桂花の香りは千里先まで

9 日向雨

「……━━━桂花!」
見上げると、大好きな、あの顔があった。
「来るならここだと思った。」
ああ、なんでこの人は。
人の気持ちに勝手に侵入するくせに。
嫌なのに、隠したいのに。
救ってくれる。
温めてくれる。
なんなんだ、本当に。
(諦め、つかないよ。)
彼の顔を見たら、なにかが決壊したように涙が溢れた。
「……なんで……来たの。」
「教室にいた時から顔色悪かったし。急に出ていくし。心配じゃん。……どうしたの?」
この気持ちを表す言葉が思いつかなかった。
喉につっかえたように、声が出ない。
「……俺に話してくれる訳ないか。」
彼は、寂しそうな声で言った。
「ちが、」
俯いていた顔をぱっとあげると、視線がぶつかった。
鼓動が高鳴る。
彼は私と向かい合うようにして立って、目を見つめた。
「……俺、教員になりたいんだ。」
「……え」
彼は「誰にも言うなよ。」と、後頭部をかいた。
恥ずかしがるときの、癖だ。
「この前話した、中学の部活の話、覚えてる?」
こくんと頷くと、彼は私の頭に手を置き、優しく撫でた。
「あの時、場を収めたのは楓だったけど、あの後少し気まずくてさ。俺、部活サボりがちになってたんだ。」
私は彼を見上げた。
彼も私を伏せ目がちに、見つめた。
「怖かったんだよな。また、失敗して迷惑かけるのが。そしたら、また、何か言われるんじゃないかって。」
ダサいから言うつもり無かったけど、と彼は笑った。
そんなことない、とふるふると首を振って、話を聞いた。
「そん時、いつも厳しい顧問が、腐り切ってた俺に、言ったんだよな。『辛いのは、向き合っているから。痛いのは、自分を知っているから。逃げることは、悪いことじゃない。辛さや痛みのわかるお前は、強い。だから、飛び込んでみろ。それで、逃げたくなったら、俺のところに来い』って。」
そう言って、カーテンの隙間から見える空を見た。
太陽はもう茜色に染っていた。
「かっけえなって思ったんだ。身体の怪我には気づきやすいけど、内側って見えないだろ。なのに、すぐに気づいて、励ますんじゃなくて、逃げた俺を引っ張り上げた先生を、すげぇ尊敬した。だから、俺も、こんな風になりたいって思った。」
私は彼の話を静かに聞いた。
「教育を深く学べる大学行って、教員になる。そんで、俺みたいな生徒の心を、少しでも軽くしたい。……だから、勉強してて、成績にもこだわってる。」
「……じゃあ、なんで、文系に、」
大学の進学を考えているなら、理系の方が入試の科目を取れるし、理系の方がいい。
基礎もままならないような、文系にいるのは、なんというか、意味がわからない。
「その時の顧問は、俺に言うべきことたくさんあったはずなんだ。なのに、その中でも言葉を選んで、俺を傷つけない言葉で言ったんだ。そういうの、たくさんの言葉を知っていないとできない事だと思う。だから、文系にした。入学してから文系は全然イメージ違くて焦ったけど、でも、目標は変わんないからひたすら頑張ったよ。」
「……すごい。すごい!先輩なら、できるよ!」
彼は少し驚いて、視線を移した。
その目はしっかりと私を捉えた。
私も彼を見つめた。
視線がぶつかって、どくん、と脈打った。
彼は私の腕を引っ張って、彼の胸に押し付けた。
そして、彼の腕にふんわりと包まれた。
優しく、でも、少し強く。
彼の温もりを、今まで以上に、大きく感じた。
「ありがとう。あと、……この前は、ごめん。突き放すように言って。ダサい話、したくなかった。」
「私も、無理やり聞こうとして、ごめんなさい。」
そう言うと、包んでいた腕が少し緩んだ。
彼を見上げると、至近距離で目が合った。
顔が熱い。
身体が熱い。
心臓がうるさい。
触れてしまいそう、けれど、すこしもどかしい距離。
彼の瞳に私が映っていて、私の視界にも彼だけが映っていた。
彼は頬で乾いた私の涙を拭った。
そして、そのまま、私の巻き下ろしていた髪を取り、唇に当てた。
彼の目は、少し濡れた大人っぽい瞳だった。
「もう、何も隠してないよ。」
そう言って、彼はじっと私を見つめた。
「桂花は?」
「……え?」
「隠してること、言いに行かなくていいの?」
先輩が好き。
ずっとずっと、大好きだった。
私の隠していることはそれだけ。
シンプルなのに、複雑なこの気持ちだけ。
伝えたい。
叶わなくったって、いい。
この気持ち、何一つ隠さないで堂々と、彼に伝えたい。
━━━━でもその前に、言わなきゃいけない人がいる。
「先輩、私、隠したくない。だから…行ってくる!」
「うん、桂花なら大丈夫だよ。」
そう言って、私の大好きな笑顔をみせた。
強く頷いて、大会議室を飛び出した。

やっと楓を見つけたのは、文化祭が終わり、後夜祭が始まる前だった。
クラスの中は後日片付けるが、大まかな掃除をクラスで協力していた。
楓はシフトが終わってから、たくさんのクラスを回りまくったようで、手には景品やら食べ物やらが複数個ぶら下がっていた。
「……楓、少しいい?」
緊張で声が震える。
その様子を見た楓は、持っていた袋を置いて、「向こう行こうか。」と階段の踊り場を指した。
「どうしたの、桂花。なにか、話?」
「……う、うん。」
いざ、対峙するとなんて伝えればいいのか分からない。
手が震え、変な汗が出る。
怖くて目が合わせられない。
伝えなきゃいけないのに。
楓との関係が変わってしまうかもしれないことを恐れてしまう。
「……あ、あの。わたし、」
「千里先輩が好き?」
振り絞って震えた私の声に、被せるように楓が言った。
驚いて顔を上げると、真っ直ぐと私を見ていた楓との視線が絡まった。
「……ど、して……」
「分かるよ、それくらい。友達だもん。」
驚きを隠せない私の顔を見て、楓は笑いながら言った。
眉を下げる、寂しげな笑い方だった。
「……ごめん、楓。楓も、千里先輩が好きって気づいてたのに、止められなくて。やめたいって思えば思うほど、強くなって、持ちきれなくなった。楓に言ったのも、抱えきれない気持ちを少しでも楽にしたかったのかも。…私の事、自己中の嫌な奴って思っても、いいから。」
そう言って、涙がこぼれそうになった。
しどろもどろに話す私を、彼女は優しく頷きながら聞いてくれた。
なのに、私は、楓のように立ち向かうことも出来ないし、戦うのも怖くて出来ない。
自分の弱さが露呈して、恥ずかしくなった。
俯いていた顔をあげられない。
こんなやつだって、思われたくなかったな。
楓も、千穂も、大好きなのに。
私のせいで、関係が崩れてしまうんだ。
「……あの、桂花?」
楓はこんな時にも、優しい声で私に声をかけた。
その優しさが、痛くて、いやだ。
自分の惨めさに、気付かされるようで、嫌になる。
「ごめん、楓。ほんとに。自己中な考えで。」
そう、ぽつりと呟いた。
消えかかったかすれた声だった。
楓はそれを聞いて、突然、破裂するように笑った。
「あははは、どゆこと?なんでそんなに追い込んでるの?」
あー意味わかんない、とお腹を抱えて笑っていた。
思っていた反応と違くて、戸惑う。
「……え、」
「私が、千里先輩を好き?…あはは、好きじゃないわ!そんなこと言ったっけ?」
楓が笑いながら、顔の前でヒラヒラと手を振った。
「……え、だって、千里先輩と話してたとき仲良さそうで楽しそうだったし、後夜祭…の話もしてたし。」
「そりゃ中学同じなんだから、仲も良いし楽しいよ!」
もー、それで?考えすぎ!と、くすくすと笑っていた。
「安心して。私は千里先輩のこと好きでもなんでもないよ。」
「……よ、かった。」
腰が抜けて、膝から崩れ落ちた。
楓が慌ててしゃがんで、私の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?」
「……私、楓と、もういつも通りに戻れないのかなって。…怖かった。」
「……ごめんね、不安にさせて。大丈夫だよ。」
涙声になってしまって、声が震えた。
楓は、少し驚いて、優しく笑ってくれた。
その笑顔を見ていたら、今までの不安や後ろめたさがきえて、その代わりに涙が溢れてきた。
楓は、私の背中を優しくさすってくれ、落ち着くまでずっと傍に座っていてくれた。
教室の片付けをサボってしまったけれど、2人で「まあ、いっか。」と笑いあった。
数十分まえまでは、こんな風になるなんて予想も出来なかった。
こうなった相手が、楓でよかった。
楓は、私の支えだ。

「……桂花。」
涙が枯れて落ち着いたころ、楓は、優しいけれど真剣な声で言った。
「桂花のその大切な気持ち。千里先輩に伝えなくていいの?」
どきりとした。
楓は、優しく微笑んで、言った。
「私と、千穂は、どんな時でも桂花の味方でいるよ。」
その言葉が、どれだけ私を支えてくれるのか。
結果が良くても悪くても、きっと寄り添って、暖かく見守ってくれるんだろう。
出来ない、無理だって思っていたことが、途端に、踏み出す勇気に変わった。
「……楓、私……行ってくる!伝えてくる。…振られてしまっても、後悔しない気がする!」
「うん。行ってこい!」
勢いよく立ち上がって、楓に言った。
楓は、にかっと笑った。
そして、飛び出した。
階段を思い切り駆け下りた。
「……桂花!!」
いきなり、頭上から名前を呼ばれ、足を止めて顔をあげると、楓が親指を突き出して、言った。
「大丈夫!きっと、桂花の気持ちは、千里先輩まで届くよ!!」
「……うん!ありがと、楓!」
そして、また足を動かした。
千里先輩がきっと居る、大会議室に向かって。
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