雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

【第24章『忘却の温もりを辿って』】

 美瑛の大地が、秋の色に染まりはじめていた。
  金色に揺れる小麦畑と、遠くに見える十勝岳連峰の頂がうっすらと雪化粧を始め、空気にはほんのりと冬の気配が混じっている。
  その広がりの中に佇む一軒のペンションに、美里と泰雅の姿があった。
 「ただいま」
 玄関の扉を開けたとき、美里はそう小さく呟いた。
 それはこの地に“帰ってきた”というより、“想い出と再会した”という意味に近かった。
  初めてこの場所を訪れたのは、まだふたりが心の距離を測りかねていた頃。
  暖炉の前で受け取った手編みのマフラーの温もりは、今でも彼女の記憶の中でふわりと生きている。
 「この季節に来たのは初めてだけど、空気が透き通ってるな」
 泰雅が窓の外を見ながら言う。
  その言葉の端々には、深い呼吸をするような静けさがあった。
 「ここに来ると、いろんなことを忘れられますね。……でも、思い出すこともある」
 「たとえば?」
 「初めて、あなたの素の笑顔を見たこと。……“あなたに触れたい”って、心から思った夜のこと」
 泰雅はその言葉に少し目を細めて、美里の手を取った。
 「君がいてくれてよかった。……この旅には、もうひとつの目的がある」
 「目的?」
 「ある人に、会いに行く」
 それは、丘の上の小さな家に住むイラストレーターの少年、アキのことだった。



 ペンションから車で十五分ほど走った先、なだらかな丘の上に、アキの小さな家はあった。
  白木の壁にツタの絡まるアトリエのようなその建物には、どこか絵本の中の世界を思わせる空気が流れていた。
 「わっ、ほんとに来たんだ!」
 玄関を開けた瞬間、アキの明るい声が飛び出した。
  変わらぬ無垢な笑顔がそこにあり、美里は思わず頬を緩めた。
 「アキくん、大きくなったね」
 「僕ね、このあいだ“未来の家”描いたんだよ。約束、覚えてたから」
 そう言って彼が手渡してきたのは、一枚の大きなスケッチブック。
  そこには、花畑の中に立つ白い邸宅と、その前で手を取り合うふたりの姿が描かれていた。
  背後には、空に向かって伸びる“虹色の柱”と、それを囲むように光る妖精たち。
 「……これ……」
 美里が手を口元に当てる。
 「この絵……少しずつ、現実になってる」
 泰雅がつぶやいた。
 ふたりが滞在している土地の一部に、新しい建築の地鎮が始まっていたのだ。
  業者もいないはずの場所に、突然現れた“見えない基礎”と“境界線”。
  まるで、誰かが先に図面を描いて、それを現実に起こし始めているかのようだった。
 「これが……“描いた絵が現実になる”ってこと?」
 美里が震える声で聞くと、アキはにこりと笑った。
 「うん。あとは、お姉さんとお兄さんが“ここに住む”って決めるだけ」
 「……“住む”って……」
 泰雅が、そっと美里の手を取った。
 「この地に、俺たちの“家”を建てよう。過去を忘れず、未来を信じて生きる場所を」
 「……はい」
 その答えは、決してためらわなかった。
 ふたりはスケッチブックを胸に抱き、花畑へと歩き出した。
 秋風に揺れるコスモスの中、妖精たちが舞い踊るようにふたりを包む。
  空に浮かぶ雲がゆっくりと形を変え、やがてアキの絵と同じ“虹の柱”が現れた。
 それは、“忘れていた温もり”が未来を照らす灯になる証。
  ふたりの人生が、優しく、しかし確かに次の章へと向かって動き始めた。
 【第24章『忘却の温もりを辿って』 終】
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