18時12分の金曜日
10:37
チームで行われる事前打ち合わせの時間は、十一時からに予定されていた。
パソコン画面右下にある小さな表示で、現在時刻を確認する。
先に資料を送っておこうと、共有フォルダ内に出来たばかりの資料を上げた。
ウインドウにそれを移動させたタイミングで、今年度から同じチームに配属されたばかりの後輩くんからチャットメールが入る。
『ちょっと相談いいですか?』
『いいよ』
そう送った瞬間、背後で回転椅子の軋む音が聞こえた。
メッセージの送り主である甲斐くんと目が合う。
「あの、この取り引き先に関連する資料なんですけど……」
「あぁ、ここね。どうしたの?」
「資料のまとめ方って、こんな感じでいいんですかね」
「どれどれ?」
甲斐くんはこの四月から同じチームに配属された、三つ年下の男の子だ。
スポーツ刈りのツンツンした頭は、注意されないギリギリのラインまで赤く染められ、耳にはくっきりとピアスの穴が空いている。
「ここのフォントって、うちはこのサイズでよかったでしたっけ」
「フォントっていうか、書式設定ね。前に私があげたテンプレ使った?」
「はい」
回転椅子に座ったまま、彼の机に近づきパソコンをのぞき込む。
「ちょっと確認するね」
「どうぞ」
私と甲斐くんの手が、同時にマウスに伸びる。
指先同士がぶつかり合うようにして触れた。
「あ、ゴメン」
「いえ。すみません」
よくある何気ないことのはずなのに、彼にはそれが恥ずかしかったのか、思いっきり顔を赤らめたまま、にっこりと不自然なほど大きな笑みを浮かべる。
「あ、なんかゴメンね」
「いや、こんなことでそんなに謝られても」
そういう彼の顔は、茹でタコより赤い。
「平気?」
「大丈夫です!」
どちらかと言えば厳つい感じの硬派な見た目とはうらはらに、まだ幼さの残る言動には、確かにギャップ萌えする。
彼の持つ人懐っこさと愛嬌の良さも重なって、一部の女子社員たちの間で支持率は高い。
「ここのグラフなんですけど……」
「どれどれ?」
彼が指さす画面をのぞき込む。必然的に二人の顔が近づいた。
「ここのグラフの横軸なんですが、スタートのゼロ位置をどこに持ってこようかと思ってて……」
チラリと横目に彼を見ると、キス出来そうなくらいに顔が近い。
甲斐くんはそれを意識しているのかしていないのか、また一歩自分の座る椅子をこっちに近づけてくる。
「別に令和三年からのデータじゃなくて、あえて平成三十年からのラインでもいいかなって、そっちのバージョンも作ってみたんですけど……」
互いに近づいていた膝と膝がわずかに擦れあい、慌てて座っていたキャスター付きの椅子を引いた。
それなのに彼は数分前の対応とは真逆の、その童顔に似合わない大人びた笑みを浮かべる。
「やだな、天野先輩。さすがにオフィスでヘンな空気起こしたりしませんよ」
「あー。ははは」
さっきはあんなに顔を真っ赤にしてたくせに。
改めてそんなことを言われる方が、逆に照れる。
「それは知ってる。常識だよね」
「それとも、手を握られる方が緊張しちゃうタイプでした?」
彼の額が、コツンと私の額にぶつかる。
これだから学生気分の抜けない新人くんは困る!
「で、この図形のことなんだけど」
「あー。またそうやってすぐに誤魔化そうとするー」
もう一度彼の額が近づいて、頭をぶつけられそうになってパッと背筋を伸ばした。
「はは。めっちゃ警戒してるし。いま仕事中ですよ? そんな意識しなくてもよくない?」
「してません。甲斐くんがヘンに意識してるだけです」
「そうなんだ」
「そうだよ!」
「からかってないで、ちゃんと仕事して」
「はいはい」
私は彼の手の下からマウスを奪い取ると、カーソルを動かし画像をクリックした。
「で、何が何だって?」
「売り上げ実績のグラフと、天野さんが俺を意識しすぎてる件について」
甲斐くんの黒い目が、真剣な表情で私を見つめる。
この子は本当に、会社に仕事しに来てるんだか、ナンパしに来てるんだか。
職場の先輩として、どう注意すればいいんだろう。
「おい、そこの二人」
頭を捻る私の背後で、ガタリと音がした。
藤中くんが100%呆れた顔でため息をつく。
「仕事中に、なにをそんなに熱く見つめあってんの?」
「ちょ、藤中先輩。俺たちの邪魔しないでくれます?」
甲斐くんの手が私の肩に触れようとするのを、咄嗟に振り払った。
「うわっ。何ソレ、天野先輩のその動き、かなり傷つくんだけどー」
藤中くんは私と甲斐くんの間にぐいぐいと無理矢理体を入れ割って入ると、マウスを動かした。
「うるさいわ。元稀が一人で勝手に傷ついとけ」
藤中くんが、甲斐くんのパソコンをのぞき込む。
「で? なんの話してたの?」
半分しか開いていない細い目が、映し出される図形をくまなくチェックしている。
「へー。これ元稀が一人で作ったの? よく出来てるじゃねーか」
「だよね。私もそう思う」
「ありがとうございます!」
「それで元稀。グラフはいいけど、他の資料は? 会議本番に間に合うのか?」
「え?」
「そうよ。取り引き先との打ち合わせ前に、ちゃんとチームで情報共有しとかないと」
「だな」
藤中くんのやる気のない目が、ぼーと甲斐くんを見つめる。
甲斐くんのPC画面には、グラフ作成のために使われた基礎データの表が、ズラリと並んでいた。
「え?」
「まさか、これしか作ってないとか、そんなことないよね?」
「だって、会議って来週ですよね」
「え? 今日だよ! それ、先週リスケの案内来てたよね」
「マジですか」
彼はメールボックスを確認した。
「ほら、ここでちゃんとCCで共有して……」
甲斐くんの顔から、サッと血の気が引いた。
「俺、ここまでしか資料作ってないです」
彼がそう言った瞬間、今日一日の作業予定の変更が決定した。
パソコン画面右下にある小さな表示で、現在時刻を確認する。
先に資料を送っておこうと、共有フォルダ内に出来たばかりの資料を上げた。
ウインドウにそれを移動させたタイミングで、今年度から同じチームに配属されたばかりの後輩くんからチャットメールが入る。
『ちょっと相談いいですか?』
『いいよ』
そう送った瞬間、背後で回転椅子の軋む音が聞こえた。
メッセージの送り主である甲斐くんと目が合う。
「あの、この取り引き先に関連する資料なんですけど……」
「あぁ、ここね。どうしたの?」
「資料のまとめ方って、こんな感じでいいんですかね」
「どれどれ?」
甲斐くんはこの四月から同じチームに配属された、三つ年下の男の子だ。
スポーツ刈りのツンツンした頭は、注意されないギリギリのラインまで赤く染められ、耳にはくっきりとピアスの穴が空いている。
「ここのフォントって、うちはこのサイズでよかったでしたっけ」
「フォントっていうか、書式設定ね。前に私があげたテンプレ使った?」
「はい」
回転椅子に座ったまま、彼の机に近づきパソコンをのぞき込む。
「ちょっと確認するね」
「どうぞ」
私と甲斐くんの手が、同時にマウスに伸びる。
指先同士がぶつかり合うようにして触れた。
「あ、ゴメン」
「いえ。すみません」
よくある何気ないことのはずなのに、彼にはそれが恥ずかしかったのか、思いっきり顔を赤らめたまま、にっこりと不自然なほど大きな笑みを浮かべる。
「あ、なんかゴメンね」
「いや、こんなことでそんなに謝られても」
そういう彼の顔は、茹でタコより赤い。
「平気?」
「大丈夫です!」
どちらかと言えば厳つい感じの硬派な見た目とはうらはらに、まだ幼さの残る言動には、確かにギャップ萌えする。
彼の持つ人懐っこさと愛嬌の良さも重なって、一部の女子社員たちの間で支持率は高い。
「ここのグラフなんですけど……」
「どれどれ?」
彼が指さす画面をのぞき込む。必然的に二人の顔が近づいた。
「ここのグラフの横軸なんですが、スタートのゼロ位置をどこに持ってこようかと思ってて……」
チラリと横目に彼を見ると、キス出来そうなくらいに顔が近い。
甲斐くんはそれを意識しているのかしていないのか、また一歩自分の座る椅子をこっちに近づけてくる。
「別に令和三年からのデータじゃなくて、あえて平成三十年からのラインでもいいかなって、そっちのバージョンも作ってみたんですけど……」
互いに近づいていた膝と膝がわずかに擦れあい、慌てて座っていたキャスター付きの椅子を引いた。
それなのに彼は数分前の対応とは真逆の、その童顔に似合わない大人びた笑みを浮かべる。
「やだな、天野先輩。さすがにオフィスでヘンな空気起こしたりしませんよ」
「あー。ははは」
さっきはあんなに顔を真っ赤にしてたくせに。
改めてそんなことを言われる方が、逆に照れる。
「それは知ってる。常識だよね」
「それとも、手を握られる方が緊張しちゃうタイプでした?」
彼の額が、コツンと私の額にぶつかる。
これだから学生気分の抜けない新人くんは困る!
「で、この図形のことなんだけど」
「あー。またそうやってすぐに誤魔化そうとするー」
もう一度彼の額が近づいて、頭をぶつけられそうになってパッと背筋を伸ばした。
「はは。めっちゃ警戒してるし。いま仕事中ですよ? そんな意識しなくてもよくない?」
「してません。甲斐くんがヘンに意識してるだけです」
「そうなんだ」
「そうだよ!」
「からかってないで、ちゃんと仕事して」
「はいはい」
私は彼の手の下からマウスを奪い取ると、カーソルを動かし画像をクリックした。
「で、何が何だって?」
「売り上げ実績のグラフと、天野さんが俺を意識しすぎてる件について」
甲斐くんの黒い目が、真剣な表情で私を見つめる。
この子は本当に、会社に仕事しに来てるんだか、ナンパしに来てるんだか。
職場の先輩として、どう注意すればいいんだろう。
「おい、そこの二人」
頭を捻る私の背後で、ガタリと音がした。
藤中くんが100%呆れた顔でため息をつく。
「仕事中に、なにをそんなに熱く見つめあってんの?」
「ちょ、藤中先輩。俺たちの邪魔しないでくれます?」
甲斐くんの手が私の肩に触れようとするのを、咄嗟に振り払った。
「うわっ。何ソレ、天野先輩のその動き、かなり傷つくんだけどー」
藤中くんは私と甲斐くんの間にぐいぐいと無理矢理体を入れ割って入ると、マウスを動かした。
「うるさいわ。元稀が一人で勝手に傷ついとけ」
藤中くんが、甲斐くんのパソコンをのぞき込む。
「で? なんの話してたの?」
半分しか開いていない細い目が、映し出される図形をくまなくチェックしている。
「へー。これ元稀が一人で作ったの? よく出来てるじゃねーか」
「だよね。私もそう思う」
「ありがとうございます!」
「それで元稀。グラフはいいけど、他の資料は? 会議本番に間に合うのか?」
「え?」
「そうよ。取り引き先との打ち合わせ前に、ちゃんとチームで情報共有しとかないと」
「だな」
藤中くんのやる気のない目が、ぼーと甲斐くんを見つめる。
甲斐くんのPC画面には、グラフ作成のために使われた基礎データの表が、ズラリと並んでいた。
「え?」
「まさか、これしか作ってないとか、そんなことないよね?」
「だって、会議って来週ですよね」
「え? 今日だよ! それ、先週リスケの案内来てたよね」
「マジですか」
彼はメールボックスを確認した。
「ほら、ここでちゃんとCCで共有して……」
甲斐くんの顔から、サッと血の気が引いた。
「俺、ここまでしか資料作ってないです」
彼がそう言った瞬間、今日一日の作業予定の変更が決定した。