堕ちていく

第23話 風のように光のように

事故から一ヶ月。
紗英は、リハビリ病棟のベッドの上にいた。

下半身は、まったく動かない。トイレも、ベッドの上で済ませるしかなかった。
鏡に映る自分の姿が、遠い誰かのように感じられた。

──私、また全部失ったのかな。

そんな気持ちに沈んでいたある日。
病室に航平が、色とりどりの折り紙を持ってやってきた。

「こないだ、児童館で子どもたちとやったんだ。『くまくん』の新しい帽子、作ってくれた子がいてね。ほら」

そう言って渡されたのは、折り紙で作られた青い三角帽子と、下手だけど一生懸命描かれた「くまくん」の似顔絵。

「……わたしの…くまくん、だ」

その瞬間、紗英の目から涙がひとすじ、静かにこぼれた。

「紗英さん。君が描いた絵本は、ほんとうに、誰かの希望になってるよ。ぼくも……その一人だ」

その夜、紗英は病室の小さな机にノートを広げた。
震える手で、鉛筆を取る。たどたどしい線の先に、小さなくまの姿が現れる。

──動かなくなった足でも、私はまだ、前を向ける。

数ヶ月後──

車椅子に乗った紗英は、都内の小さな図書館の児童スペースにいた。

「今日は、くまくんのお話をしてくれた、さえ先生です!」

司書さんの紹介に、子どもたちが「こんにちはー!」と声を揃える。

「今日はね、『くまくんのとおいみち』の続きのお話、『くまくんの つよいこころ』を読もうと思います」

くまくんは、旅の途中で足を怪我して歩けなくなる。でも、森の仲間たちに助けられながら、心の目で道を見つけていく。
子どもたちは真剣な目で絵本を見つめ、ときにクスクス笑い、ときにぎゅっとくまのぬいぐるみを抱きしめた。

その様子を、航平は少し離れた場所で、やさしく見守っていた。

読み終わったあと、子どもたちのひとりが紗英に聞いた。

「せんせい、なんで車いすなの?」

少し戸惑った空気。でも紗英はにっこり笑って答えた。

「転んじゃって、足が動かなくなったの。でもね、大事なことをいっぱい見つけたよ。足で歩けなくても、心で前に進めるんだってこと」

その言葉に、子どもたちが「うん!」とうなずいた。

帰り道、タクシー乗り場へ向かう途中──

「今日の朗読、すごく良かったよ。君の声、心に届くんだ」

航平が、そっと紗英の車椅子を押しながら言った。

「ありがとう。でも…やっぱり、あなたの人生を縛ってないかな」

「紗英」

足を止め、彼はしゃがんで、紗英と目線を合わせた。

「僕は、自分で決めて、君のそばにいるんだよ。縛られてるなんて思ったこと、一度もない」

「……そっか」

ぽろぽろと、涙がまたこぼれる。でも、それはあたたかくて、前を向ける涙だった。

「じゃあ、そばにいてくれる?」

「もちろん。これからも、ずっと」

ふたりは、暮れかけた空を見上げた。
オレンジ色の光の中、風が静かに吹き抜けていった。
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