恋するだけでは、終われない
第二話
「……ということで、いまから校内探検スタンプラリーを行います!」
藤峰先生が教卓の前で、ややテンション高めにそう宣言する。
どうやらこれから、午前中の授業ふたコマ分をたっぷり使って。
校内のあちこちに散らばる上級生たちから、新入生はスタンプを集めて回るらしい。
「よし、出発するぞっ!」
長岡先輩の声を合図に。
三年一組と二年一組から派遣されてきた先輩たちが、クラスの皆と即席のグループとなって次々と廊下に出る。
「念のためにいうけど。スタンプが目的じゃなくて、みんなは教室の場所とかを覚えるんだよ。『みんなは』、ね」
わ、わかりましたから……。
藤峰先生が、僕の席にわざわざ近づいてきて。
無駄に右目でウインクをしながら、意味ありげな視線を送ってくる。
「じゃ、わたしはパン食べに戻るから。あとはよろしく!」
よくわからない先生の宣言を聞かされて、出遅れた僕が立ちあがろうとすると。
「えっ?」
さらりとした、やわらかいなにかが。
僕のおでこに、そっと触れた。
「ご、ごめんなさい。髪の毛があたっちゃったみたいで……」
顔を上げると、少しうわずった声を出した三藤先輩と目が合う。
いつものように耳が赤くなった……かどうかが、一瞬ではわからないほど。
僕たちふたりの距離が近くて驚いた。
「す、すいません。全然気がついていなくて!」
慌ててうしろに下がり、三藤先輩から離れる。
い、いまの距離は……。
し、心臓に悪すぎる。
「い、いいのよ別に……。それよりね、海原くん。藤峰先生に許可は頂いているから、このままわたしと教室に残ってもらえるかしら?」
……なるほど、さっきの藤峰先生の『みんなは』という言葉の意味を。
このとき僕は、ようやく理解した。
こんなときに聞き耳を立てていそうな山川は、すでに長岡先輩やほかの男子たちと出発してるようで。
こんなときに噛みついてきそうな高嶺も、ほかの女子たちを交えて、都木先輩や春香先輩を囲んでいるらしく。
「調理実習室とか行ったら、なにか食べられたりしますか〜?」
廊下からご機嫌にギャアギャアやっている声が聞こえてくる。
ほかに教室に残っていた面々も、別の先輩に声をかけられながら教室から離れて。
ついに一年一組の教室は、三藤先輩と僕だけになった。
「……では、海原くん」
三藤先輩は知ってか知らずか、僕の隣にある高嶺の席に座わる。
「やっぱり、この椅子は落ち着かないわね……」
訂正。わかっていて座ったようだ。
僕は首だけを曲げて、先輩の整った白い横顔を見る。
すると先輩もこちらに首だけを曲げ、一瞬ふたりの目が合い、そしてまた離れる。
「なんだか横だと話しにくいわね、向きを変えてもいいかしら?」
「は、ハイっ!」
僕は慌てて返事をすると、急いで高嶺と僕の机を向かい合わせにする。
先輩が、いつもの。
やや物憂げで、ほんのり潤みがちで、それでいてどこまでも澄んだ紺色のふたつの瞳で、まっすぐに僕を見つめてくる。
あぁ、部室でならともかく。
学年の違う三藤先輩と、同じ教室で。
まさか、机を向かい合わせるなんて……。
なんというか、目を合わせるのがたまらなく恥ずかしくなる。
僕は、もしかしたら。
このとき自分の耳も赤く染まっていたのではないかと思った。
カチ、カチ、カチ……。
静まり返った教室に、うしろにある掛け時計の秒針がこだまする。
「朝の電車とかではゆっくり話せそうにないし、部室もほかの子たちがいると話しにくいかと思ってね」
三藤先輩が、ゆっくりと話し始める。
「せっかくの校内探検の時間なのに、ごめんなさい」
「い、いえ別に構いません」
「……きょうの分は、いつかわたしに案内させて」
単純な男子として、先輩の容姿に惹かれるのは簡単だ。
まだ先輩の内面的なものに時別な感情を持てるほど、僕は先輩のことを知らない。
でも、三藤先輩……。
そんなことをいわれると、単純な後輩の心は、ザワザワしてしまいます……。
恐らく、先輩にそんな想いなどなにひとつ湧いていないのだろうけれど。
「あ、ありがとうございます……」
うれしいという気持ちを必死に抑えながら、僕はできるだけフラットな声で返事をする。
「えっと……。部活の運営に関して、『事務的に』色々説明しておきたいの」
あ、そうですよね……。
なんの期待もしていないといいつつも、実際。
このとき僕はちょっとだけ、がっかりした。
「ご、ごめんね。妙なシチュエーションにしちゃって……」
三藤先輩。
いまのフォローは、いったいなにに対するものですか?
まぁいい、僕もまだ部活のことがまったく理解できていないので。
きちんと聞くにはいい機会だ。
そう考えると、僕の心も少し落ち着いた。
「いえいえ。朝から先生公認で、部活の話が堂々と教室でできるなんてすごいです」
僕としては、これ以上先輩に気を遣わせないために口にしたセリフだったのだが。
どうやら、予想外に先輩には重く聞こえてしまったみたいで。
み、妙な沈黙が流れる……。
「先輩。ま、真面目な話の腰を折ったのなら、ごめんなさい」
「ち、違うのこれは……」
三藤先輩は、再び僕をじっと見ると。
「なんというか、海原くんにフォローされちゃったから。こう、自己嫌悪? ううん、うれしい? ……じゃなくて! と、とにかく。海原くんでよかったと、心の底から思ったの」
み、三藤先輩……。
また、僕の心がザワザワしてしまいそうです。
なので早く、本題に入りましょう。
僕は邪念を必死に追い払うと、自分はただの後輩なのだと脳みそにいい聞かせる。
そう、早く部活の話をしましょう!
ここで余分なことを、考えてはダメなんだ……。
……あぁ、海原くんを前にすると。
どうしても、いつものわたしではいられない。
わたしはここのところずっと。自らの心臓の鼓動が、なぜか海原くんの前でだけ大きくなる。
いまもわたしは、その動揺を抑えるのに、必死なの。
海原くんはいつも、わたしの予想を超えている。
わたしは、『先輩』でいなければならないはずなのに。
どうしても自分がただの先輩でいられず、なんだかもどかしい。
そう、彼はいつもわたしの知らないわたしを見つけてくれる。
それがうれしいのだけれど、わたしはその気持ちを上手に返せない。でも、それをおだやかに待ってくれている海原くんに。
……わたしは心の底から感謝している。
今朝だってわざわざ、彼が新しいクラスの皆と過ごす時間を奪ってまでする話しでないことくらい、わかっている。
だけどわたしは、もっともらしい理由をつけてでも。
どうしても海原くんを、占有したかった。
「いいよ! お好きにどうぞ」
今朝、藤峰先生に許可を取りにお願いに行くと。
先生は理由など聞かず、笑顔で受諾してくれた。
ただその笑顔から、先生の本心を垣間見ることはいまのわたしにはとても難しい。
……もしかしたら、都木先輩や春香に迷惑をかけるかもしれない。
それにこのことを高嶺さんが知ったらどう感じるか、わからなくはないくせに……。
それでも自分の我儘だけを押し通してしまった自分自身を、わたしは少し嫌悪している。
ところが海原くんは、そんなわたしを、笑って認めてくれる。
……ほんとうにわたしは、まだまだだ。
それからわたしたちふたりは、先輩後輩の間柄だけを努めて演じ切った。
互いに、まだすべてをわかち合えたわけではなく。
まだまだ重要な点や、重大な過去について触れられていないことも理解している。
しかし、大筋においてわたしたちのあいだで。
いわば『事務的な』先輩後輩としての理解は深まった。
ふと時計をみると、まだ皆が校内探検から戻るには、三十分以上時間が残っている。
「部活の話は、丁度区切りがよい感じになったわ。少し休憩にしない?」
「そうですね、色々と教えていただきありがとうございました」
耳をすますと。中央廊下を挟んだ反対側の建物からは、にぎやかな声が聞こえてくる。
でも、わたしたちのいる教室棟は、とても静かで。
いまがふたりだけの時間だと、わたしに改めて感じさせてくれた。
「えっと……。意外とまだ時間がありますね」
……僕は、この時間を無言で過ごすのは失礼だと思って。
壁の時計で時間を見たあと、三藤先輩に話しかける。
先輩は腕時計をちらりと見ると。
「ほんとうね」
小さな声でそう答える。
僕には、白く細い手首の内側を眺めるその仕草がなんだか、大人の女性のように思えた。
「海原くん。どこか行ってみたい教室はある?」
僕の視線には、気づかなかったのだろうか。
先輩は、黒板に描かれた校舎の簡単な見取り図に目をやりながら僕に聞く。
「それとも校内探検、いまからでも全部駆け足で回ってみる?」
「えっと……」
僕の本音は、こうだ。
校内は別のときに案内してあげる、先輩が最初にそういってくれたので……。
できれば残りの三十分は、別のことに使いたい。
でも僕がそんなことを思うのは、いけないことだろうか?
いや、たぶん。
先輩を困らせない程度に聞いてみるのは、構わないはずだ。
「それよりも……」
珍しく、勇気を出した僕は。
「三藤先輩お気に入りの場所に、行ってみたいです」
断わられても構わない、そんなつもりで口にした。
「えっ……」
一瞬、三藤先輩の瞳が。
いつもより大きく開いた気がしたのは、気のせいだっただろうか?
意図せず飛び出しかけた言葉を慌てて飲み込むように、先輩は両手で口を塞ぐ。
しまった……。
僕は、調子に乗り過ぎた。
「す、すいません。そんなのいきなり聞くのは失礼でした」
僕は慌てて、訂正を入れる。
「ぜ、全部じゃなくても。どこか少し案内して頂ければ、それで構いませんから……」
三藤先輩は、引き続き口を塞いだまま。
しかしとても控え目に、首を左右に振る。
もしかしたら、ふたりの距離が一気に縮まったのは。
このときだったのかもしれない。