服毒

43.『約束』(2)


夏の夕暮れ。
空は茜に染まり、薄く透けた雲の輪郭が、やわらかな光の中で滲んでいた。
日が傾くたび、街の空気にほんのりとした冷たさが混じりはじめ、蝉の声はどこか名残惜しげに響いている。

祭りの気配が、少しずつ街を包んでいた。
子どもたちの笑い声、大人たちの準備の足音、どこか浮き足立ったざわめきが風に乗って届く。まるで、ひとつの季節が始まりを告げる前の、ささやかな合図のように。

着付け店の前、石畳に立つレオの姿があった。

紺地に白の細かな文様が入った浴衣は、彼の引き締まった体にしっくりと馴染んでいる。凛とした立ち姿は変わらず、だが制服姿のときよりもどこか柔らかな印象を纏っていた。

それでも、彼の視線は何度も足元を泳ぎ、落ち着かない様子が隠せない。ほんの小さな風の動きにも、敏感に反応しているようだった。

そんなとき、店の扉が小さな音を立てて開いた。

ふわり、と空気が変わる。
そこに現れたのは――

白地に水彩のような模様が淡く広がる浴衣。
細い首筋をなぞるように後れ毛が揺れ、うなじには品のある簪がひとつ、風に触れて微かに鳴った。すべてが、柔らかく、儚げで、美しかった。

一瞬、時間が止まったような静寂が彼の中に訪れる。

視線を逸らすのも忘れたように、レオはただ彼女を見つめた。その表情は、口数の少ない彼が言葉を選ぶよりも早く、すでに何かを語っていた。

レオに気づくとゆっくりと近づいてきて、微笑みながら小さく首を傾げるヨル。

「……どう?似合ってるかな」

問いかけられ、レオは息を詰めたまま一拍置いた。それから、ほんの少しだけ目線をずらし、低く答える。

「……似合ってる」

照れ隠しのように短く、けれど、迷いのない声。その一言に、ヨルの頬が柔らかく紅を差したように染まった。

「...よかった。きみは……浴衣姿も、格好良いね」

わずかに伏せがちに目をそらして、そっとつぶやく声は、風に溶けてしまいそうなくらい小さくて優しい。

レオは思わず咳払いをしてごまかすように顔を背けたが、耳が赤く染まっているのを隠しきれていなかった。

並んで歩き出したふたりの間には、まだどこかぎこちない空気があった。けれど、それは決して悪いものではない。視線が重なり、逸らし、また重なるたびに、互いの鼓動が微かに跳ねた。

───

参道へと続く道には、灯籠と提灯が並び、夜の帳にゆっくりと色を灯してゆく。
焼きそばの香り。綿あめの甘い匂い。金魚すくいの水音と、遠くで響く和太鼓のリズム。
街のあちこちから、笑い声と期待が交錯していた。

レオとヨルは、人混みの中を肩を並べて歩いている。

浴衣に合わせた下駄に慣れないヨルは、足運びがやや慎重で、時折足元を気にするように、慎重に歩を進めていた。

「……足、痛くないか?」

レオはその様子を横目に見て、少し歩幅を落とすと、遠慮がちに声をかけた。

「大丈夫……でも、少し慣れないね」

そう言ってヨルが微笑んだ、その時――

「──っ」

段差に気づかず、ヨルがふらりと体勢を崩しかける。重心がぐらついたその瞬間。すぐさま、レオの腕が彼女の背にまわり、しっかりと受け止めた。

「……大丈夫か」

しっかりと、抱き留めるように。
低く落ち着いた声が、耳元で響いた。

一瞬で至近距離になった視界に、レオの顔があった。
驚きと、気恥ずかしさと、それでもどこか安心してしまうような――複雑な感情が、ヨルの中で静かに弾ける。

顔が近い。息がかかるほど近い距離に、彼の瞳が揺れていた。

その瞳は、いつもと同じ鋭さを湛えていたけれど、どこか柔らかくて、優しかった。
ふと、風が吹き抜ける。彼の腕の中で揺れた自分の髪が、レオの頬をかすめた。

「……うん」

支えられたまま、ヨルがそっと返す。
短いその声が、ほんのりと熱を帯びていて、自分でも驚くほど心が静かに高鳴っていた。

鼓動が早くなっているのは、下駄のせいじゃない。レオに支えられた、その腕の力強さと、真剣な眼差しが、心を甘く揺らしていた。

「……悪い。ちゃんと見てなかった」

レオがふと視線を逸らし、ヨルから少しだけ距離を取る。けれど、わずかに赤く染まった耳元が、彼の動揺を物語っていた。

その姿に、ヨルの目元がふわりと緩む。
鋭さと照れが同居したその横顔は、いつもの威圧感なんてどこにもなくて、むしろ――愛しさすら覚えるほど、不器用だった。

そのままでは自分の方がどうにかなってしまいそうで、ヨルはわざと何気ない素振りで、視線を前に向ける。

「ねえ、レオ」

指差す先には、赤、緑、金色のりんご飴がずらりと並ぶ屋台。わざとらしいほど自然体なその口調に、レオの視線が戻る。

「あれ、食べてみたい」

唐突な話題の転換。
レオは一瞬、ヨルの意図を測るように彼女を見つめたが――すぐに気づく。
これはきっと、照れてるのは自分だけじゃない。

「……誤魔化したな」

ぽつりと呟くレオに、ヨルは小さく笑った。
わざと何も聞こえなかったふりをしたまま、そっと身体を離す。
けれど――少し名残惜しいように、レオの袖を引いていた。

「……どれが美味しいのか教えて」

ふいに手を取られたレオは、言葉なくヨルの横顔を見つめ、わずかに頷いた。まるで子どものような口ぶりで、彼の腕を引く仕草には、ほんの少しの照れと、ほんの少しの誘いが混じっていた。

「……わかったよ」

そう呆れたように言いながらも、レオの口元にはうっすらと笑みが滲んでいた。
ヨルの指がまだ袖口を摘んだまま離さないことに、気づいていながら何も言わず――むしろ、その温もりを逃すまいと歩幅を合わせる。

りんご飴の屋台の前に並ぶと、レオはしばし思案してから赤い飴を指差した。

「定番は赤じゃないか」

ヨルは小さく頷き、ひとつ選んで受け取った。

手の中で輝く飴の表面は美しく艶やかで、まるでガラス細工のようだった。

しゃく。
飴の薄膜を割る音が、静かに響く。

ヨルは口に含んだりんご飴を、そっと舌先で転がす。ほんのりと甘い。冷たさと固さが舌に残り、どこか懐かしい味がした。

目を細め、微かに舌先で舐める仕草さえも、どこか色気を帯びていて――。

「……」

レオは黙ったまま、彼女の唇を見つめていた。飴の赤が、その口元をほんのり染めている。

ヨルが、不思議そうに顔を上げた。

「……どうかした?」

レオは短く息をつき、言葉もなく、そっと顔を近づけた。触れるだけの、軽いキス。

唇からふわりと甘い香りが伝わる。

「……甘いな」

そう呟いて、視線を逸らすレオの耳が、また赤くなっていた。

ヨルは少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと笑った。

「……飴?それとも、私?」

悪戯な微笑みに、レオは一拍だけ言葉を止め――眉をわずかに寄せながらも、苦笑気味に答えた。

「……飴だ。たぶんな」

照れ隠しのような言い回しに、ヨルの唇がゆるやかにほころんだ。

二人の間に、ふわりと風が吹き抜ける。
祭りの喧騒の中で、ふたりだけの静かな時間が、密やかに重なっていた。

けれど、その静けさは苦ではなかった。
行き交う人々のざわめきや、屋台の呼び声。夜風に揺れる提灯の音が、ふたりの距離に優しく色を添えている。

しゃく。

ヨルは、飴をもう一口かじる。
それに続いて、どこか遠くから――

パンッ。と乾いた音が、夜の空気を裂いた。

ヨルの足が、ふと止まる。
鼻先に残る甘い香りや、肌を撫でる風が遠のいたような気がして、視線を横へ滑らせる。
レオもまた足を止め、その音の方へと目を向けていた。

人混みの向こう。揺れる提灯の明かりの先、わずかにひらけた路地裏のような一角に、灯がゆらゆらと揺れていた。

祭りの喧騒が途切れ、ふたりの間に、少しの間だけ静寂が落ちる。

「……見に行ってみようか」

ヨルがぽつりと呟くと、レオは少し微笑むようにして頷いた。
赤く染まった唇をりんご飴で隠すようにしながら再び歩き出し、音のした方へ、提灯の明かりをたどるように近づいていく。

やがて視界の隅に、それは現れた。
古びた木製の看板が掲げられた、昔ながらの射的屋。木の板にはところどころに染みがあり、長年の使用を物語っている。
屋台の隅では、渋い顔をした店主らしき老人が椅子に座り、団扇を扇ぎながら、客を無理に呼び込むでもなく、ただ静かに時を待っていた。

屋台の奥には、びっしりと並べられた駄菓子や小物たち――
古びたアニメのキャラクターのキーホルダー、色褪せた缶バッジ、そして手作りのようなぬいぐるみの数々。

その中に――

「……あれ、可愛いね」

ヨルが、ふと足を止め、指先で示したのは
黒いリボンをつけた、小さな猫のぬいぐるみだった。くたりと座り込んだその姿は、どこか他の景品とは違う、物語のような孤独とぬくもりを宿していた。

レオもその先に目をやり、「ああ」と短く答える。彼の視線にも、ほんの一瞬だけやわらかな色が灯った。

「やってみるか?」

ヨルの横から身を傾け、レオが低く問いかける。その声に、ヨルはりんご飴の棒を少し持ち直し、目を逸らしながら曖昧に微笑んだ。

「……うん」

その一言に、屋台の老人がようやく口元を緩める。「一回三百円」と手書きされた札を指差し、ゆるりとした口調で「若いの、やってくかい」と促した。

レオが料金を払い、渡された木製の射的銃をそっと彼女に手渡す。ヨルは、それを少し戸惑うように両手で受け取った。

「こう……?」

小さな銃は、見た目よりも重くて、構えた腕が微かに震えた。浴衣の袖が少し滑り落ち、手首の細さがあらわになる。

ヨルは黒猫を見つめながら、そっと狙いを定め、呼吸を浅く整えるようにして、引き金を――

パン。

軽い音が鳴る。
弾はわずかにかすったが、ぬいぐるみは動かなかった。

「……むずかしいね」

気落ちしたように小さく呟いたそのとき、後ろから大きな手が、彼女の手に重なった。

「こうだ」

レオの腕が、背後からふわりと回ってくる。
その動作は自然で、けれどどこかためらいがちな優しさを含んでいた。

彼の胸元が、浴衣越しにぴたりと背中に触れるほどの距離。左手は彼女の手を包むようにして銃を支え、右手で銃口の角度を直していく。
息を呑む暇もなく、耳元で彼の声が囁かれる。

「右目は閉じて……深く、息を吸って。……吐くタイミングで、引け」

低く、凪いだ声。
祭りの喧騒が遠のき、ヨルの耳に届くのは、彼の声と、肌に触れる鼓動のリズムだけ。

意識が、するすると引き寄せられるように、彼の中に溶けていく。

再び、パンッと音が鳴った。
しかし――

黒猫は、動かない。

「……ダメだったね」

静かに呟くと、レオが小さく息をつき彼女の手から銃をそっと受け取り構える。一切無駄がなく、狙いは鋭く真っ直ぐ。

パン。

乾いた音と同時に、黒猫がふわりと浮いて、すとんと落ちた。

「流石だね……」

目を見開いてヨルが言うと、レオは少しだけ口元を緩め、店主が拾い上げた黒猫を彼女に差し出した。

「ほら、おまえのだ」

柔らかく差し出されたそれを、ヨルは両手で受け取る。
指先がほんの少し震えていた。まるで、自分の鼓動の速さが、ぬいぐるみにも伝わってしまうかのように。

何かを言いたいのに、言葉が浮かばなかった。

代わりに、そっと目を伏せ、胸にぬいぐるみを抱き寄せた。柔らかな毛並みと、リボンの感触が指先に残る。

「……ありがとう。大切にする」

その一言に、レオの目がふっと細まる。
微かに目元が緩み、優しく彼女の横顔を見つめた。

射的屋の店主は、再び団扇をゆっくりと扇ぎながら、「やるねえ」と独り言ちる。

祭りの喧騒は変わらず続いている。
けれどその中で、ふたりの間には、それとは別の、少しだけ濃い時間が確かに流れていた。
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