隠れ御曹司の恋愛事情(改稿版)



 気持ちを確かめるようにして抱かれた後、二人でシャワーを浴びて、お互いの身体を洗い合っているうちに、また抱かれてしまった。

 浴室から出て、パジャマに着せられると、桐山くんは自分の着ていたスーツに着替え直し、「話があります」と切り出した。
 シングルベッドに向かい合って座る。
 彼はソワソワと落ち着かない様子だった。

「桃子さん」
「うん」
「好きって言ってくれましたよね?」
「うん」
「ということは、僕と結婚前提で付き合って貰えるんでしょうか?」

 彼の目は明らかに期待に満ちている。
 その真剣な問いかけに、わたしはゆっくりと頷いた。

「……わたしで良かったら」

 ドキドキしながらそう答えると彼は「良かったぁ」と胸を撫で下ろして、床に置いてあった彼の鞄からあるものを取り出した。


「じゃあ、これに名前を書いてくれませんか?」

 桐山くんが鞄から取り出したのは一枚の紙……それは婚姻届だった。



***


「早くない?」

 まさか昨日の今日で婚姻届が出てくるとは。
 想定してなかった驚きに疲れが飛ぶ。
 差し出された婚姻届の書類には桐山くんが埋めるべき箇所は全て書かれている。けれど気になることが一つ。

「あの桐山くんの苗字が『花形』になっているんだけど……」


 嫌な予感に顔が強張る。
 もしかしてこの人は……

「『桐山』は母の旧姓です。本当の僕の苗字は『花形』といいます」
「それって……」
「今まで隠していて、すみません。僕は花形グループの次男です」
「…………は」

 間抜けな声を出したわたしと違って、彼の声は凛としたものだった。


(ドッキリだったら良かったのに)

 心臓の鼓動がドクドクと荒れ狂う。彼が答えを待っている。
 静寂な時間が重くのしかかって、シャワーを浴びたばかりなのに、冷や汗が背中に流れていく。

「ごめんなさい」

 小さく謝ったことになんの意味があるのだろう?
 自分でもよく分からないまま、謝罪を口にした。

「それはどういう意味です?」
「少し、考えさせて……」
「……分かりました」

 彼の声は掠れていた。でも、大事なことだからこそ、簡単に決断したくなかった。

「すみません。急な話題でしたね」
「ううん。桐山くんの立場上の問題でもあると思うし」

 昨日までわたしと彼の関係はただの職場の同僚だった。
 そんな希薄性な関係で自分の身分を明かす真似をできるはずがない。
 ーーそれくらい頭では分かっている。

「でも、桐山くんは本気でわたしと結婚するつもりなの?」

 御曹司の息子というのならば、しかるべき相手と結婚しなくて良いのだろうか?
 その不安を話すと、彼は安心させるようにして笑った。

「確かに兄が結婚した相手は財閥家の娘ではありますが、僕の母は住み込みで働いていた使用人でしたよ」
「……そうなの?」
「僕の家族は少々変わっていますが、結婚に反対されることはありません。それどころか歓迎されると思います」
「どうして……?」
「二年間。僕は貴女を好きでした。それを家族に知られていますから」
「え、そうなの!」
「妹に好きな相手が居ると知られた途端に、言いふらされたんですよ」


 心底うんざりした様子だ。でもその声には家族に向けられた甘さが宿っていた。

「この二年近く『相手は誰か』とスッポンみたいに付き纏われてしまいました。桃子さんが……お見合いをした時。貴女にストーカーだと思われないようにと付き添いを頼んだら、ようやく僕の好きな人の顔が見れると喜んでいました」

 お見合い、という単語の時。露骨に彼は顔を顰めた。

「桃子さん」
「うん」
「僕の家族は絶対に結婚に反対しません。誓ってもいい。僕は花形家の次男ですから、社交が嫌なら出なくても構いません。それともし仕事を続けたいのであれば、続けても大丈夫です。余計なヤジが飛ばされないように、僕が調整してみせます。だから、どうか僕を選んでください」


 彼の声が真摯に響く。
 もしここで絆されたという理由だけで頷けば、ある意味では楽なのかもしれない。
 けれど、気持ちの整理がつかない状態で答えを出すわけにはいかない。

 あとで決断を後悔するようなことにならないように、ちゃんと自分がどうしたいのか答えを探さないといけない。
 そう思ったからこそ、考える時間が欲しかった。
 素直にその思いを伝えれば、彼は急かすこともなく、頷いた。


「……僕が居ては混乱するでしょうから、今日のところは帰ります」

 そう言って立ち上がる。
 玄関まで見送ろうとすれば、不意に桐山くんが振り向いた。

「すみません。最後にキスをしても良いですか?」
「……うん」


 目を瞑って受け入れると、彼の空気が緩んだ気配がした。
 それに気付かないフリをして、唇を合わせる。
 短いキスは、まるで誓いのキスのようだとぼんやり思った。


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