恋するだけでは、終われない
第十三話
「ゴールデンウィーク、たった三日で終わるなんてつまんない……」
朝の列車で、高嶺由衣が窓の外を眺めながら不満そうにつぶやく。
「まだ前半が終わっただけでしょ?」
「そりゃぁそうですけどぉ〜」
「なら、自主休校にしたらよかったじゃない。いまから家に帰ればゆっくりできるわよ。ねぇ海原くん?」
三藤先輩は、朝から絶好調だ。
まぁ、僕を会話に挟まないでくれると、なおよいのだけれど……。
……その余裕がねぇ。
大人の女は、怪しいって思うんだけどなぁ〜。
「おはようございます」
三藤月子は、駅でわたしに会うと。
いつもどおりきれいにお辞儀をしながら、朝の挨拶をしてくれた、のだけれど。
「あら、珍しいのね」
「えっ?」
いつもなら、サラリと右手で横に流すだけの前髪を。
今朝はやけに熱心に、珍しく手鏡まで使ってしきりに気にしている。
「前髪、切ったんだね」
「ちょ、ちょっと伸びてきたと思って、ついでなので……」
いったい、どんなついでがあったのだろう?
そもそも気にするほど伸びていなかった前髪を、わざわざ揃えたんだよね。
もちろん、そんなことは口にしないよ。でもこれは早速、佳織に報告しないと!
「あぁ、若いっていいなぁ〜」
列車の扉が開くタイミングでつぶやいたひとことは、聞こえなかったのだろう。
逆に隣の女の子は、そのとき。
「切りすぎてないわよね……」
わたしのことなど気にかけず、自分の世界に入り込んでいた。
若いといえば、この子たちのおかげで。
赤根玲香が、本当に明るくなった。
「毎日、帰るのが楽しいんです!」
そういわれるのはなんだか、彼女の通う学校の教師としては複雑だけれど。
色々吹っ切れると人間、あんなにも変われるんだっていういい見本よね。
ただね、海原君。
あなたこれから大変よ。
いったい、どうやって『責任』を取っていくつもりなのかしら?
まぁお手並みじっくり、拝見させていただくわ。
でもいまは、とりあえず。
この、目の前で落ち込んでいる子を、どうにかしてあげないと。
海原君。これはお姉さんとして、貸しにさせてもらうからね!
……高尾先生が、カバンの中をゴソゴソしている気配を感じると。
「はい、あげる!」
「えっ?」
顔を上げると、太陽みたいな笑顔の先生が。
カラフルな表紙の英語のフアッション雑誌を取り出し、わたしの前に差し出している。
「おしゃれするときのね、なにかの参考になればどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
わたしが誰かのために、着飾った私服で出歩くとしたら。
それは、どんなときだろう?
いやむしろ、そんなときはくるのだろうか?
受け取った雑誌には、いまのわたしには目に痛すぎるほどほど。
色とりどりの洋服を着たモデルの写真が、たくさん並んでいる。
連休前の、放課後。
機器室に戻ったときの違和感を、わたしは忘れてはいない。
「目に、大きなほこりが入ったの。なかなか取れなくて、大変だったわ」
都木先輩も春香先輩も、帰りの列車で一緒になった玲香先輩だって。
三藤先輩の、そんなあからさまな嘘は信じていない。
ただ、誰も。
いったいなにがあったのかを、聞かないであげただけ。
「そ、そっか……。部室、もうちょっと掃除しなきゃダメだね」
都木先輩が一番最初に、その嘘に乗ってあげた。
それが、悲しいものでなかったのは。
涙の跡を見ただけで。
誰だって、わかるから。
だから余計に、わたしはなにもいえなかった。
……三日あれば、自分の気持ちが少しは落ち着くかと思った。
だけど、リアルに存在するこの人を前にすると。
なんだか三年経っても、解決しなさそうな気がしてしまう。
乗り換え駅で、高尾先生が。
あの人とアイツとの距離があいた一瞬のあいだを利用して。
わたしにそっと、ささやいた。
「高嶺さんたちが落ち込むほど、世の中は進んでないよ」
「えっ?」
驚くわたしの顔を見て、先生はもうひとこと付け加える。
「あれは、ふたりがようやく『過去』を見つけただけ」
そうやって、ニコリと笑った先生に。
あのとき、聞いておけばよかったことがある。
ただ、そのときのわたしにはまだ。
未来のことなんて、見えてはいなかった……。
……モヤモヤした気持ちが晴れないまま、放課後がやってきて。
全員が機器室に集合すると、微妙な沈黙が流れている。
するとまるでタイミングを見計らっていたかのように、藤峰女王がノックなしに扉を開ける。
「いたいたっ! みんな、ちょっと借りるよっ!」
「えっ、またですか……」
「だって困ってるのよ! 頼りにしてるよ、ミスター・ウナハラ」
能天気な先生が、昼休みに続いて海原を連行していく。
なんかアイツ、完全に女王のオモチャになってるよね……。
ふたりの足音が遠くに消えると。
窓から中庭を眺めていた三藤先輩が、わたしたちに聞いてほしいことがあるとつぶやいた。
はたしてそれを聞いたら、わたしは楽になれるのだろうか?
都木先輩も、春香先輩も。
なぜか緊張気味だけれど、聞く準備ができているようだ。
こういうときに、わたしはふと感じてしまう。
そう、わたしはこの人たちよりも、年下なんだ。
「学年のひとつやふたつ、大人になったらたいして変わらないわよ」
いつだったか高尾先生が、そんなことをいっていたけれど。
いまのわたしには。そこにまだまだ、絶望的な溝があるように思えてならない。
「三藤先輩の自分語り、聞かされるんですかぁ?」
そう、こういうのがまさに強がりだよね。
すでになんか、ちょっと負けた気分になる……。
先輩は、わたしの挑発には答えず。
女のわたしが見ても優雅な仕草で、いつもの指定席に腰をかける。
あまり、認めたくはないけれど。
その立ち居振る舞いはやっぱり……。美しいと思う。
「……連休前のことについて、伝えておきます」
だよね、それだよね……。
わざわざ自分からいわなくても責められないことを、きちんと伝えるあなたを。
悔しいけれど、わたしは少しだけ尊敬する。
だってそうでしょ?
あまり、認めたくはないけれど。
自分にできるかと聞かれたら、わたしは……。
「小一の終わりに、近所で迷子になったことがあってね」
えっ? ここで昔話が始まるの?
もっと、アイツとの今後について聞かされるのかと思っていたわたしには。
ちょっと意外だった。
「……そのとき助けてくてね。会ったのはその一度きり。それをこのあいだようやく、思い出してくれたの」
ほ、本当だ。
高尾先生が正しかった。
ふたりが、ようやく『過去』を見つけたんだ。
聞いてしまえば、なんだそれだけ、という『告白』だけれど。
たくさんの想いが詰まっているのが、嫌でもわかってしまう。
実際には、それほど長いあいだではなかったのだろうけれど。
しばらくのあいだ、誰も口をひらけなかった。
「心配させて、ごめんなさい」
三藤先輩が、謝ることじゃない。
でも、いまのわたしじゃ口にできない……。
もう一度、沈黙が流れた。
「ねぇ、月子? だからなの?」
え、春香先輩。
もしかして、笑ってる?
「……どういうことかしら?」
「月子、だから暗かったんだね〜」
「陽子。わたしって、暗いのかしら?」
「暗いよ〜。だから月子いままで無口だったなんて。暗すぎる〜」
「し、仕方ないでしょ! 海原くんを見つけるまで、誰ともしゃべりたくなかったの!」
「ほら。やっぱり暗い〜!」
親友っていいな、とわたしは思った。
こうやってすべてを、包み込めるんだ……。
「ねぇ月子ちゃん。小一からってさぁ……。もう、高二だよ?」
「都木先輩とは違って、わたしは不器用なんです!」
包容力って、あったかいんだ。すごいな、都木先輩。
……わたしも仲間に、加わりたい。
先輩たちの中に、入りたい。
「えっと……。三藤先輩は、重たすぎます!」
すると先輩は、顔色ひとつ変えずに。
「あら。高嶺さんよりは軽いと思うわよ」
サラリと失礼なことをいう。
「体重のことじゃありませんけど!」
「あら、そんなつもりはなかったのに。認めてしまったわね」
や、やられた……。
「もう、いいからいいから!」
春香先輩が助けてくれて、それから四人で、笑い出して。
ふと、今朝の高尾先生の言葉が頭の中にこだました。
海原と三藤先輩が、もしかして『前に進み出した』のかと。
わたしは不安になって、落ち込んでいたけれど……。
「……高嶺さん『たち』が落ち込むほど」
……え?
もしかして?
それって他にも……。
ところが、タイミングがいいというか、悪いというか……。
ここでアイツが、部室に戻ってきた。
「まったく、藤峰先生の人使いの荒さときたら。……って、あれ? なにかあったんですか?」
三藤先輩、都木先輩、春香先輩の三人の目が。
一斉にわたしを見る。
そうだよね、こういう役目は、わたしの出番だ。
「三藤先輩がね、小さい頃からアンタがどんだけ鈍かったか教えてくれただけ!」
目を丸くしている海原に、残りの仲間も容赦ない。
「女の子をずっと待たすのは、ダメだよー」
「ほんと。本人と再会しても忘れてるなんて、ひどいよねぇ……」
「えっ……。三藤先輩? も、もしかして?」
「ふたりだけの秘密にすると、わたしはいった覚えはなかったのだけれど?」
……まったく。
なんなの、その挑戦的ないいかたは。
まぁきょうのところは、それでもいいよ。『月子』先輩。
……機器室の扉の、反対側で。
わたしは響子に、メッセージを送り終える。
のんびりと、背伸びをすると。
お節介な相方からは、すぐに返信が届く。
「ワクワク。こちらもプロジェクト、順調ナリ」
思わず、スマホの画面を見ながらニヤリとすると。
続けて、今度は。
パンのイラストが送られてきた。
扉の向こう側から、元気な声と悲鳴みたいな声が混じり合って聞こえてくる。
「いいね、こういうの」
思わず、そうつぶやいてから。
なんとなくわたしは、懐かしさにかられて。
外の空気を吸うために、歩き出した。