堕ちていく

第7話 裏切り

 ビル街の隙間にある小さな公園。夜の街灯に照らされながら、紗英はベンチにひとり、うつむいて座っていた。



手元には何もない。荷物も財布の中身も、もうほとんど底をついていた。ただ、冷え切った風が、彼女の頬を容赦なく撫でていくだけだった。



「……どうしたの? こんな夜に」



ふいに、声をかけられた。



顔を上げると、スーツ姿の男が、缶コーヒーを二つ持って立っていた。



「よかったら、これ……」



男はやわらかく笑いながら、温かい缶コーヒーを紗英の前に差し出した。



紗英は一瞬、警戒しつつも、寒さに耐えかねて受け取った。



「……ありがとう、ございます」



缶を両手で包み込みながら、ようやくかすれた声を出す。



「こんな時間に、公園で女の子が一人で座ってるなんてさ。心配になるよ」



男はベンチの隣に腰掛け、どこか気さくに笑った。



「……帰る場所が、ないんです」



ぽつりと紗英は言った。



男は驚いたように眉を上げ、それからしばらく黙っていたが、やがて優しい声で言った。



「そっか。……俺も、ひとりなんだ」



「……え?」



「独り身でさ。こっちに来たばかり。知り合いもいないし、毎日つまんないんだよね」





…本当に独身か?でも……。



紗英は頭が回らなかった。ただ、温かい言葉に、すがりたくなった。



「行くところがないなら……今夜だけでも、うち来る?」



一瞬、鼓動が跳ねた。

けれど、紗英には断る理由も、断る元気もなかった。



「……お邪魔、してもいいですか」



か細く答えると、男はうれしそうに笑った。





タクシーに乗り、男のマンションへ向かう間、紗英はずっと窓の外を見ていた。夜のネオンが滲んで見える。ふいに、死産した赤ちゃんのことが頭をよぎったが、意識的にその記憶を押し込めた。



今は、生きることだけを考えなきゃ。それだけだった。







男の部屋は、きれいに整っていた。

独身というには、生活感がありすぎたが、紗英はそれ以上深く考えなかった。



シャワーを浴びさせてもらい、出てきたところで、男がビールを差し出した。



「飲める?」



「……はい」



アルコールに弱い体質だったが、断る理由もなかった。缶を開け、流し込む。



ふいに男の手が、紗英の肩に触れた。



「……大丈夫。怖がらないで」



その手の温もりが、妙に優しく思えた。



「俺、独りだし……寂しいんだ」



男の言葉に、紗英は心のどこかで警戒心を叫ばせた。けれど、同時に、あたたかさにすがりたかった。



「私も……ひとりだから」



そう呟いた瞬間、男の腕が彼女を強く抱き寄せた。





翌朝。

紗英が目を覚ますと、男の姿はなかった。



テーブルには置き手紙が残されていた。



《急な仕事が入った。鍵はポストに入れといて。タクシー代はないけど、なんとかして。》



紗英は茫然とした。



財布を探しても、小銭が数百円しかなかった。



しばらくして、部屋の奥に、男の荷物らしき段ボール箱を見つけた。

その側面には、マジックで小さくこう書かれていた。





《送り先 佐山祐介様

送り主 佐山明美

中身 夏物衣類》





一瞬、言葉の意味が飲み込めなかった。



でもすぐに、理解した。



──男は、“単身赴任中の既婚者”だったのだ。



胸の奥で、何かがまた崩れた。



昨夜抱き寄せられた腕も、優しい言葉も、すべて偽物だったのだ。





バッグ一つ抱え、紗英はまた夜の街へ歩き出した。



行くあても、帰る場所も、誰かを信じる心も、すべてどこかに落としてきた気がした。



「……私は、どこまで堕ちていくんだろう」



誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。



朝の光が冷たく、空っぽの身体に突き刺さった。

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