。琵琶もなかなか上手に弾くのでございます」
 源氏の君には不思議(ふしぎ)だった。
<正式な妻どころか恋人扱いさえしなくてよいと言うのか。入道はそういうところにこだわる男だと思っていた。娘をこの館(やかた)の女房にして、気まぐれにかわいがってやるだけでよいならば、こちらとしては気楽だけれど>

 源氏の君は入道に筝(そう)をお返しになる。
「亡き親王に習ったという、由緒正しい技を聞かせておくれ」
 入道は喜んで弾いた。よいお返事をいただけたことがうれしくてたまらない。
 源氏の君が筝(そう)に合わせてお歌いになると、入道は手を止めてお声に聞きほれる。その後は家来たちも一緒ににぎやかな宴会(えんかい)になった。
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