服毒
68.『制御』
映画のエンドロールが静かに流れる中、部屋にはほんのりと甘い空気が満ちていた。
ふたりの間には言葉がなくても満たされた空気が流れていて、レオはそっとヨルの肩を引き寄せる。
瞳が合った瞬間、何も言わずに唇を重ねた。
柔らかくて、あたたかくて、深くて――でも、どこか熱を孕んだようなキスだった。
離れたあとも、ヨルは指先でレオの頬をなぞっていた。その手が、静かに、ゆっくりと、首元へ滑る。
喉元の熱を感じて、レオは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐにまた視線を戻す。彼女の手はあくまで優しくて、包み込むようで、安心すら覚える触れ方だったから。
けれど。
……その指先が、脈の打つところをなぞったとき、レオの胸にかすかな違和感が走った。
優しいはずの指が、わずかに強くなった気がした。呼吸の中に、ほんの一瞬、静かな張り詰めた思いが差し込まれたような。
レオは目を逸らさずに、ヨルの瞳を見つめた。
そして、ごく短く、けれど確かに彼女の名前を呼んだ。
「……ヨル」
深淵のようなその冷たい瞳は、レオの声で僅かに揺れた。指先に触れた彼の脈動が無意識に彼女の欲を撫でている。
ヨルはそんな自分自身に驚いたように、彼から手を離した。自分が何をしようと手を伸ばしていたのか自覚して。
「……ごめん」
目の前の彼の視線から逃げるように顔を背けた。上手くコントロールしているつもりでも見え隠れする根底にある醜い姿。
レオは、その震えを見逃さなかった。
手を引いた彼女の指先は微かに震えていて、肩がほんのわずかに強張っていた。
そして、何より――目を逸らしたその横顔が、恐怖と羞恥に塗れていた。
レオはすぐに言葉を返さなかった。
焦らない。責めない。ただ、そっと、静かに自分の呼吸を整えた。
「……謝ることなんてない」
低く、落ち着いた声で言った。
ヨルの背に回していた腕を、一度緩めてから、その肩にゆっくり触れる。
「おまえが、俺をどう見てるか……そんなの、とっくに分かってる」
彼女の視線はまだ戻ってこない。
けれど、構わなかった。
レオは、彼女の頬に手を添えた。
わずかに冷えた肌。けれど、確かに生きている熱。
「……大丈夫だ、怖がったりしない」
どこか乾いた、けれど穏やかな声だった。
彼は、彼女の狂気を受け止めることに、何のためらいもなかった。
ヨルはゆっくりと震えた呼吸を吐いた。破滅を辿る愛情を必死に仕舞い込もうとして。
添えられた頬の熱から逃れるように、静かに彼から距離を取る。
「……少し、外の空気吸ってくる」
彼に触れていたくなかった。呼吸も声も視線も、レオという存在の全てが、今の自分には毒だった。
レオは、その背を追わなかった。
呼び止めることも、手を伸ばすこともしなかった。
ただ、立ち上がる音と、扉の開閉音、そして冷気の気配が部屋に入り込んでくるのを感じながら、目を伏せて静かに拳を握った。
ヨルの指先の震え。目を逸らしたときの怯え。
それは、レオを害そうとした彼女自身の“欲”への拒絶だった。
彼は、怖くなかった。むしろ、今も残る彼女の余韻が、深くて甘くて愛しくて、痛いくらいだった。
だが離れる彼女の姿に感じたのは静かな焦燥。
ただ彼女を受け止めることしかできない自分が、今はあまりに無力だった。
脈が、まだ早鐘を打っている。
その首元に残る、ヨルの指の感触。ほんのわずかに、力が入った瞬間――レオは、ただ“愛されてる”と思った。
狂ってるかもしれない。
けれど、それでも構わなかった。
「……全部、わかってるつもりだったのにな」
呟きは、誰にも届かない空気に溶けた。
ヨルがどれほど歪な愛を抱えているかも、
その愛がどれだけ綺麗で、救いで、呪いであるかも――全部、理解したつもりだったのに。
彼女の指先に宿った一瞬の力が、
あれほどまでに彼女を怯えさせるとは思っていなかった。
ソファの背もたれに手をかけ、一度だけ深く息を吸い込む。
「……ヨル」
名を呼んだ声は、誰にも届かないほど微かだった。けれど、そこに込められた想いだけは、確かにこの部屋に、彼の胸の奥に、滲んでいた。
※
扉が閉まると同時に涙が溢れた。流れ落ちるその液体が何を意味するのかもわからない。ただ自分自身に恐怖し、失望していた。
あの男を消したとレオに悟られた夜から、彼女は自分の欲を抑えるように努めていた。彼はヨルがどんな間違いを犯しても拒絶しないから。彼の正しさや優しさを守るために、自分自身を強く制御しなければならなかった。
レオの全てを壊して、奪ってしまいたい、破滅的な欲望。彼を殺して自分だけのものにしてしまいたいという恐ろしい本質。それらは抑えるほどに溢れるようだった。
「このまま消えてしまおうかな……」
ふと溢れた言葉は痛みを含んでいた。
自分が嫌になる。彼に触れて満たされるたびに膨らむ醜さ、平穏な幸福を守るための健全な愛情のふり。ずっとそばにいると甘く囁いた過去が、呪いのように彼女を縛っていた。
真冬の夕方。外の空気は冷たく、指先が痛かった。だが、その痛みも罰のようで心地良く感じ始めていた。
ヨルは、まるで世界から切り離されたように立っている。灯りのない空の下、彼女だけが色を持たずに――沈黙の中で泣いていた。
レオが、ロビーを抜けて凍えるような風を浴びた瞬間、その小さな背中が見えた。
彼女を見た瞬間、レオの心臓は何度も脈打っていた。自分が彼女を恐れさせ、彼女の心を“追い込んだ”という現実が、喉元に突き刺さって抜けなかった。
「……ヨル」
答えがなくても、彼女が拒まなければ、それでいい。言葉ではなく、“いまの彼女”にどう届けばいいのかを、レオは探していた。
数秒の沈黙――その間に、吐く息が白く滲んだ。凍えるような空気の中、彼はただ手を伸ばした。触れる寸前の距離で、指先だけで彼女の裾に触れた。
「おまえがどんなに歪んでても、醜くても……そばにいてくれるなら、俺はそれでいい」
少し震える声。
けれどそれは、弱さではなくて、誰よりも彼女に寄り添いたいという強さだった。
「だから……もう、自分を壊すな」
そっと、レオはヨルの肩に手を添えた。
触れた指先に、彼女の冷たい体温が伝わってくる。その冷たさが胸の奥に痛いほど染み込んで、彼はヨルを優しく抱きしめた。
「……おまえが、触れてくれるなら……それが終わりだって構わない」
吐息が耳元に触れるほどの距離で。
彼女の熱を少しでも取り戻すように、レオは彼女を抱えたまま動かない。
「レオ……そんな言葉、口にしないで」
彼は望む言葉を並べ続けてくれる。だが、それは彼女が望むものを遠ざけていた。
ヨルはレオから逃れるように距離を取ると、静かに言葉を吐いた。
「……私はきみと、ちゃんと幸せになりたい」
こんな歪んだ感情ではなく、相手のことを思い合った真っ当な幸福を手に出来るような、そんな愛情。どんなに上部を取り繕っても届かないその幸せに彼女は苦しんでいた。
醜く根を張った欲が顔を見せるたび、お前には無理だと嘲笑われているようだったから。
レオの喉がかすかに鳴った。
ヨルの声は、震えているわけでも叫んでいるわけでもないのに、あまりに切実で――あまりに遠かった。
“幸せになりたい”
その願いが、なぜこんなにも切なく響くのか。
レオは、握った拳をゆるめた。
自分が抱えている執着や独占欲、彼女と同じように歪なものを抱えているというのに、それでも“俺なら受け止められる”と、傲慢な正しさで近づこうとしていたことに気づく。
「……俺も、綺麗な愛を知らない」
レオの声には、はっきりとした痛みが混じっていた。“どんなおまえでもいい”と言うことで、彼女の中にある“なりたい自分”を否定していたのだとしたら――それは、優しさの皮を被った刃だったのかもしれない。
「……ごめん、ヨル」
離れた分、ほんの少しの距離を詰めて彼女の隣に並ぶ。すぐには触れない。ただ、同じ寒さの中に立つことで、同じ孤独を共有する。
「俺も……“幸せにしたい”って思ってる。おまえが、恐怖を飲み込まずに俺に触れてくれるようになってくれたら……って」
小さな息が白く昇っていく。
「でも……それを急かしちゃ、いけなかった」
その場しのぎの優しさじゃ、彼女の闇は癒せない。傷口を舐めるような愛じゃなく、一緒に痛みに触れて、血を流してでも隣に立ちたかった。
「……幸せになれる道を一緒に探そう、ヨル」
言葉が終わると、雪がひとひら、ふたりの間に舞い落ちた。
まだ消えきらない夕暮れの光の中、レオの瞳はまっすぐにヨルを見ていた。
彼女が自分を嫌いになっても、自分が彼女に愛を伝え続けることはやめない――そんな覚悟が、確かに込めて。
その言葉に、ヨルの瞳が揺れた。
僅かに光を孕んで。
「……レオ」
彼の名以外、何も言えなかった。謝罪も、感謝も、言葉にするにはどれも違って見えて。ただ縋るように彼に歩み寄った。彼の胸に自分を預けて。
レオとこの先もずっと一緒に幸せになれる未来を探したい。そんな思いを抱いた冷たい彼女の瞳は、光を受けてほんの少し柔らかく見えた。
レオは、ヨルが身を預けてきた瞬間、すぐにその身体を抱きしめた。どこにも逃がさない。けれど、優しく。彼女の細い肩に手を回し、壊さないように、けれど確かにその存在を抱きしめた。
「……ヨル」
その名を呼ぶ声は、低く、温かく、震えていた。
鼓動が重なる。
寒さで強ばっていた体が、彼女の体温でゆっくりと溶けていく。
ただ、ひとつの願いを込めて、レオは小さく囁いた。
「一緒に幸せになろう」
痛みも欲も狂気も全部引き受けた上での、ふたりだけの約束だった。ヨルの黒い瞳に宿った光は、淡く揺れていた。けれどその揺らぎが、どこか温かい未来へと続いているように――レオには思えた。
二人を包む夕暮れの色はもう薄れかけていて、
代わりに舞い始めた雪が、ふたりの肩にそっと降り積もる。
そしてその静けさの中で、
どちらからともなく、そっと唇を重ねた。
それは、言葉より深く、誓いより静かな、
壊れそうな愛を抱えて、それでも歩み出すふたりの――再出発だった。