触れた手から始まる恋
第十七章:結び目は、そっとほどいて
梅雨の走りを思わせるような、湿った空気が街を包んでいた。堀田愛奈は、慣れない実家の最寄り駅に降り立ち、傘を開いた。
母が倒れた──そう連絡を受けたのは、三日前のことだった。幸い大事には至らず、検査のために数日間入院するだけで済んだ。それでも、胸がざわつくのを止められなかった。
実家にはもう何年も帰っていなかった。大学進学を機に家を出てから、顔を合わせるのは正月かお盆くらい。そのたびに母とは、どこかぎこちない会話を交わしてきた。
(どうして、こんなに距離ができちゃったんだろう)
思い返しても、はっきりとした理由はわからない。ただ、お互いに遠慮と意地のようなものが積み重なって、気づいたら素直に話せなくなっていた。
駅から家までは歩いて十五分ほど。子供の頃、何度も通った道は、少しだけ変わっていた。新しいコンビニ、取り壊された駄菓子屋、広くなった歩道。
それでも、どこか懐かしい匂いがした。
古びた二階建ての家の前に立つと、玄関灯がぼんやりと灯っていた。インターホンを押すと、ドアを開けたのは父だった。
「よく来たな」
ぶっきらぼうな挨拶。でも、その目にはほっとした色が滲んでいた。
「うん、心配で」
「母さん、元気だぞ。お前が来るって言ったら、すごく嬉しそうだった」
そう言われて、少しだけ胸が熱くなった。
居間に通されると、懐かしい家具やカーテン、壁の色が目に飛び込んできた。まるで時間が止まっているみたいだった。
「加藤君は……一緒じゃないんだな」
唐突に父が言った。
「え?」
「ほら、この前電話で言ってたろ。いい人がいるって」
思わず顔が赤くなる。
「今日は、私ひとりで」
「そうか……でも、いつか、連れてこい」
不器用な笑顔に、胸がじんとした。
夜、病院へ見舞いに行くと、母はベッドの上で編み物をしていた。点滴の管が腕に繋がれているのが痛々しかったが、表情は穏やかだった。
「愛奈……来てくれたんだね」
「うん……心配だったから」
ぎこちない言葉。それでも、母は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、なぜだか涙が滲んだ。
しばらく他愛のない話をした。子供の頃の思い出、最近の仕事の話、天気のこと。どれもありふれた内容だったけれど、ひとつひとつが胸に沁みた。
ふと、母が編みかけのセーターを愛奈に見せた。
「これ、あなたに編んでたの。昔みたいに、着てくれるかわからないけど……」
愛奈は、目を見開いた。
「どうして……?」
「ずっと、渡したかったんだよ。でも、なんだか照れくさくて」
母の手は、小さく震えていた。そこにあるのは、何年分もの想いだった。
「私も……素直になれなかった。ずっと、ありがとうって言いたかったのに」
言葉にした途端、涙が溢れた。
母は、そんな愛奈の手をそっと握った。かつて、転んで泣きじゃくった子供の頃、慰めるように撫でてくれたあの手だった。
「愛奈、無理しなくていいからね。あなたはあなたの道を、自由に歩いていいんだよ」
その言葉は、ずっと欲しかった答えだった。
今まで心の中で絡まっていた結び目が、そっとほどけていくのがわかった。
母と静かに手を取り合ったまま、愛奈は過去の自分を思い返していた。素直になれなかったあの頃、心配をかけたのに、平気な顔で強がっていたあの頃。全部が、今につながっている。
「私ね、今、すごく好きな人がいるの」
自然に、そんな言葉がこぼれた。母は驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。
「そう。よかったね」
ただ、それだけだった。詮索も、条件も、何も言わない。ただ、心から喜んでくれているのが伝わってきた。
「今度、一緒に会ってほしいな」
「もちろん」
短いやり取り。それだけで、心がふわりと軽くなった。
病室を出る頃、空はすっかり夜になっていた。雨がしとしとと降り、街灯に濡れたアスファルトがぼんやりと光っていた。
父が車で迎えに来てくれていて、家までの道をゆっくりと走った。車内では、父も特別なことは言わなかった。ただ、「お前、頑張ってるんだな」とぽつりと呟いた。
その一言で、涙が出そうになった。
家に戻ると、亮祐からメッセージが届いていた。
『どうだった? 話せた?』
短いけれど、温かい文字たち。愛奈は笑みを浮かべながら、返信を打った。
『うん。ちゃんと、話せたよ。ありがとう、加藤さんが背中を押してくれたから』
すぐに既読がつき、すぐに返事が来た。
『よかった。……君なら、きっとできるって思ってた』
スマホを胸に抱き、愛奈はベッドに倒れ込んだ。
カーテン越しに聞こえる雨音は、心地よい子守唄のようだった。
次の日曜日、愛奈は亮祐を連れて実家を訪れた。
道中、亮祐は少し緊張した面持ちで「失礼のないようにしなきゃ」と何度も呟いていた。その様子が可愛くて、思わず笑ってしまった。
「大丈夫だよ。きっと、気に入ってもらえるから」
「本当かな……」
「本当」
少しだけ手を繋ぎながら歩いた。誰に見られるわけでもない、誰に見せるわけでもない、ふたりだけの小さな勇気の証。
家に着くと、玄関の前で深呼吸して、チャイムを押した。
母が笑顔で出迎え、父が無骨な態度で出迎えた。亮祐は緊張しながらも、しっかりと挨拶をして頭を下げた。
最初はぎこちなかった空気も、少しずつ柔らかくなっていった。母が出してくれたお茶を飲みながら、亮祐は自分の仕事の話や、家族のことを話してくれた。
父も、母も、うんうんと頷きながら聞いていた。
ふと、父がぽつりと言った。
「娘を頼むな」
その言葉に、亮祐は深く頭を下げた。
「はい。必ず、大事にします」
その瞬間、愛奈の胸の奥で何かがほどけた。ずっと結ばれていた、見えない結び目。それが、そっと、優しく、自然に解けた気がした。
帰り道、愛奈は亮祐の手をぎゅっと握った。
「……ありがとう」
「俺のほうこそ、ありがとう」
夜の街を、ふたりで歩く。もう、何も恐れるものはなかった。
結び目をほどいた先に待っていたのは、不安ではなく、温かな未来だった。
──ふたりで、これからを紡いでいこう。
その思いが、静かに、でも確かに、胸に満ちていった。
【第十七章:結び目は、そっとほどいて】(終)
母が倒れた──そう連絡を受けたのは、三日前のことだった。幸い大事には至らず、検査のために数日間入院するだけで済んだ。それでも、胸がざわつくのを止められなかった。
実家にはもう何年も帰っていなかった。大学進学を機に家を出てから、顔を合わせるのは正月かお盆くらい。そのたびに母とは、どこかぎこちない会話を交わしてきた。
(どうして、こんなに距離ができちゃったんだろう)
思い返しても、はっきりとした理由はわからない。ただ、お互いに遠慮と意地のようなものが積み重なって、気づいたら素直に話せなくなっていた。
駅から家までは歩いて十五分ほど。子供の頃、何度も通った道は、少しだけ変わっていた。新しいコンビニ、取り壊された駄菓子屋、広くなった歩道。
それでも、どこか懐かしい匂いがした。
古びた二階建ての家の前に立つと、玄関灯がぼんやりと灯っていた。インターホンを押すと、ドアを開けたのは父だった。
「よく来たな」
ぶっきらぼうな挨拶。でも、その目にはほっとした色が滲んでいた。
「うん、心配で」
「母さん、元気だぞ。お前が来るって言ったら、すごく嬉しそうだった」
そう言われて、少しだけ胸が熱くなった。
居間に通されると、懐かしい家具やカーテン、壁の色が目に飛び込んできた。まるで時間が止まっているみたいだった。
「加藤君は……一緒じゃないんだな」
唐突に父が言った。
「え?」
「ほら、この前電話で言ってたろ。いい人がいるって」
思わず顔が赤くなる。
「今日は、私ひとりで」
「そうか……でも、いつか、連れてこい」
不器用な笑顔に、胸がじんとした。
夜、病院へ見舞いに行くと、母はベッドの上で編み物をしていた。点滴の管が腕に繋がれているのが痛々しかったが、表情は穏やかだった。
「愛奈……来てくれたんだね」
「うん……心配だったから」
ぎこちない言葉。それでも、母は優しく微笑んだ。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、なぜだか涙が滲んだ。
しばらく他愛のない話をした。子供の頃の思い出、最近の仕事の話、天気のこと。どれもありふれた内容だったけれど、ひとつひとつが胸に沁みた。
ふと、母が編みかけのセーターを愛奈に見せた。
「これ、あなたに編んでたの。昔みたいに、着てくれるかわからないけど……」
愛奈は、目を見開いた。
「どうして……?」
「ずっと、渡したかったんだよ。でも、なんだか照れくさくて」
母の手は、小さく震えていた。そこにあるのは、何年分もの想いだった。
「私も……素直になれなかった。ずっと、ありがとうって言いたかったのに」
言葉にした途端、涙が溢れた。
母は、そんな愛奈の手をそっと握った。かつて、転んで泣きじゃくった子供の頃、慰めるように撫でてくれたあの手だった。
「愛奈、無理しなくていいからね。あなたはあなたの道を、自由に歩いていいんだよ」
その言葉は、ずっと欲しかった答えだった。
今まで心の中で絡まっていた結び目が、そっとほどけていくのがわかった。
母と静かに手を取り合ったまま、愛奈は過去の自分を思い返していた。素直になれなかったあの頃、心配をかけたのに、平気な顔で強がっていたあの頃。全部が、今につながっている。
「私ね、今、すごく好きな人がいるの」
自然に、そんな言葉がこぼれた。母は驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに微笑んだ。
「そう。よかったね」
ただ、それだけだった。詮索も、条件も、何も言わない。ただ、心から喜んでくれているのが伝わってきた。
「今度、一緒に会ってほしいな」
「もちろん」
短いやり取り。それだけで、心がふわりと軽くなった。
病室を出る頃、空はすっかり夜になっていた。雨がしとしとと降り、街灯に濡れたアスファルトがぼんやりと光っていた。
父が車で迎えに来てくれていて、家までの道をゆっくりと走った。車内では、父も特別なことは言わなかった。ただ、「お前、頑張ってるんだな」とぽつりと呟いた。
その一言で、涙が出そうになった。
家に戻ると、亮祐からメッセージが届いていた。
『どうだった? 話せた?』
短いけれど、温かい文字たち。愛奈は笑みを浮かべながら、返信を打った。
『うん。ちゃんと、話せたよ。ありがとう、加藤さんが背中を押してくれたから』
すぐに既読がつき、すぐに返事が来た。
『よかった。……君なら、きっとできるって思ってた』
スマホを胸に抱き、愛奈はベッドに倒れ込んだ。
カーテン越しに聞こえる雨音は、心地よい子守唄のようだった。
次の日曜日、愛奈は亮祐を連れて実家を訪れた。
道中、亮祐は少し緊張した面持ちで「失礼のないようにしなきゃ」と何度も呟いていた。その様子が可愛くて、思わず笑ってしまった。
「大丈夫だよ。きっと、気に入ってもらえるから」
「本当かな……」
「本当」
少しだけ手を繋ぎながら歩いた。誰に見られるわけでもない、誰に見せるわけでもない、ふたりだけの小さな勇気の証。
家に着くと、玄関の前で深呼吸して、チャイムを押した。
母が笑顔で出迎え、父が無骨な態度で出迎えた。亮祐は緊張しながらも、しっかりと挨拶をして頭を下げた。
最初はぎこちなかった空気も、少しずつ柔らかくなっていった。母が出してくれたお茶を飲みながら、亮祐は自分の仕事の話や、家族のことを話してくれた。
父も、母も、うんうんと頷きながら聞いていた。
ふと、父がぽつりと言った。
「娘を頼むな」
その言葉に、亮祐は深く頭を下げた。
「はい。必ず、大事にします」
その瞬間、愛奈の胸の奥で何かがほどけた。ずっと結ばれていた、見えない結び目。それが、そっと、優しく、自然に解けた気がした。
帰り道、愛奈は亮祐の手をぎゅっと握った。
「……ありがとう」
「俺のほうこそ、ありがとう」
夜の街を、ふたりで歩く。もう、何も恐れるものはなかった。
結び目をほどいた先に待っていたのは、不安ではなく、温かな未来だった。
──ふたりで、これからを紡いでいこう。
その思いが、静かに、でも確かに、胸に満ちていった。
【第十七章:結び目は、そっとほどいて】(終)