藍に堕ちて 〜哀しき妻は、裏切りの果てに愛される〜
PATISSERIE FRENCH
「先輩!」
「裕ちゃん、お待たせ」
店に到着すると、裕は既に玄関先にいた。
笑顔でぶんぶん手を振っている。どうやら少し早めに着いて軒先で待っていてくれたようだ。
藍華は応えながら裕の後ろに建つ『PATISSERIE FRENCH』を見上げた。
赤いレンガ調タイルで覆われたレトロな外観が可愛らしい、落ち着いたお店だ。
玄関脇に大きなカエデの木が植えてあり、扇状に伸びた枝葉は店の窓に赤い彩りを与えている。
「先輩どうでした? 楽しめましたか?」
「とっても。かずら橋に連れて行ってもらったの」
「ええ~っ! あれ渡るの怖くなかったですか!?」
「少しね」
会って早々裕から矢継ぎ早な質問を受ける。その内に蒅がさっさと店のドアを開けていた。
軽やかなドアベルの音に迎えられ店内へ入ると、一番最初に乳白色の漆喰壁と濃茶の柱が目に入る。
(あ、素敵)
藍華は条件反射のようにそう感じた。
天井を走る太い梁はその深い色合いが年月を感じさせ、壁を飾る植物のレリーフはしっとりした雰囲気を醸し出している。店内を流れているのは古いジャズだろうか。ピアノとサックスの軽やかな旋律が響いている。
窓から差し込んだ光が翡翠色のランプシェードをほのかに照らしているのを見て、藍華はまるで昭和の古き良き喫茶店に迷い込んだかのように感じた。
「こっちだ」
勝手知ったる風な蒅が出窓のある四人掛けテーブルへと藍華達を促す。
どうやら彼のお決まりの席らしい。
「藍華は奥へ。裕、お前はそこだ」
蒅は藍華と裕が向かい合わせになるように席を指定した。
「うっわー。蒅ってばあからさまに先輩の隣取っちゃって……」
それに裕が苦笑しながら皮肉を投げる。すると、蒅は呆れた顔をした。
「阿呆。お前が話しやすいようにしてやったんだろうが」
「そーいうことにしておいてあげよう」
「あのな……」
ふふん、と得意げに言って座った裕に続いて藍華も席についた。飴色のテーブルは顔が映りそうなほど艶々に輝いていて、背中には椅子のベルベット生地がふんわりと寄り添い、濃い赤色が店内でよく映えている。
藍華のすぐ左側にある出窓には白い猫の陶器の置物があり、つんと澄ました表情が可愛くて藍華は店主のセンスの良さに感心した。
「ーーー賑やかな声がすると思ったら。みんないらっしゃい」
つい店内にばかり目を向けていたが、声に視線をやれば店の奥から白いコック服姿の妙齢の女性が顔を出していた。裕の母親によく似た顔立ちの女性だ。案の定、裕が弾んだ声を上げる。
「あ、おばさんお邪魔してまーす!」
「はい、裕ちゃん。蒅も。それで、貴女が姉さんの言ってた裕ちゃんの先輩の方ね?」
女性はにこやかに微笑みながら藍華に目を向けた。焦げ茶のショートヘアにコック帽がよく似合っている。
藍華は一度立ち上がり頭を下げた。
「はい。泉藍華です。初めまして」
「まあご丁寧にありがとう。わたしは裕ちゃんのおばさんで、この店のオーナーの堤《つつみ》みどりです。どうぞゆっくりしていらして」
言ってみどりは「それじゃあ、お冷持ってくるわね」と言って店の奥へ入っていった。
確かに裕の母親と顔立ちがよく似ている。
裕の母はおっとりした雰囲気だが、みどりのほうが快活さを感じるだろうか。
藍華が席に座り直すと、蒅が無言でメニュー表を差し出してきた。見れば、一番上にチーズケーキの写真が載っている。ふんわりと柔らかそうだ。
これが蒅の言っていたものだろう。
「裕ちゃんはお友達とはゆっくりできた?」
裕にも見せながら聞くと、彼女はにまっと満足そうに笑い、首を縦に振った。
「はい、おかげさまで! ……えへへ、皆にびっくりされたんですよ。見た目が変わったー!って。あたし、昔は本当にダサかったから……上京してから頑張って研究したんです。実はその、先輩のことも、参考にさせてもらったりして」
「私?」
藍華は自分の名前が上がったことに驚いた。すると裕は少し恥ずかしそうにもじもじしながら、目線をテーブルの上に落として続ける。
「だって先輩、綺麗だから……」
だからメイクや服装などを時々参考にしていたのだと、裕は謝罪と一緒に打ち明けた。けれども藍華はどうもピンとこなくてうーんと苦笑しかできない。
「他にもっと素敵な人がいると思うけど……」
これは謙遜ではなく本心だった。
綺麗だなどと、面と向かって人から言われたことはほとんどない。
社内でも藍華はどちらかといえば大人しめのタイプだし、華やかさでいえば秘書室に属する面々が群を抜いている。
ちなみに、先程かずら橋で蒅に言われた分はカウント外だ。
そもそも藍華は正直なところ自分の外見にはあまり自信が無かった。
綱昭と付き合い初めの頃は恋人ということもあって何度か言葉をもらったが、それも今となっては信じられない。実家でも女は嫁に行くから役に立たないと言われて育った。
今はその考えが古臭いとわかるが、それ以上に今の藍華の自己肯定感は地の底まで下がっている。
綱昭の裏切りが原因といえばそうなのだろう。
他人に憧れを抱かせるほどの美しさがあったならば、夫にああも蔑ろにはされなかったのではないかと思ってしまうからだ。
「っ、先輩はすごく素敵なんです! 自覚ないみたいですけど、美人だし、仕事だって出来るし、あたしがミスしても一緒に残って直してくれるし、優しいし、何ていうか、その……!」
「ゆ、裕ちゃん、」
しかし自信などない藍華の思いとは裏腹に裕は拳を握って力説してくる。
藍華はどう答えて良いかわからず戸惑ってしまった。
『先輩』だからこうも持ち上げてくれるのだろうかと卑屈な考えが浮かんでしまう。
しかしおそらく、裕は単純に慕ってくれているだけなのだろう。
後輩の面倒を見るのは先輩である自分の義務だ。それに困ったときはお互い様なので素敵と言われるほどではない。かといって裕の気持ちも無碍にはしたくない。
何と返そうか、と藍華が逡巡していると、隣でテーブルをとん、と指先で叩く音がした。
蒅だ。
「藍華がいい女ってのは俺も同感だ。が、二人共そろそろ注文したらどうだ? みどりさんが困ってんだろ」
「あっ」
言われて裕と一緒に顔を向ければ、みどりがグラスを三人分持ってきてくれたところだった。
「いいのよ、話に花が咲いてるんだからゆっくりで」
そうくすくす笑いながらテーブルにグラスを置いてくれるのを、藍華は羞恥心に苛まれながら見つめていた。
「裕ちゃん、お待たせ」
店に到着すると、裕は既に玄関先にいた。
笑顔でぶんぶん手を振っている。どうやら少し早めに着いて軒先で待っていてくれたようだ。
藍華は応えながら裕の後ろに建つ『PATISSERIE FRENCH』を見上げた。
赤いレンガ調タイルで覆われたレトロな外観が可愛らしい、落ち着いたお店だ。
玄関脇に大きなカエデの木が植えてあり、扇状に伸びた枝葉は店の窓に赤い彩りを与えている。
「先輩どうでした? 楽しめましたか?」
「とっても。かずら橋に連れて行ってもらったの」
「ええ~っ! あれ渡るの怖くなかったですか!?」
「少しね」
会って早々裕から矢継ぎ早な質問を受ける。その内に蒅がさっさと店のドアを開けていた。
軽やかなドアベルの音に迎えられ店内へ入ると、一番最初に乳白色の漆喰壁と濃茶の柱が目に入る。
(あ、素敵)
藍華は条件反射のようにそう感じた。
天井を走る太い梁はその深い色合いが年月を感じさせ、壁を飾る植物のレリーフはしっとりした雰囲気を醸し出している。店内を流れているのは古いジャズだろうか。ピアノとサックスの軽やかな旋律が響いている。
窓から差し込んだ光が翡翠色のランプシェードをほのかに照らしているのを見て、藍華はまるで昭和の古き良き喫茶店に迷い込んだかのように感じた。
「こっちだ」
勝手知ったる風な蒅が出窓のある四人掛けテーブルへと藍華達を促す。
どうやら彼のお決まりの席らしい。
「藍華は奥へ。裕、お前はそこだ」
蒅は藍華と裕が向かい合わせになるように席を指定した。
「うっわー。蒅ってばあからさまに先輩の隣取っちゃって……」
それに裕が苦笑しながら皮肉を投げる。すると、蒅は呆れた顔をした。
「阿呆。お前が話しやすいようにしてやったんだろうが」
「そーいうことにしておいてあげよう」
「あのな……」
ふふん、と得意げに言って座った裕に続いて藍華も席についた。飴色のテーブルは顔が映りそうなほど艶々に輝いていて、背中には椅子のベルベット生地がふんわりと寄り添い、濃い赤色が店内でよく映えている。
藍華のすぐ左側にある出窓には白い猫の陶器の置物があり、つんと澄ました表情が可愛くて藍華は店主のセンスの良さに感心した。
「ーーー賑やかな声がすると思ったら。みんないらっしゃい」
つい店内にばかり目を向けていたが、声に視線をやれば店の奥から白いコック服姿の妙齢の女性が顔を出していた。裕の母親によく似た顔立ちの女性だ。案の定、裕が弾んだ声を上げる。
「あ、おばさんお邪魔してまーす!」
「はい、裕ちゃん。蒅も。それで、貴女が姉さんの言ってた裕ちゃんの先輩の方ね?」
女性はにこやかに微笑みながら藍華に目を向けた。焦げ茶のショートヘアにコック帽がよく似合っている。
藍華は一度立ち上がり頭を下げた。
「はい。泉藍華です。初めまして」
「まあご丁寧にありがとう。わたしは裕ちゃんのおばさんで、この店のオーナーの堤《つつみ》みどりです。どうぞゆっくりしていらして」
言ってみどりは「それじゃあ、お冷持ってくるわね」と言って店の奥へ入っていった。
確かに裕の母親と顔立ちがよく似ている。
裕の母はおっとりした雰囲気だが、みどりのほうが快活さを感じるだろうか。
藍華が席に座り直すと、蒅が無言でメニュー表を差し出してきた。見れば、一番上にチーズケーキの写真が載っている。ふんわりと柔らかそうだ。
これが蒅の言っていたものだろう。
「裕ちゃんはお友達とはゆっくりできた?」
裕にも見せながら聞くと、彼女はにまっと満足そうに笑い、首を縦に振った。
「はい、おかげさまで! ……えへへ、皆にびっくりされたんですよ。見た目が変わったー!って。あたし、昔は本当にダサかったから……上京してから頑張って研究したんです。実はその、先輩のことも、参考にさせてもらったりして」
「私?」
藍華は自分の名前が上がったことに驚いた。すると裕は少し恥ずかしそうにもじもじしながら、目線をテーブルの上に落として続ける。
「だって先輩、綺麗だから……」
だからメイクや服装などを時々参考にしていたのだと、裕は謝罪と一緒に打ち明けた。けれども藍華はどうもピンとこなくてうーんと苦笑しかできない。
「他にもっと素敵な人がいると思うけど……」
これは謙遜ではなく本心だった。
綺麗だなどと、面と向かって人から言われたことはほとんどない。
社内でも藍華はどちらかといえば大人しめのタイプだし、華やかさでいえば秘書室に属する面々が群を抜いている。
ちなみに、先程かずら橋で蒅に言われた分はカウント外だ。
そもそも藍華は正直なところ自分の外見にはあまり自信が無かった。
綱昭と付き合い初めの頃は恋人ということもあって何度か言葉をもらったが、それも今となっては信じられない。実家でも女は嫁に行くから役に立たないと言われて育った。
今はその考えが古臭いとわかるが、それ以上に今の藍華の自己肯定感は地の底まで下がっている。
綱昭の裏切りが原因といえばそうなのだろう。
他人に憧れを抱かせるほどの美しさがあったならば、夫にああも蔑ろにはされなかったのではないかと思ってしまうからだ。
「っ、先輩はすごく素敵なんです! 自覚ないみたいですけど、美人だし、仕事だって出来るし、あたしがミスしても一緒に残って直してくれるし、優しいし、何ていうか、その……!」
「ゆ、裕ちゃん、」
しかし自信などない藍華の思いとは裏腹に裕は拳を握って力説してくる。
藍華はどう答えて良いかわからず戸惑ってしまった。
『先輩』だからこうも持ち上げてくれるのだろうかと卑屈な考えが浮かんでしまう。
しかしおそらく、裕は単純に慕ってくれているだけなのだろう。
後輩の面倒を見るのは先輩である自分の義務だ。それに困ったときはお互い様なので素敵と言われるほどではない。かといって裕の気持ちも無碍にはしたくない。
何と返そうか、と藍華が逡巡していると、隣でテーブルをとん、と指先で叩く音がした。
蒅だ。
「藍華がいい女ってのは俺も同感だ。が、二人共そろそろ注文したらどうだ? みどりさんが困ってんだろ」
「あっ」
言われて裕と一緒に顔を向ければ、みどりがグラスを三人分持ってきてくれたところだった。
「いいのよ、話に花が咲いてるんだからゆっくりで」
そうくすくす笑いながらテーブルにグラスを置いてくれるのを、藍華は羞恥心に苛まれながら見つめていた。
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