泡沫(うたかた)の約束

第3話 夢の中の尾びれ

夢を見ている、とわかるほどに、その世界は幻想的だった。

 暗く、深く、静かな海の底。どこまでも青く、どこまでも冷たい。まるで、時の流れさえ止まってしまったような世界で、僕はひとり、ただ泳いでいた。

 腕は重く、脚は水に囚われて思うように動かない。それでも、心の奥底から突き動かされるような感情に従って、僕はその海の中を彷徨っていた。

 何かを、探していた。

 ──違う。

 誰かを、探していた。

 そのとき、どこからか声が聞こえた。

 「翔太……」

 確かに澪の声だった。優しく、でもどこか悲しげな声。

 振り返った先に、彼女はいた。

 水の中をたゆたうように、滑るように泳ぐ澪。長く黒い髪は水に溶けるように広がり、瞳は淡い光を宿していた。

 ──けれど、その姿には“人”のものではないものが混じっていた。

 彼女の脚はなかった。代わりに、銀色に光る美しい尾びれが、ゆらゆらと水を切っていた。

 魚のようでいて、魚ではない。光を宿した鱗の一枚一枚が、夢だとは思えないほど細やかにきらめいていた。

 「……澪?」

 そう呼びかけたとき、彼女は何かを伝えようと口を動かした。

 けれど、言葉は水に溶け、泡になり、消えてしまった。

 ただ──

 「──秘密に、触れないで」

 その一言だけが、確かに僕の心に残された。

 


 

 目を覚ましたとき、部屋は薄明かりに包まれていた。早朝五時過ぎ。カーテンの隙間から差し込む光が、まだ夢の気配を残した部屋の空気を照らしていた。

 呼吸が浅く、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。

 夢の内容は、明瞭だった。いつものようにすぐに忘れてしまう類のものではない。むしろ、現実の記憶よりも鮮明で、温度さえ感じられるようだった。

 あれは夢なんかじゃない。

 そんな予感が、心に根を張った。

 

 

 学校でもその余韻は消えなかった。黒板の文字を目で追いながらも、心はまるで海の底を漂っているように宙をさまよっていた。

 そんな僕の様子に気づいたのか、隣の席の田島がひそひそと話しかけてきた。

「なあ、翔太。最近、朝ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」

「え……? あ、ごめん。ちょっと寝不足で」

「夜更かしか?」


「……いや、変な夢見て」

「色っぽい夢だったら、俺にも分けてくれよ」

 田島がからかうように笑ったけれど、僕はそれにうまく笑い返すことができなかった。彼が知っているような、単なる「夢」じゃない。もっと、ずっと深い何かだ。

 休み時間、澪の席を見ると、彼女はノートに何かを書き込んでいた。小さな文字で、ページの端に、何かを丁寧に。

 僕が近づこうとした瞬間、彼女はそれをそっと閉じた。

「澪」

「……翔太くん」

 名前を呼ばれたのは久しぶりだった。

「昨日の夢、澪が出てきたんだ。……君が、尾びれのある姿で」

 彼女の手が止まった。

 静かな沈黙。教室のざわめきの中、そこだけが別の時間を刻んでいるようだった。

「見たんだね。夢の中の“海”を」

「やっぱり、あれは──」

「その夢はね、本来、あなたみたいな“人間”が見ることはないの。でも……心が誰かと強く繋がったときだけ、扉が開く」

「扉……?」

「“記憶の扉”よ。人と海を隔てていたはずの、境界の扉」

 僕は息を呑んだ。

 それはただの比喩でも、空想でもない。彼女はそれを、本気で語っていた。

 僕は恐る恐る尋ねた。

「……澪は、本当は……何者なの?」

 彼女は少しだけ笑った。でもその笑顔は、どこか哀しかった。

「……今はまだ、全部は言えない。でも……一つだけ教える」

 そう言って、彼女は静かに言葉を置いた。

「“満月の夜”──海は記憶を喋るの。人魚も、嘘をつけなくなる」

「人魚……」

 その単語に、胸の奥がざわめいた。
 
「次の満月、港の灯台の下に来て。もし、まだ……私のことを知りたいって思っているなら」

「……もちろん。行くよ」

 



 その夜、僕は再び夢を見た。

 海の底。今度は澪がそばにいた。尾びれの先をやさしく揺らしながら、僕の手を取ろうとする。

 でも、その手は水の抵抗で思うように近づけず、指先がすれ違うたび、泡が弾ける。

 「あなたが、望むなら──わたしの世界を、見せてあげる」

 夢の中の彼女は、微笑んで、そう言った。

 次の満月まで、あと六日。

 胸の中で、鼓動が波のように高鳴っていた。
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