0.14(ゼロ・フォーティーン)

第1章 失われた午後

《語り:黒木 湊》

《事件は、いつだって唐突に始まるわけじゃない。》
《むしろ、それはある“継ぎ目”のように現れる。》
《日常と非日常、その境界に、ヒビが走るようにして──》

 
202X年10月17日、火曜日。
正午を少し回った頃。
道玄坂の下り坂に、奇妙な静寂が訪れた。

クラブのビラ配り。
バイトの外国人たちの呼び込み。
観光客が振り回すスマートフォン。
いつもの雑踏が、いつもの雑音を連れて、渋谷の空気を満たしていた──そのはずだった。

けれど、その日だけは違っていた。

人々は、何かを“見落とした”。

正確に言えば、“見せられなかった”。

そう──
その午後、道玄坂で、一人の女性が刺された。

それがヒヨコ☆ちゃんだったと気づくまでに、警察は半日を要した。
虚偽の身分証、覆い隠された血痕。
そして──「誰も何も見ていない」という、奇跡にも似た偶然。

日中の渋谷。
それも、あの人通りの激しい坂の途中で。
ひとりの人間が、何の悲鳴も、争う気配もなく、
《殺されていた》。

……いや。
「殺された」のかどうかすら、確証がない。

彼女が持っていたスマホは、アスファルトに突き刺さるように落ちていた。
画面には最後に開かれていたアプリのログが残っていた──
Vtuber配信ツール《LumaCast》の裏管理画面。

そこに映っていた“非公開配信”のログ。
視聴者数、1。
コメント、0。
配信時間、14分34秒。

ちょうど、死亡推定時刻と重なる。

事件は静かに、だが確実に始まっていた。

 


僕がその事件を知ったのは、翌日の朝だった。
知人のフリーライターからの、たった一文のLINE。

「黒木、渋谷でVtuberが死んだ。現場、何も残ってない。君向きだ。」

思わず息をのんだ。
「何も残ってない」──
渋谷で、日中に、そんなことが本当に起こるのか?

すぐに調べた。
Twitter、5ちゃん、Reddit、警察発表、海外ニュース。
“ヒヨコ☆ちゃん死亡”という話題は、どこにも存在していなかった。

唯一あったのは、ファンコミュニティの中に浮かんでは消える、“謎の配信終了”に関する混乱だけ。

・「さっきまで配信してたのに、アーカイブがない」
・「AIに乗っ取られた説?」
・「事故? でも事務所の発表がない」
・「推しが……いない……」

混乱、困惑、不安、そして喪失。

だが、証拠が何もない。
その「なにもなさ」こそが、何よりの証拠だった。

 
現場へ向かったのは、その日正午すぎ。
地図で示されたのは、道玄坂二丁目。
コンビニとラブホテルが並ぶあいだの、ちょうど死角になった路地。

そこに、花が供えられていた。
誰が置いたのかはわからない。
ただ、供えられた花はしおれており、昨晩からそこにあったことを物語っていた。

……誰もいなかったわけではない。

誰かが、
“彼女の死を知っている”。

そしてもう一つ──
決定的だったのは、防犯カメラの映像がすべて欠落しているという事実だった。

コンビニ、ホテル、通りに出ていた配達ドライバーの車載カメラ、店舗前の録画機。
その全てが、なぜかその14分間だけ、データが存在しない。

削除ではない。
録画されていない。
もしくは、何者かが、“完璧に抜き取った”。

……偶然にしては、整いすぎている。

黒い意図が見え隠れする時、僕の中に眠っていた“記者の本能”が、静かに目を覚ます。

「──本当に偶然か?」

僕は、花の前にしゃがみ込み、つぶやいた。

《ヒヨコ☆ちゃん。
 君は、なにを知ってしまった?
 なぜ、それを、誰にも言わずに──
 配信を始めた?》

そして、なぜ……君は、《死んでいる》?

──第1章、了。
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