星と花の帝国
星と花の帝国
空が赤く燃えて、この世のすべてを焼き尽くすようだった。
破れた天幕の下、兵士たちは倒れ伏して死を待っていた。その中の一人の額に手を当てて、魔術師のフィリアは目を閉じていた。
帝国にはかつて多くの魔術師がいた。傷を癒す者、植物を育てる者、炎で敵を焼き尽くす者。けれど帝国が戦争への道をひた走る頃から、神の怒りに触れたように魔術師は減っていった。
額に触れられた兵士は、弱弱しく笑って言う。
「ようやく……約束の場所に行けるんですね……」
フィリアは目を開くと、とても笑っては見えない目をして、苦く顔を歪めた。
帝国のために戦って死んだ兵士は、約束の場所に行ける。帝国では子どもの頃からそう教えられる。
けれどその報酬を得て、生者の世界に戻って来ることはできない。……それに本当の価値があるのか、フィリアはずっと疑問だった。
ただ帝国では女性が武器を取ることは認められていない。女性のフィリアが戦で倒れ伏す若者たちに手向けられるのは、魔術だけだった。
「……は、ぁ、はぁ」
体がねじれるような痛みの中、フィリアは痛みで我に返った。
また意識を失っていたらしい。魔術は本来人が扱うものではなく、使うたびに何かを失う。
フィリアの場合、代償は痛みだった。激痛と共に意識を失い、意識を取り戻すためにまた激痛を伴う。
見下ろせば腕を失った、まだ若い兵士がいる。彼の痛みを早く和らげてやるのが、フィリアの魔術師としての責務だった。
兵士はもう声も出ないのか、しきりに乾いた呼吸だけをこぼしてフィリアを見上げてくる。
フィリアは微笑んでその頬をそっと撫でた。
「行きなさい。……約束の場所へ」
自分はいつか痛みで気が触れて、二度と正気に返らなくなるのだろう。それを恐れる気持ちは今も消えていないが、魔術を使うのをやめようとも思わなかった。
フィリアは兵士の手を取って、祈るように口づける。
瞬間、赤い世界は一瞬で暗闇に染まった。
そこは光の無い、無音の世界。不思議と恐ろしいとは感じない、温かい闇の息づくところだった。
その闇の中に二人、フィリアは兵士の手を取って立っていた。
兵士が辺りを見回す気配がした。フィリアはつないだ手を頼りに、彼の方を見上げて答えた。
「ここは入り口。私はここまでしか行けない。……でも、後は星の導くままに進めばいいから」
フィリアの言葉を聞いて、兵士は安堵の息をついて言った。
「……やっと楽になれた」
ここに連れて来た者たちは、不思議なほどもう帰れないという事実を素直に受け入れる。
この先にあるという約束の場所には、悲しみも苦しみもないと教えられてきたからだろうか。過酷な生で傷ついた者たちにとって、それは永遠の安らぎでもあった。
(生きている内にその安らぎを与えてあげたかった)
フィリアがうつむくと、兵士が声を上げる。
「あっ! 何か近づいてきます!」
顔を上げたフィリアの目に映ったのは、宝石のような流れ星だった。
色とりどりの星が瞬きながら、闇の中を走っていく。炎のように燃える星、氷の結晶のようにきらめく星、生き物のように形を変える星。
フィリアが掴んでいた兵士の手が、するりとフィリアから離れた。
兵士は子どものようにはしゃいで星を追う。降り注ぐ星たちに、その姿が垣間見えては消える。
流れ星の大群が過ぎ去ったとき、兵士の姿はどこにもなかった。
フィリアは静寂の中立ち竦んで、月を見上げた。
ここで月が現れるときが、フィリアはいつもわからない。ただ、月は気が付けば静かに空に坐している。フィリアがみつめる先で、月明かりが降り注ぐ。
月光の溜りに、ふいに一人の青年が降り立った。
「フィリア、私と行こう」
首の後ろで金髪を結わえた、青い瞳の青年だった。柔和な面立ちにほほえみを浮かべて、フィリアを呼ぶ。
彼との距離は半歩。一歩歩み寄れば、きっと彼の腕の中に収まることができるのだろう。
その誘惑を振り払うようにして、フィリアは首を横に振る。
「帰らないと。魔術を待っている人たちがいるもの」
「ここでは私が君を待っているよ」
彼は優しくフィリアをたしなめる。
「君の望む世界をここに作ってあげよう。薔薇の花咲く庭で星を見よう。あちらの世界では、もう何年も出来ないことなんだろう?」
彼の言う通りだ。戦火で国は荒みきって、大好きな星も花もゆっくりみつめる時間がない。
「笑ってほしいな、フィリア」
彼はフィリアの肩に手を置いて告げる。
「来るたびに笑顔が消えていくよ。初めてこの星空を見せたとき、君は声を上げて笑ってくれたのに。会うたび君の魂は美しく澄んでいくのに。どうして苦しみの現世に帰ってしまうの」
フィリアが顔を上げると、彼は不思議そうにフィリアを見ていた。
フィリアは苦笑して彼を見返す。
「澄んでなどいないわ。もうとっくに若くはないもの」
「美しいよ。君はずっと」
この世界でどう見えるのかわからないが、現実のフィリアはもう四十を回る年だ。
だが三十年前に初めて彼と会ったときから、彼の姿は変わることがない。
星や花や、光や空。フィリアが兵士たちを連れて来るたび、彼はここにフィリアが大好きなものを描いてくれる。
「……まだ役目があるの。約束の場所へは行けない」
彼はたぶん精霊というものなのだと思う。人の世と隔絶された世界におわす、人でないもの。
確かにわかるのは、彼の手を取って歩き出したら、もう現世には帰れないということ。
フィリアはまた苦い笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。また来るわ」
そう告げて、フィリアはゆっくりと後ろに倒れ込んだ。
深く深く、闇の海の底へ沈んでいく。
遠ざかっていく彼は、フィリアを追ったりしなかった。ただ一言つぶやいたのが残響のように耳に届いた。
――待っているよ。
現実に帰るには、暗い水中のような闇をひたすら泳ぐ。
いくら経験しても慣れない激痛の中、息も出来ないまま果てない水面を目指す。何度、帰るのをやめたいと願ったかわからない。
でも現実には戦で生死の境をさまよう兵士がいる。国を守るために命を失った彼らに何の祝福も与えられないならば、自分に魔術師の資格はないと思っていた。
(「またいい子の顔をしてる」。)
フィリアはいつも苦しいときに思い出す言葉を、心でつぶやいた。
(……ああ、会いたいわ)
名前を呼ぼうと唇を動かしたとき、意識がようやく水の中から出た感触があった。
酷い寒気に震えながら、汗ばかり全身にかいている。頭は締め付けられるようにきりきりと痛み、喉が感覚もないほど渇いていた。
けれど重い瞼を開けたとき、そこに懐かしい姿を見て……フィリアはこれが幸せな夢なのだと思った。
「レオン」
心の中で呼んだつもりだったのに、言葉がこぼれた。
ベッドの脇に背の高い壮年の男が座っている。長い金髪を首の後ろで束ね、青い瞳をした騎士だ。
異界への入り口に現れる青年が年を取ったら彼のようになるだろう。けれどフィリアが知るレオンは遠い地の領主になったと聞いていて、自分の目の前には現れない。
だからこれは夢。それなら子どもの頃のように呼んでも、許してくれるだろう。フィリアはそう思って、また彼の名前を呼んだ。
フィリアの声を聞いて、彼はフィリアのよく知る、怒ったような顔になった。
「駄目だと何度も言った」
名前を呼ぶことが? 夢の中だとしても?
フィリアが悲しそうに口の端を下げると、彼は繰り返した。
「魔術を使っては駄目だと、もう何度も言った。お前はちっとも私の言うことを聞かない。頑固者め」
彼に叱られるのはとても懐かしくて、フィリアはふふっと笑っていた。
笑うなと、また怒られた。ごめんなさいと、フィリアはやはり笑いながら返す。
幼い頃の光景だった。彼はいつもフィリアが魔術を使うたび怒って、フィリアは謝りながら笑っている。体はつらかったが、心は安らいでいた。
ふいに彼は怒りを収めて、切なる声で言った。
「……フィリア、側にいてくれ」
意識が重くなってきて、フィリアはベッドに身を沈めた。熱と痛みの中で、彼の言葉を聞く。
(できないと……いつか、答えたっけ)
初恋を自分で幕引きした、そんな苦い記憶。
自分自身に苦笑して、フィリアは眠りに落ちていった。
意識を取り戻したフィリアは、自分がレオンの領地の虜囚となったことを知った。
帝国は長く、先の皇帝の二人の皇子が分かれて争っていて、フィリアは長子である皇子の下に従軍していた。一方でレオンは次子の皇子の配下の騎士で、フィリアが知らないうちに彼の軍は勢力を伸ばしていた。
フィリアは戦場で倒れているところを、敵対する勢力に囚われたのだった。
けれどレオンによって領地に収容されたフィリアの生活は、療養のためと銘打ってはいたものの、穏やかなものだった。
花と星。大好きなその二つをゆっくりみつめていられる時間が、また現実でやって来るとは思わなかった。
昼は色とりどりの花畑を臨み、夜は星空に抱かれる。孤島から出ることができないと思わなければ、フィリアは日がな一日自由だった。
島の居館の一室は小さかったが、真新しい緑のカーテンがかかり、天窓から太陽の光が降り注いでいた。看守も囚人に対するより病人に接する態度で、フィリアは手厚く治療を受けていた。
「フィリア、具合はどうだ」
何より、レオンはたびたびフィリアの元を訪れてその病状を聞いた。
フィリアの父もまた魔術師であり、レオンの父に仕えていて、フィリアとレオンは兄妹のように遊んでいた頃がある。けれどそれは子どもの頃の話で、レオンは家督を継ぎ、妻子も得て、領主として立派に義務を果たしていた。
ただ、風の噂で、レオンは数年前に妻を弔い、子は妻の実家へ養子に入ったとは聞いていた。
だからといって、領主と一魔術師が、幼い子どものように他愛なく一緒にいられるわけではない。はじめ、レオンは自分のことを覚えていないのではないかとさえ思っていた。
けれどレオンは、手土産を携えてフィリアを訪ねるのをやめなかった。
「プラムは魔術で傷ついた体を養生するのに良い。食べてみてくれ」
レオンはしきりにフィリアの体を気遣い、滋養のあるものを食べさせようとする。
そんな彼の来訪の理由は、フィリアの病状にあった。
フィリアは今や小鳥の餌ほどしか食べ物を口にしない。口にしようとしても、できないのだった。
(魔術を使い過ぎたのね。……まもなく私も、この世にはいられなくなる)
フィリアの父も四十を過ぎた頃に亡くなった。三十年魔術を使ってきて、フィリア自身も限界を感じていた矢先のことだった。
ついに歩くことができなくなり、床についたフィリアに、レオンは訴えるように問いかけた。
「子どもの頃の約束を覚えているか?」
フィリアはそれを聞いて淡く笑うと、首を横に振った。
「いいえ。あなたといたのは、もう三十年も前のことだもの」
「嘘をつくな。お前はそういうところがずるい」
フィリアは肩の力を抜いて息をつく。
「そうよ。魔術師はずるいもの。……約束の場所へ連れて行くと言って、実は一度も約束の場所を見たことがない」
レオンは苦しそうに顔を歪めたが、フィリアは安らかな気持ちで彼を見返す。
「だから、一人で行くわ。……少し楽しみでもあるの。今まで見送った人たちがどこに辿り着いたのか、それは私にとって最期の幻想のようなものだから」
「行くな。……行かないでくれ」
レオンはフィリアの手を取って、縋るように言った。
「第二皇子殿下は、まもなく病で亡くなる。戦は終わるんだ。もう魔術を使う必要はなくなるから……私と暮らそう。フィリア」
フィリアはそれには応えず、淡く笑っただけだった。
翌日には、フィリアの意識は濁り、話すこともできなくなった。
レオンは最期まで寝台の傍らについたまま離れず、フィリアはその気配だけが心残りだった。
フィリアは、きっと自分の最期は激痛で終わるのだろうと思っていた。けれど予想に反して、その瞬間は小さな灯を吹き消すようにあっけなかった。
フィリアは水中をふわりと浮き上がる。上った岸辺は真昼のように明るかった。
いつかのように無数の流星はなく、煌々とした月灯りが降り注いでいた。
そこにレオンに生き写しの青年をみつけて、フィリアは微笑む。
「……子どもの頃、レオンに。一緒に約束の場所に行こうと言ったの」
フィリアがそう言うと、青年は優しく問い返す。
「一緒に行かなくていいの?」
「うん。……好きだもの、今も」
言葉にしてみると、その気持ちは自分の中でかけがえのないぬくもりだった。
子どもの頃のような、火が灯るような情熱とは違うけれど。確かに自分は、レオンが好きだったのだと思う。
フィリアは決意をもって、青年に告げる。
「これが私の最期の魔術。私は自分を、約束の場所に連れて行く」
青年が考え込む気配が、少しだけあった。
ふいに青年はくしゃりと笑って、彼が今まで見せなかった苦い声音で言う。
「……君は最期まで私の愛を受け入れてくれなかった」
「え?」
青年は悔しいような、愛おしいような声音で告げる。
「嫉妬した精霊は、意地悪をすることがあると知っている?」
青年は一歩フィリアに歩み寄って、内緒話をするように言った。
「もう魔術を使えない、もう私に愛されない代わりに……厄介な、時間というものを君にあげる」
青年はフィリアの肩を、優しいような力加減で押した。
重力に従うようにして、フィリアは後ろに倒れていく。今までいたところ、何度も一人で帰ったところ……生者の世界へ。
また空を無数の星が流れていく。けれどフィリアには、その星の行方を追うことはもうできなかった。
その日、一人の魔術師が魔術を失い、只人として生を取り戻した。
彼女は長年の魔術の行使で傷ついていて、決して若い頃のように自由に動き回ることはできなかった。
もちろん彼女はその後、永遠の安らぎがあるという約束の場所へ兵士を連れて行くこともできなくなった。
けれど彼女には、あと少しだけ時間があった。
彼女が生を取り戻したそこは、中央から遠く離れた領地で、少しの使用人と、星と花に満ちた小さな世界。
青くなってきた空の下で、彼女は花畑を見下ろして立っていた。
「帰ろう、フィリア」
名前を呼ばれて、彼女は微笑んで振り向く。
「ええ。レオン」
……どこにでもある一隅で、彼女は生涯の約束を交わした夫と暮らしている。
破れた天幕の下、兵士たちは倒れ伏して死を待っていた。その中の一人の額に手を当てて、魔術師のフィリアは目を閉じていた。
帝国にはかつて多くの魔術師がいた。傷を癒す者、植物を育てる者、炎で敵を焼き尽くす者。けれど帝国が戦争への道をひた走る頃から、神の怒りに触れたように魔術師は減っていった。
額に触れられた兵士は、弱弱しく笑って言う。
「ようやく……約束の場所に行けるんですね……」
フィリアは目を開くと、とても笑っては見えない目をして、苦く顔を歪めた。
帝国のために戦って死んだ兵士は、約束の場所に行ける。帝国では子どもの頃からそう教えられる。
けれどその報酬を得て、生者の世界に戻って来ることはできない。……それに本当の価値があるのか、フィリアはずっと疑問だった。
ただ帝国では女性が武器を取ることは認められていない。女性のフィリアが戦で倒れ伏す若者たちに手向けられるのは、魔術だけだった。
「……は、ぁ、はぁ」
体がねじれるような痛みの中、フィリアは痛みで我に返った。
また意識を失っていたらしい。魔術は本来人が扱うものではなく、使うたびに何かを失う。
フィリアの場合、代償は痛みだった。激痛と共に意識を失い、意識を取り戻すためにまた激痛を伴う。
見下ろせば腕を失った、まだ若い兵士がいる。彼の痛みを早く和らげてやるのが、フィリアの魔術師としての責務だった。
兵士はもう声も出ないのか、しきりに乾いた呼吸だけをこぼしてフィリアを見上げてくる。
フィリアは微笑んでその頬をそっと撫でた。
「行きなさい。……約束の場所へ」
自分はいつか痛みで気が触れて、二度と正気に返らなくなるのだろう。それを恐れる気持ちは今も消えていないが、魔術を使うのをやめようとも思わなかった。
フィリアは兵士の手を取って、祈るように口づける。
瞬間、赤い世界は一瞬で暗闇に染まった。
そこは光の無い、無音の世界。不思議と恐ろしいとは感じない、温かい闇の息づくところだった。
その闇の中に二人、フィリアは兵士の手を取って立っていた。
兵士が辺りを見回す気配がした。フィリアはつないだ手を頼りに、彼の方を見上げて答えた。
「ここは入り口。私はここまでしか行けない。……でも、後は星の導くままに進めばいいから」
フィリアの言葉を聞いて、兵士は安堵の息をついて言った。
「……やっと楽になれた」
ここに連れて来た者たちは、不思議なほどもう帰れないという事実を素直に受け入れる。
この先にあるという約束の場所には、悲しみも苦しみもないと教えられてきたからだろうか。過酷な生で傷ついた者たちにとって、それは永遠の安らぎでもあった。
(生きている内にその安らぎを与えてあげたかった)
フィリアがうつむくと、兵士が声を上げる。
「あっ! 何か近づいてきます!」
顔を上げたフィリアの目に映ったのは、宝石のような流れ星だった。
色とりどりの星が瞬きながら、闇の中を走っていく。炎のように燃える星、氷の結晶のようにきらめく星、生き物のように形を変える星。
フィリアが掴んでいた兵士の手が、するりとフィリアから離れた。
兵士は子どものようにはしゃいで星を追う。降り注ぐ星たちに、その姿が垣間見えては消える。
流れ星の大群が過ぎ去ったとき、兵士の姿はどこにもなかった。
フィリアは静寂の中立ち竦んで、月を見上げた。
ここで月が現れるときが、フィリアはいつもわからない。ただ、月は気が付けば静かに空に坐している。フィリアがみつめる先で、月明かりが降り注ぐ。
月光の溜りに、ふいに一人の青年が降り立った。
「フィリア、私と行こう」
首の後ろで金髪を結わえた、青い瞳の青年だった。柔和な面立ちにほほえみを浮かべて、フィリアを呼ぶ。
彼との距離は半歩。一歩歩み寄れば、きっと彼の腕の中に収まることができるのだろう。
その誘惑を振り払うようにして、フィリアは首を横に振る。
「帰らないと。魔術を待っている人たちがいるもの」
「ここでは私が君を待っているよ」
彼は優しくフィリアをたしなめる。
「君の望む世界をここに作ってあげよう。薔薇の花咲く庭で星を見よう。あちらの世界では、もう何年も出来ないことなんだろう?」
彼の言う通りだ。戦火で国は荒みきって、大好きな星も花もゆっくりみつめる時間がない。
「笑ってほしいな、フィリア」
彼はフィリアの肩に手を置いて告げる。
「来るたびに笑顔が消えていくよ。初めてこの星空を見せたとき、君は声を上げて笑ってくれたのに。会うたび君の魂は美しく澄んでいくのに。どうして苦しみの現世に帰ってしまうの」
フィリアが顔を上げると、彼は不思議そうにフィリアを見ていた。
フィリアは苦笑して彼を見返す。
「澄んでなどいないわ。もうとっくに若くはないもの」
「美しいよ。君はずっと」
この世界でどう見えるのかわからないが、現実のフィリアはもう四十を回る年だ。
だが三十年前に初めて彼と会ったときから、彼の姿は変わることがない。
星や花や、光や空。フィリアが兵士たちを連れて来るたび、彼はここにフィリアが大好きなものを描いてくれる。
「……まだ役目があるの。約束の場所へは行けない」
彼はたぶん精霊というものなのだと思う。人の世と隔絶された世界におわす、人でないもの。
確かにわかるのは、彼の手を取って歩き出したら、もう現世には帰れないということ。
フィリアはまた苦い笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。また来るわ」
そう告げて、フィリアはゆっくりと後ろに倒れ込んだ。
深く深く、闇の海の底へ沈んでいく。
遠ざかっていく彼は、フィリアを追ったりしなかった。ただ一言つぶやいたのが残響のように耳に届いた。
――待っているよ。
現実に帰るには、暗い水中のような闇をひたすら泳ぐ。
いくら経験しても慣れない激痛の中、息も出来ないまま果てない水面を目指す。何度、帰るのをやめたいと願ったかわからない。
でも現実には戦で生死の境をさまよう兵士がいる。国を守るために命を失った彼らに何の祝福も与えられないならば、自分に魔術師の資格はないと思っていた。
(「またいい子の顔をしてる」。)
フィリアはいつも苦しいときに思い出す言葉を、心でつぶやいた。
(……ああ、会いたいわ)
名前を呼ぼうと唇を動かしたとき、意識がようやく水の中から出た感触があった。
酷い寒気に震えながら、汗ばかり全身にかいている。頭は締め付けられるようにきりきりと痛み、喉が感覚もないほど渇いていた。
けれど重い瞼を開けたとき、そこに懐かしい姿を見て……フィリアはこれが幸せな夢なのだと思った。
「レオン」
心の中で呼んだつもりだったのに、言葉がこぼれた。
ベッドの脇に背の高い壮年の男が座っている。長い金髪を首の後ろで束ね、青い瞳をした騎士だ。
異界への入り口に現れる青年が年を取ったら彼のようになるだろう。けれどフィリアが知るレオンは遠い地の領主になったと聞いていて、自分の目の前には現れない。
だからこれは夢。それなら子どもの頃のように呼んでも、許してくれるだろう。フィリアはそう思って、また彼の名前を呼んだ。
フィリアの声を聞いて、彼はフィリアのよく知る、怒ったような顔になった。
「駄目だと何度も言った」
名前を呼ぶことが? 夢の中だとしても?
フィリアが悲しそうに口の端を下げると、彼は繰り返した。
「魔術を使っては駄目だと、もう何度も言った。お前はちっとも私の言うことを聞かない。頑固者め」
彼に叱られるのはとても懐かしくて、フィリアはふふっと笑っていた。
笑うなと、また怒られた。ごめんなさいと、フィリアはやはり笑いながら返す。
幼い頃の光景だった。彼はいつもフィリアが魔術を使うたび怒って、フィリアは謝りながら笑っている。体はつらかったが、心は安らいでいた。
ふいに彼は怒りを収めて、切なる声で言った。
「……フィリア、側にいてくれ」
意識が重くなってきて、フィリアはベッドに身を沈めた。熱と痛みの中で、彼の言葉を聞く。
(できないと……いつか、答えたっけ)
初恋を自分で幕引きした、そんな苦い記憶。
自分自身に苦笑して、フィリアは眠りに落ちていった。
意識を取り戻したフィリアは、自分がレオンの領地の虜囚となったことを知った。
帝国は長く、先の皇帝の二人の皇子が分かれて争っていて、フィリアは長子である皇子の下に従軍していた。一方でレオンは次子の皇子の配下の騎士で、フィリアが知らないうちに彼の軍は勢力を伸ばしていた。
フィリアは戦場で倒れているところを、敵対する勢力に囚われたのだった。
けれどレオンによって領地に収容されたフィリアの生活は、療養のためと銘打ってはいたものの、穏やかなものだった。
花と星。大好きなその二つをゆっくりみつめていられる時間が、また現実でやって来るとは思わなかった。
昼は色とりどりの花畑を臨み、夜は星空に抱かれる。孤島から出ることができないと思わなければ、フィリアは日がな一日自由だった。
島の居館の一室は小さかったが、真新しい緑のカーテンがかかり、天窓から太陽の光が降り注いでいた。看守も囚人に対するより病人に接する態度で、フィリアは手厚く治療を受けていた。
「フィリア、具合はどうだ」
何より、レオンはたびたびフィリアの元を訪れてその病状を聞いた。
フィリアの父もまた魔術師であり、レオンの父に仕えていて、フィリアとレオンは兄妹のように遊んでいた頃がある。けれどそれは子どもの頃の話で、レオンは家督を継ぎ、妻子も得て、領主として立派に義務を果たしていた。
ただ、風の噂で、レオンは数年前に妻を弔い、子は妻の実家へ養子に入ったとは聞いていた。
だからといって、領主と一魔術師が、幼い子どものように他愛なく一緒にいられるわけではない。はじめ、レオンは自分のことを覚えていないのではないかとさえ思っていた。
けれどレオンは、手土産を携えてフィリアを訪ねるのをやめなかった。
「プラムは魔術で傷ついた体を養生するのに良い。食べてみてくれ」
レオンはしきりにフィリアの体を気遣い、滋養のあるものを食べさせようとする。
そんな彼の来訪の理由は、フィリアの病状にあった。
フィリアは今や小鳥の餌ほどしか食べ物を口にしない。口にしようとしても、できないのだった。
(魔術を使い過ぎたのね。……まもなく私も、この世にはいられなくなる)
フィリアの父も四十を過ぎた頃に亡くなった。三十年魔術を使ってきて、フィリア自身も限界を感じていた矢先のことだった。
ついに歩くことができなくなり、床についたフィリアに、レオンは訴えるように問いかけた。
「子どもの頃の約束を覚えているか?」
フィリアはそれを聞いて淡く笑うと、首を横に振った。
「いいえ。あなたといたのは、もう三十年も前のことだもの」
「嘘をつくな。お前はそういうところがずるい」
フィリアは肩の力を抜いて息をつく。
「そうよ。魔術師はずるいもの。……約束の場所へ連れて行くと言って、実は一度も約束の場所を見たことがない」
レオンは苦しそうに顔を歪めたが、フィリアは安らかな気持ちで彼を見返す。
「だから、一人で行くわ。……少し楽しみでもあるの。今まで見送った人たちがどこに辿り着いたのか、それは私にとって最期の幻想のようなものだから」
「行くな。……行かないでくれ」
レオンはフィリアの手を取って、縋るように言った。
「第二皇子殿下は、まもなく病で亡くなる。戦は終わるんだ。もう魔術を使う必要はなくなるから……私と暮らそう。フィリア」
フィリアはそれには応えず、淡く笑っただけだった。
翌日には、フィリアの意識は濁り、話すこともできなくなった。
レオンは最期まで寝台の傍らについたまま離れず、フィリアはその気配だけが心残りだった。
フィリアは、きっと自分の最期は激痛で終わるのだろうと思っていた。けれど予想に反して、その瞬間は小さな灯を吹き消すようにあっけなかった。
フィリアは水中をふわりと浮き上がる。上った岸辺は真昼のように明るかった。
いつかのように無数の流星はなく、煌々とした月灯りが降り注いでいた。
そこにレオンに生き写しの青年をみつけて、フィリアは微笑む。
「……子どもの頃、レオンに。一緒に約束の場所に行こうと言ったの」
フィリアがそう言うと、青年は優しく問い返す。
「一緒に行かなくていいの?」
「うん。……好きだもの、今も」
言葉にしてみると、その気持ちは自分の中でかけがえのないぬくもりだった。
子どもの頃のような、火が灯るような情熱とは違うけれど。確かに自分は、レオンが好きだったのだと思う。
フィリアは決意をもって、青年に告げる。
「これが私の最期の魔術。私は自分を、約束の場所に連れて行く」
青年が考え込む気配が、少しだけあった。
ふいに青年はくしゃりと笑って、彼が今まで見せなかった苦い声音で言う。
「……君は最期まで私の愛を受け入れてくれなかった」
「え?」
青年は悔しいような、愛おしいような声音で告げる。
「嫉妬した精霊は、意地悪をすることがあると知っている?」
青年は一歩フィリアに歩み寄って、内緒話をするように言った。
「もう魔術を使えない、もう私に愛されない代わりに……厄介な、時間というものを君にあげる」
青年はフィリアの肩を、優しいような力加減で押した。
重力に従うようにして、フィリアは後ろに倒れていく。今までいたところ、何度も一人で帰ったところ……生者の世界へ。
また空を無数の星が流れていく。けれどフィリアには、その星の行方を追うことはもうできなかった。
その日、一人の魔術師が魔術を失い、只人として生を取り戻した。
彼女は長年の魔術の行使で傷ついていて、決して若い頃のように自由に動き回ることはできなかった。
もちろん彼女はその後、永遠の安らぎがあるという約束の場所へ兵士を連れて行くこともできなくなった。
けれど彼女には、あと少しだけ時間があった。
彼女が生を取り戻したそこは、中央から遠く離れた領地で、少しの使用人と、星と花に満ちた小さな世界。
青くなってきた空の下で、彼女は花畑を見下ろして立っていた。
「帰ろう、フィリア」
名前を呼ばれて、彼女は微笑んで振り向く。
「ええ。レオン」
……どこにでもある一隅で、彼女は生涯の約束を交わした夫と暮らしている。


