【仮題】別れのためのシャ・ラ・ラ
瑠璃は封筒を抱えた。給料の一部が入っている。
「理沙ちゃん」
帰宅して、身が落ち着くと妹を呼んだ。ソファーでスマートフォンを触っている理沙が顔を上げる。
「はい、今月のお小遣いね」
不機嫌そうな表情が一瞬にして輝く。ソファーを蹴り、飛ぶようにやって来る。
「ありがと、お姉ちゃん」
瑠璃の手から封筒が抜ける。理沙は封筒の口を開け、紙幣を数えた。
瑠璃の手にはもうひとつ封筒が握られている。
玄関ドアが開いた。
「おかえりなさい、翼ちゃん」
姉妹とは似ない黒髪の青年が入ってくる。長い手脚の持主は、気怠げに前屈して靴を脱ごうとしたが、顔を上げて瑠璃を捉える。
「……ただいま」
姉妹には似ない冷ややかな顔立ちであった。長い睫毛に囲まれた目は一瞬、あどけなく丸くなったが、相手が姉だと分かった途端に外方(そっぽう)を向く。
「翼ちゃん。早く手を洗っておいで。今月のお小遣いを渡すから」
理沙の兄で、瑠璃の弟である翼は靴を脱ぎ、姉に尻を向けて揃える。それから畏まった様子で向き直る。
瑠璃は大いに身長を追い越した弟を見上げる。180cm余。
「ここで渡す?」
しかし弟は緩やかに首を振った。
「姉さん……シフト増やしたから、俺にはもう渡さなくて大丈夫。姉さんが自由に使ってくれ。俺も家に入れるようにするから……」
翼は鞄から封筒を取り出した。そして姉へ突きつける。
瑠璃は封筒を見詰めてしまった。
「いいのよ、翼ちゃん。お弁当も作ってあげられなくなっちゃったし、お昼ごはん買うのも、お友達と遊ぶのも、その………大変でしょう?」
瑠璃は大学に進学しなかった。できなかった。入院中の母に代わり、経済的に家を支えなければならなかった。そのために彼女は大学生活というものを知らない。だが憧れはある。華の大学生の弟には惨めな思いをさせたくない。正社員として勤めている会社のほかに朝方にアルバイトを増やしたがため、弟と妹に弁当を作れなくなってしまったのだ。
「それは俺の問題で、姉さんの心配することじゃない」
弟は封筒を受け取らず、むしろ封筒を押し付けて瑠璃の脇を通り抜けていく。
「こんなに貰えないよ」
「姉さんも少しは休んでくれ」
翼はリビングに入っていく。理沙が喋りかけるのが聞こえた。
◇
夕食を作っていると、玄関ドアの開く音が聞こえた。妹の理沙がアルバイトから帰ってきたのだろう。
「ただいま、理沙ちゃ……」
玄関ホールに着くよりも先に、瑠璃は足を止めた。理沙の他に、三和土(たたき)へ踏み入る人物がいた。背の高い、若い男だった。大学生くらいであろう。靴を脱ごうとして下を向いている。爽々とした髪は色素が薄く、明かりの仄かに跳ね返す。
「理沙ちゃんの……お友達?」
もうすぐで夕食の時間帯である。
瑠璃は理沙に訊ねた。しかし妹ではなく、来客が応える。
「お邪魔します。初めまして。理沙ちゃんと同じアルバイトの、乙生(いつみ)と申します。乙生(いつみ)星月(せな)……」
顔を上げた若い男は落ち着いた物腰で自己紹介をはじめたが、瑠璃と視線を合わせた途端、語気の抑揚が乏しくなる。終いには何も発していないというのに魚よろしく顎を動かしていた。
「い、いらっしゃい……理沙の姉です。散らかっているけれど………ゆ、ゆっくりしていって」
遅い時間である。事前に話があったわけでもない。瑠璃も仕事から帰ってきたばかりで、部屋は片付いていなかった。妹が無理に家に連れてきたのであろうか。
「本当、散らかってて汚いんだけど、ゴメンね?」
理沙は隣の乙生星月とかいう若い男の腕を掴み、高いところにある顔を覗き込む。彼は瑠璃を食い入るように見詰めていた。
「ねぇ!」
「あ、いや……そんなことはありません。夜分に突然来てしまって申し訳ないです」
「そうだ、セナさん、夕飯食べていきなよ」
瑠璃は、うっ、と唇を引き結ぶ。3人分の用意であった。
「突然ですし、さすがにそれは……」
ウツギの花のような青年だった。困り顔にも、さらに困らせたくなるような艶がある。理沙は腕を引っ張っている。
「粗末なものしかありませんが、もしよろしければ……」
しかし妹が連れてきた友人なのだ。無下にはできない。妹には貧しい暮らしを強いてしまっている。家を恥じてか、友人とは外で遊んでいるようであった。
「それでは……お言葉に甘えて……」
理沙が星月をリビングへ通していく。
「本当、散らかっててごめん。今片付けるからさ!」
理沙の声の隅で、瑠璃は部屋脇に放置していた買い物袋を隠す。キッチンに回り、夕食の支度に戻る。
「もうすぐで用意できますから」
こういう日に限って惣菜で済ませようとしていた。
キャベツを切っていると、またもや玄関ドアが開いた。翼が帰ってきたのだろう。いつもならば出迎えたが、瑠璃はキャベツを切り続けた。
リビングに足音が近付く。
「ただいま」
翼はリビングに入った一歩目で佇立(ちょりつ)した。星月が気付き、先程玄関であったことと同じような挨拶を述べる。翼は返事をするのみだった。そしてキッチンに立つ瑠璃に振り向いた。
「……ただいま」
「おかえりなさい、翼ちゃん。もうすぐ夕飯できるから」
「……大丈夫か」
「うん、大丈夫だよ」
突然の来客に向けた用意などない。4人掛けのダイニングテーブルは一席分、物置として機能していた。
翼は一旦自室に戻っていった。そしてふたたび、瑠璃の元へやって来る。隣に立ち、距離を詰めた。
「部屋でいただくよ」
「大丈夫よ。理沙ちゃんのお友達だから、翼ちゃんも仲良くしてあげて」
瑠璃はトースターにかけた3人分のとんかつに包丁を入れる。衣が音を立てて割れていく。
「お姉ちゃん、ちょっとやることがあるから、あとで食べるし。ね?」
「俺は姉さんと――」
翼の声は途切れた。理沙もキッチンへ回ってきたのだった。
「えっ、今日、出来合いのもの? やだ〜、恥ずかしい。ごめん、セナさん」
「そんな……――」
星月がキッチンを振り返る。理沙へ向くはずの視線が瑠璃で留まり、水気の多い瞳が虚ろに静止している。
「仕事終わりに買い物行って、他の用意もしてくれているんだから、十分ありがたいだろ」
翼は理沙を避けて、皿だの箸だの配っていく。
「せっかくいらしてくれたのに、こんなのですみません……」
瑠璃は笑みを繕い、星月に頭を下げる。
「謝らないでください。いきなり来てしまったのに……ごちそうさまです」
星月の目は妖しい光に取り憑かれたまま、リビングを抜ける彼女を追っていた。
瑠璃は脱衣所で洗濯物の選別をした。洗濯機を回し、風呂を洗う。湯を沸かした。
彼女には部屋がない。帰宅時に回収し忘れ、玄関に置いたままの仕事用の鞄から本を取り出す。資格試験のための参考書だった。玄関に座り、膝を卓にしてページを繰る。
「姉さん」
「うわ、びっくりした」
瑠璃は肩を跳ねさせた。翼が立っている。
「翼ちゃん、ごはんは?」
「俺もまだいい」
「食べるの遅くなっちゃうよ。明日も早いんでしょう。お姉ちゃんのことは気にしないで大丈夫」
翼は長い睫毛を伏せた。
「俺が姉さんと食べたいんだよ」
「……そうなの? ごめんね」
「姉さんの謝ることじゃない」
口を開きかけ、思い留まった。姉弟であるというのに、大した会話のパターンを持っていない。
彼は隣に座った。
「新しい資格、取るのか」
「う、うん。朝のパートは辞めて、もっとお給料のいいところに転職しようかと思って。そうしたらお小遣い、増やそうね。翼ちゃんもシフト少し減らせるし。もっと広いおうちに引っ越したりして……」
弟に損はない話である。しかし彼は好い顔をしない。無愛想ではあるが、他人の情を解せない性質ではなかったはずだ。
冷静で聡明な彼は見透かしているのだ。夢の話だ。多少給料が上がったとて、引っ越しはすぐに叶うことではない。住所変更も厄介である。しばらくはまだまだ、弟や妹にも学業の傍らアルバイトを強いることにもなるのだろう。
「応援はしたい……でも、無理もしてほしくない」
「ありがとう、翼ちゃん。無理はしてないから、そこは心配しないで平気。むしろ……ちゃんとしなきゃね……」
いつ、妹がまた友人を連れてきても恥じないようにしなければならない。
「理沙ちゃんだけじゃなくて、翼ちゃんにも恥ずかしい思いさせちゃったな」
「何の話?」
「さっきの……ちゃんと手作りじゃなきゃ……味はお惣菜のほうが美味しいけれど……」
瑠璃は俯いた。膝の上の専門知識の羅列も、今は頭に入らない。
「向こうがいきなり来たんだろう?」
「でも、理沙ちゃんがやっとお友達を連れてきてくれて嬉しかったの」
「姉さんは、十分にやってくれている。不足があるなら俺と理沙でどうにかするべき問題だった。理沙(あいつ)はそれを分かってない」
「理沙ちゃんは悪くないのよ。もちろ翼ちゃんもね」
瑠璃は参考書を閉じた。
「お風呂を見てこなくっちゃ」
立ち上がり、風呂場に向かう。脱衣所の洗濯機は轟音をたてていた。浴室へ通り抜け、風呂を確認すれば、水嵩も丁度よく溜まっている。
頃合いを見て瑠璃はリビングへ戻った。すでに理沙たちは夕飯を食べ終えていた。テーブルに皿が置かれている。客人のほうは重ねられていた。
「ごちそうさまでした」
星月はリビングからダイニングテーブルの瑠璃を振り返る。一瞬にして目の色が変わる。渦を巻くような瞳を嵌め込んで、傍へやってくる。足取りは浮ついていた。
「ゆっくりしていてください」
「ありがとうございます。でも、お皿洗い手伝います」
皿の汚れを水で落としていると、星月が隣に立つ。
「お気持ちだけいただきます。理沙ちゃんのお客さんですし……お手伝いなんてさせられませんから」
星月は話を聞いているのかいないのか、反応がなかった。瑠璃を見詰めている。色素の薄い瞳に射す光は粘性を帯びて揺蕩う。
「あ、の……」
「あっ、すみません。ボーっとしちゃって」
「きっと疲れているんじゃありませんか。ゆっくりしていてください。食後でしょうし」
瑠璃は笑みを向けるが、星月は浅く首を傾げるのみだった。結ばれてしまった視線を千切ることも赦さない。
「俺がやる」
翼が入ってきた。星月の後ろを無理矢理にすり抜け、瑠璃の肩を押さえて立ち位置を入れ替える。
「翼ちゃん」
「姉さんも休んだら」
翼は完全に背を向けた。星月の粘こい眼差しに、ふと明かりが灯る。
「翼くんだっけ。理沙ちゃんから聞いたんだ。手伝うよ」
弟が星月を睨むのが、2人の間から見えた。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて、よろしくお願いします。翼ちゃん、お願いね」
「皿洗いは一人でできる」
瑠璃に、上手く2人を執り成せるほどの器用さはない。
「そうだよ。いつもお姉ちゃんが一人でやってるんだし。それよりセナさん、コンビニ行かない?」
理沙は星月の腕を組む。
「理沙、何時だと思ってる」
翼が口を挟む。
「もう遅いですし、ほら、ご家族も心配しています。今日は本当にごちそうさまでした。また……遊びに来てもいいですか」
星月は瑠璃を向く。瑠璃は理沙に返答を窺う。しかし理沙には気付いた様子はない。
「もちろんだよ、セナさん。いつでも来て」
「いずれまた、お邪魔します」
星月の微笑は粉雪が溶けるようだった。
星月が帰り、瑠璃は弟と遅れた夕食を摂った。玉子焼きを一品増やし、2人で分け合う。
黙々と食べる翼は、明日も朝早くからアルバイトかあり、それから大学生に通って、またアルバイトに戻る。大学生というものを瑠璃は知らないが、高校生よりも自由が増え、遊び歩きたい年頃であろう。理沙と星月のように友人たちとの付き合いもあるはずだ。
「手伝ってくれてありがとう」
翼は上目遣いになった。
「……別に、俺もこの家の人間だから」
「翼ちゃんも、おうちにお友達とかカノジョとか、連れてきてもいいんだよ。恥ずかしくなかったら……」
「カノジョはいない。友人も大学生で顔を合わせる程度でいい」
翼の声が低くなる。
「でも、翼ちゃん、カッコイイし優しいから、すぐカノジョできると思うな。お友達だって、色んなお友達がもっと増えると思うし。おうち散らかってるけれど、事前に言っておいてくれたらちゃんと片付けるから」
「余計なお世話だな」
遠雷のようだった。
「ご、ごめんなさい……」
弟は怒っている。軽率なことを言ってしまったのだ。ほぼほぼ毎日、朝と夜、そして休日祝日にアルバイトがあり、大学にいる数時間で濃厚な人間関係が築けるものなのだろうか。
彼女の胸は苦しくなった。
「ごめんなさい、翼ちゃん。翼ちゃん、忙しいのに……お姉ちゃん、バカだったね」
空腹が満たしされていくときはどれも美味く感じられた。けれども濡れた砂を食っている気分に変わる。
「そこまで言ってないし、別に忙しくはない。家の掃除くらい自分でできる。それに、俺のことなんか心配しなくていい。姉さんはどうなんだ。姉さんだって結婚の話のひとつやふたつ、そろそろあったっていいだろうよ」
翼の怒りはまだ完全に治まってはいないらしい。語気に苛立ちが潜んでいる。普段の乾燥した態度はどこへやら、隠せていない。
「ごめんね……本当にごめん。翼ちゃんはもう子供じゃないもんね。ごめんなさい……」
大学進学を考えている高校生と、大学生の2人がいる。とても結婚して、出ていける状況にない。そのなかで結婚の話を持ち出してくるのは、怒りの感情の何ものでもないのだ。
想定よりも早くに食欲は満たされてしまった。食べきるどころかむしろ足らないと計算していた主菜副菜が残ってしまった。
「怒っているわけじゃない」
「 う、うん。でも、怒るのも当然だと思って。お姉ちゃん、ちゃんと次の資格試験、頑張るね」
朝のアルバイトを減らすだけでも、弟の負担は軽くなるはずだ。
「ごちそうさま! ゆっくり食べてて大丈夫だから。明日の朝洗うから、置いておいて」
空いた皿を回収していく。
「俺が洗っておく」
「さっき洗ってもらったから大丈夫よ。もう遅いんだし」
風呂に入って早く寝ろと言葉を続けるはずが、また突き放される一言が返ってくるのを恐れた。
◇
インターホンが鳴った。休日のアルバイトに出掛けるところだった。午前は家事を済ませ、午後から夜までのシフトだ。
瑠璃は玄関ドアを開けた。
「乙生です。先日はごちそうさまでした」
まず差し出された紙袋が見えた。それから颯々(さつさつ)と風に遊ぶ色素の薄い髪が見える。
「理沙ちゃんのお友達の……ごめんなさいね、これから出掛けなければならなくって……」
「あ、いいえ。いいんです、いいんです。今日はこの前のお礼を、と思いまして。粗末なものですが受け取ってください。すぐ帰りますので……」
「じゃあ、頂戴します。ありがとう。今度からはお構いなく。理沙ちゃんがお世話になっているんですもの」
瑠璃は玄関に置いた時計を一瞥する。
「よかったら、送ります。車で来ているものですから」
「そんな、悪いです」
「またお邪魔するつもりですから」
星月は語気を強めた。眼差しにも色濃い影がかかる。
「帰りもあることですし……」
「どちらへ出掛けられるんです?」
「えっーと……」
アルバイト先を告げると、星月は目元を眇めた。
「それなら帰りも迎えに行きます。近いので、僕の家。今日僕が来たことで、お姉さんを遅刻させちゃったら嫌ですし」
断る理由がなかった。しかし気が進まない。
「お迎えの時間も知りたいでし、また夕食をご馳走になりたいですから、あとで連絡先教えてください」
瑠璃は頷いた。
星月は近くの国公立大学に通っている大学2年生で、理沙のアルバイト先の喫茶店は3年目だという。
車が赤信号で止まる。
「お姉さんのこと、なんて呼べばいいですか」
突然、機嫌を損ねたように声が低くなる。
「え?」
星月は真っ直ぐ信号を見詰め、ラジオを消す。
「お姉さんのこと、瑠璃さんとお呼びしてもいいですか」
瑠璃は星月の横顔を凝らしてしまった。鼻筋が優美な曲線を描く。柔和な印象を与える面構えではあるが、今の表情は凍てついてる。
「もちろん、いいですよ」
「やったぁ!」
氷湖に金槌を振り落としたように、強張った顔が崩れていく。
信号が青に変わる。
「瑠璃さんも僕のこと、星月って呼んでください。その……周りに年上の人が多いので、星月って気軽に呼ばれたほうが僕も落ち着くんで……」
「はい……」
星月は助手席を何度か一瞥した。運転に集中しているのであろうか。
「ど、どうかしましたか」
「呼んでください」
「え?」
「僕のこと、呼んでみてください」
妙な要求に彼女は応える。
「せ……星月さん」
前方を見据える運転手の横顔が綻ぶ。
「瑠璃さんはお酒とか飲まれるんですか」
「少しだけ……でも、次の日があるからあんまり飲まないんです」
「お忙しいんですか」
瑠璃は俯いた。家庭環境の話など盛り上がらない。彼のなかで妹を見る目が変わってしまうかもしれない。
「忙しいってわけではないんですけれど……」
そして瑠璃は気付いた。妹のことについて探られているのだ。
「理沙なら空いている日もあると思いますよ。本人に訊かないと分かりませんけれど……」
星月の反応は薄い。
「瑠璃さんが空いているとき……一緒に飲みたいです。買い出しは僕がするんで、誘ってください」
社交辞令であろう。車内の沈黙を気拙(きまず)く思っているに違いない。まともに取り合わなかった。
「はい……」
「楽しみにしています。でも、あの、その……、怒られちゃいますかね」
「誰にですか」
ウィンカーが鳴っている。
「そ、その………瑠璃さんの、カレシとか……」
昨晩、弟を怒らせたことがふと甦る。
「それ、昨日、弟にも言われたんです。そろそろ結婚してもいい歳なのに、って」
昨日知り合ったばかりの、妹の知り合いに話す事柄ではない。分かっていながら、瑠璃は続けてしまった。
「弟さんというと、翼くんですか」
「そうです。やっぱりこの歳になると、世間からみても、カレシがいたり、結婚しているのが当たり前なんだろうな……」
「そんなこと、ないですよ。今は自由じゃないですか」
星月の返答を聞き、彼女は情けなくなった。慰めを求めてしまった。昨日知り合ったばかりの、年下で、妹の知り合いに、欲しい反応を乞うてしまった。
「ありがとうございます。気を遣わせちゃいましたね」
「気を遣ってなんていませんよ。瑠璃さんにカレシいないなら……――へへ。瑠璃さんは、カレシにはどんなものを求めているんです?」
「……優しい人がいいですよね。あんまりそういうの、分からないんです。恥ずかしい話ですけど、今まで誰とも付き合ったこと、なくて……」
弟とそう変わらない年下の男の子、妹の知り合いが運転しながらも話を盛り上げよう、繋げようとしているにもかかわらず、瑠璃の口からは萎れた言葉しか出てこない。彼女はそれがまた情けなくなった。
「星月さんはモテそうですよね! 優しくてかっこよくて、明るくて。理沙ちゃんが懐いているのもよく分かります」
走行音が聞こえる。赤信号で止まると、エンジンの音も消える。無音、沈黙、静寂。
瑠璃は焦った。昨日、そのつもりなく弟を怒らせたばかりである。男性に対して、意識せず失礼な態度をとっているのかもしれない。
謝るべきか、しかし何が悪いのか分からないまま謝っていいものか、彼女は手汗を握る。
「もうすぐ着いちゃいますね」
「え、ええ。ああ、……はい……」
見慣れた交差点が、車道から見ると違う場所のように思える。
「近くのコンビニで降ろします」
「お願いします」
車は指定した場所に停まり、瑠璃はシートベルトを外した。
「じゃあ、20時に、またここで」
「本当にいいんですか」
「はい。僕がそうしたいんです」
「ありがとうございます……」
「 行ってらっしゃいませ。お気を付けて」
彼の細められた目と、吊り上がる口角は星屑を飛び散らす。
耳の真横で鈍い打撃音があった。視界が翳る。
弟は怒りは昨日に引き続いているようだ。
「誰」
弟は無愛想であるが、感情がないわけではなく、表情が皆無というわけではなかった。不機嫌な状態であるのが、眉間の皺と音吐(おんと)で分かる。
「ご、ごめんね。昨日はお姉ちゃんがバカだったから……」
「違う」
威圧的な態度を前に、瑠璃は固唾を呑んだ。
「誰と帰ってきた?」
弟に迷惑をかけ、負担を強い、振り回したことは今までに数多くある。けれども、壁を叩くほどまで怒られたことはない。否、今現在のみの怒りではなく、積み上げられてきたものではなかろうか。
「え……?」
「あの車、誰だ」
睫毛が影を作る切れの長い目が燃え滾っている。ライオンが牙を剥くように口角が引き攣り、声は猛獣の咆哮を少しずつ放(ひ)り出しているかのようである。
「くる、ま……」
瑠璃は身を竦ませ、憤怒に戦慄く弟の姿を眺めていた。頭は働かなかった。
「あの白い車! 誰だ!」
弟が吠えた。至近距離には適切ではない声量で、瑠璃の全身は大きく波打ち、直後に縄で縛られるようだった。
「白い、車………、あ、せ、星月さん……」
彼女の目は水気を含んだ。弟に恐怖し、不安がりの子供同然に怯えたのではない。衝撃に肉体が耐えられなかったのだ。
「あれ、あれ……? ご、ごめんね……あれ……」
頬へと溢れ落ちる水滴に彼女は戸惑い、目元を拭った。鋭かった弟の形相に稲妻が走る。
「姉さん……」
無愛想な弟の臈長(ろうた)けた顔つきは嘘のように動揺を示す。
「わ、悪い……」
瑠璃の粗雑な手を払い、弟の冷たい指が涙を掬っていく。
「お姉ちゃん、バカでごめんね……」
「バカだなんて言ってない」
「でも、昨日のこと……」
「昨日のことも関係ない」
排泄行為も同然の涙が、意図せず感情を連れ出してくる。
「で、でも翼ちゃん、怒ってるから。赦してほしくて……傷付けるつもりとか、なかったの。でも泣いちゃうのは、違うよね。ごめんなさい」
弟の冷たい手が頬から離れた。瑠璃は前方からの強い力に引き寄せられる。愛用している洗濯用洗剤の匂いがした。近所のドラッグストアで最も安く、最も量の多い洗濯用洗剤の爽やかな香りだ。
「姉さんが、変な仕事を始めたのかと思った。いきなり怒鳴って悪かった。ごめんな」
弟の鼓動が瑠璃にも伝わった。弟の焦りに蒸されている。小さかった腕が今では逞しく、簡単にすり抜けることもできなくなっている。


