海に凪ぐ、君の名前

彼の海

また、この場所に来ていた。

海に面した古い堤防。もう使われていないのか、すこし入り組んでいるところにあるからなのか、人の気配が全くない。

満潮になれば、足に少し触れるくらい水かさが増すが、干潮になったらただの高い壁だ。

リュックを投げるように置いて、その堤防に寝そべる。ネクタイを緩め、ボタンをふたつ開ける。背中からは、ワイシャツ越しにジリジリと熱が伝わった。

少し顔を傾けるとそこは辺り一面、青一色の世界だ。

俺は、この真っ白いコンクリートでできた堤防から見える海が大好きだ。

視界を海と空だけに埋めつくして、そっと目を閉じる。まぶたの奥にその景色を閉じ込めた。

今日は晴れていたから空と海の境が綺麗に見えた。

この景色が好きだ。

最近に見つけたこの場所の閑散としている雰囲気が落ち着く。

目の前には、これでもかと輝く太陽がある。背中は火傷しそうなくらい熱い。派手に寝返りを打てば海に真っ逆さまに落ちていってしまう。

一見過ごしずらいこの状態が、俺にとっては唯一の呼吸ができるような気がする。



「…君、またいるね」



うとうととしていたところに、突然、耳元の近い距離から声がした。

「うわ!」

慌てて起き上がって声の主を見たら、一気にげんなりとした。

「なんだ、お前か」

目の前には、この場所を見つけてからいつもいつも邪魔してくる女がいた。

薄茶色の長い髪。髪と同じ色の瞳。透けてしまいそうなくらいに白い肌。

彼女はワンピースのスカートを少し抑え、俺から5メートルほど離れたところに腰かけた。

彼女の、定位置だ。

「ここ、君だけの場所じゃないんだから。そんなに驚かないでよ」

「今は俺がいるんだから、俺の場所だろ」

「なにその自己中理論。こりゃモテないな」

「俺にそんな事言うのはお前だけだからな」

そう言うと彼女は「はいはい」と笑った。

初めて会った時から、こいつのことは何も知らない。年齢も、名前も知らない。

見た目は大人っぽいけれど、言動が幼すぎるから、年下だと思って接している。

お互い自分の世界の話はしない。

目の前の景色と、ふと思い出した適当な話題だけで、会話をする。時には黙って、波の音だけを聞く。薄くて細い関係だ。

でも、いつ切れてもおかしくないその脆さが、上辺の硬さより楽だと思ってしまう。

まあ、こんなこと口が裂けてもこいつには言う気は無いが。

「いやー、今日も空がきれいだねえ」

真っ青に広がる海を見たまま、彼女はそんなことを言った。

「ねえねえ。水平線の向こうに何があると思う?」

「外国だろ」

「そうじゃなくて。もしかしたら人に羽が生えて空を飛べる世界なのかもしれないし、幻の宝島があるかもしれないっていう、そういう話だよ」

「水平線の向こうでもこっちでも、人は地に足つけて歩くし、島は地図に載ってるものだけだ」

そう言うと、彼女は楽しそうに笑った。

「リアリストだねえ」

彼女のそういう突拍子もない問いかけは嫌いじゃないけど、いつも唐突だ。

こいつは、たまに変だ。よく知らないから変だと思うだけなのかもしれないけれど、変な女だ。本当に。

なのに、落ち着くのはなんでだろう。

彼女の横顔に向けていた視線を落とす。

すると、投げたバッグからはみ出た単語帳が目に入った。

なんとなく手を伸ばし、ぱらぱらとページをめくる。

紙の淡い匂いと、潮の匂いが混ざる。

変な感じなのに、嫌じゃない。すこし、可笑しい。

「えなに。ここに来て勉強?」

「いや、なんとなく開いただけだって。…って、おい聞いてんの?」

彼女は俺の声なんて聞こえていないみたいに、単語帳をじっと見ている。

彼女の目の前でひらひらと手を振ると、やっと目が合った。

「……きも」

「は?」

そう言った直後に、満面の笑み。切り替えが早すぎて、思わず笑ってしまう。

「何笑ってんの?」

「別に」

「勉強してないなら閉じてよ、それ」

「あー、ごめん」

パタンと単語帳を膝においた。

そんな俺の様子をみて、彼女は少し首をかしげて、口を開く。

「勉強、きらいなの?」

「は?」

「後ろめたそうだよ。ここ君の場所なんでしょ?勝手にやればいいじゃない。私がやめてって言ってやめるなんて、好きじゃないのかなあって」

風が吹く。ページがぱらりとめくれる。

「べつに、やりたいとかじゃないから」

そう言った瞬間、自分で引っかかる。

「あっそ」

彼女も俺の様子を見て、特に深入りするつもりもないみたいだ。

無言に包まれる。

勉強は、やりたいわけじゃない。でもきらいでもない。

「やらなきゃ行けないこと、やってるだけだから。そこに好きとか嫌いとかないし、そもそも、ここでやる必要ないし」

自分の中で納得した言葉に訂正する。

「ふーん」

俺の方に向けていた視線を、海に投げて、空中を走るように足をぶらぶらと揺らした。

波の音に包まれる。

彼女は髪をひと房つまんで、いじりながら言う。

「なんか、追われてるみたい」

一瞬、呼吸が止まる。

「は?」

「なんか必死に走ってる感じ」

波の音が大きくなる。

言えば楽だ。そうだよ必死なんだって。決められたレールの上に、乗るために。

でも、それを口にした瞬間、全部「仕方ないこと」にしてしまいそうで。

それは、嫌だった。

「考えすぎじゃね?そんなことないけど、俺」

短く返す。

彼女は「ふーん」と笑う。何でもお見通しで俺で遊んでいるような、そんな笑い方。

気に食わない。

「私は」

「なに」

被せるように、強く言った。今度はなんだよ。

「君が何に追われてるかとかは全く分かんないけどさ。追われながらでもやっていけている人って、強いなあって思う」

風が吹いて、ページがめくれる。

強い?強いのか?

ただ、追いかけられたなら逃げる、みたいに、ひたすらに淡々とこなしていることって強いのか?

何も考えていないようで馬鹿らしくないか?

たしかに俺は、追われてると思う。でも、「なんとなく、ふらふらしてる」って顔をしていたい。

俺は傷つかないってフリをしていたい。

「何を言いたいのかわかんねーな。俺馬鹿だから」

「君には少し難しいかあ」

ふっと笑って彼女の横顔をみると、やけに大人びた笑みを浮かべていた。

「そういうことにしといてよ」

そう言うと、彼女も俺の方をみて、今度は子供みたいな弾けた笑みをうかべた。

その笑顔をみて、彼女の言葉を無視することにした。彼女の『もしも』の話に充てられただけだということに。

____そうすれば、この関係はまだ続けることができる。

まだここで意味のない『もしも』の話をしたい、そう思った。

彼女の笑顔は、本当に楽しそうで真っ直ぐだ。

その笑顔を見たらふと、鮮やかな光の記憶が浮かび上がった。

(確か、あの日も____こんな感じで笑ってたな)
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