「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。
「『いつまで逃げているの』か」
思いのほか、響子の言葉が重く響いていた。
ふと、あの彼女はどうしているかと思った。
半年前に夜の海浜公園で会った彼女。階段の縁に座って不安そうに泣いていた。彼女の顔を思い出したいのに、思い出せない。
あの夜、俺は彼女と別れた後、歩道橋の階段から落ちて意識を失った。気づいたのは病院で、頭に包帯が巻かれていた。そして俺の頭からはその日の記憶が抜け落ちていた。
半年経って彼女のことは何となく思い出せたが、彼女の名前や顔が思い出せない。だけど、時々、あの彼女はどうしているだろうと心配になり、無性に会いたくなる。これは一体どういう感情だろうか。
「それは恋ですね」
得意げにそう言ったマスターに笑いそうになった。
日曜の昼、俺は海浜公園近くにあるカフェ「海風」でナポリタンを食べていた。
今日は客がいなかったので、カウンター席でマスターと話していた。もう十年以上の付き合いになる。
『アオの教室』の脚本を書く時に取材で「海風」を訪れたのが最初だった。十歳年上のマスターは強面で、一見近寄りがたいが、話してみると気さくだ。マスターが淹れるコーヒーも美味いし、カフェの落ち着いた雰囲気も好きだったので、アオの教室の脚本を書いた後も、ときどき、足を運ぶようになった。
「恋って。それはないですって。だって一度しか会ったことないんですよ。しかも、彼女の名前も顔も思い出せない。どうやって恋するんですか?」
カウンター奥に座るマスターがニヤッと口角を上げる。
「『会いたくなったら恋なんだよ』って、小早川君のドラマのセリフでありましたよね」
確かにそんなセリフを書いた。
「それはドラマですから」
「僕はあのセリフの通りだと思いましたよ。この半年の小早川君が僕にする話はずっと彼女のことばかりですよ? 気づいてましたか?」
知らなかった。俺はそんなに彼女の話をしていたのか。
「恋だと思いますけどね」
恋だとしたら、失恋確定の恋ではないか。彼女の名前も顔もわからないんだ。どうやってもう一度彼女に会えばいいのだろう。
思いのほか、響子の言葉が重く響いていた。
ふと、あの彼女はどうしているかと思った。
半年前に夜の海浜公園で会った彼女。階段の縁に座って不安そうに泣いていた。彼女の顔を思い出したいのに、思い出せない。
あの夜、俺は彼女と別れた後、歩道橋の階段から落ちて意識を失った。気づいたのは病院で、頭に包帯が巻かれていた。そして俺の頭からはその日の記憶が抜け落ちていた。
半年経って彼女のことは何となく思い出せたが、彼女の名前や顔が思い出せない。だけど、時々、あの彼女はどうしているだろうと心配になり、無性に会いたくなる。これは一体どういう感情だろうか。
「それは恋ですね」
得意げにそう言ったマスターに笑いそうになった。
日曜の昼、俺は海浜公園近くにあるカフェ「海風」でナポリタンを食べていた。
今日は客がいなかったので、カウンター席でマスターと話していた。もう十年以上の付き合いになる。
『アオの教室』の脚本を書く時に取材で「海風」を訪れたのが最初だった。十歳年上のマスターは強面で、一見近寄りがたいが、話してみると気さくだ。マスターが淹れるコーヒーも美味いし、カフェの落ち着いた雰囲気も好きだったので、アオの教室の脚本を書いた後も、ときどき、足を運ぶようになった。
「恋って。それはないですって。だって一度しか会ったことないんですよ。しかも、彼女の名前も顔も思い出せない。どうやって恋するんですか?」
カウンター奥に座るマスターがニヤッと口角を上げる。
「『会いたくなったら恋なんだよ』って、小早川君のドラマのセリフでありましたよね」
確かにそんなセリフを書いた。
「それはドラマですから」
「僕はあのセリフの通りだと思いましたよ。この半年の小早川君が僕にする話はずっと彼女のことばかりですよ? 気づいてましたか?」
知らなかった。俺はそんなに彼女の話をしていたのか。
「恋だと思いますけどね」
恋だとしたら、失恋確定の恋ではないか。彼女の名前も顔もわからないんだ。どうやってもう一度彼女に会えばいいのだろう。