クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい


 彼の甘めのルックスと同じようにほんのり甘い香りはパウダリーで重すぎなくて。撫子はつい、どこのブランドの物なのだろうとその香りを吸ってしまう。

 「あ、そうだ。親父さんがまだ晩酌をされているようだったら少し、挨拶をしたいんですが」
 「大丈夫?そのまま引き摺り込まれて飲まされるわよ。母ももうこの時間だと寝ちゃってるし」
 「まあその時はその時ってことで」

 クラブに来る前に宗一郎は会食の予定を済ませて来ていたようだったが今日はまだほとんど飲んでないと言う。
 さっきもアイスコーヒーを飲んだので大丈夫かな、とは思うが撫子の父親はお酒が強い。飲んでも差し支えない夜は必ず晩酌をしているので母親もそんな夫の事は住み込みの舎弟に任せ、就寝してしまう。

 大きな黒塗りが邸宅近くへと滑り込む。宗一郎の移動車で撫子が帰って来ると知らされていた舎弟が龍堂邸の門扉の前で待っており、車はスムーズに広々としたガレージへと入って行く。住んでいるのが極道者と言うこともあり、高級住宅街からは少し外れた場所に佇む邸宅はコンクリート造りの塀で囲まれていた。

 「ただいま」
 「お帰りなさい。熊井さんも、お待ちしていました」

 ガレージと邸宅の中は繋がっているので撫子は迎えに出てくれていた住み込みの舎弟に帰宅の挨拶をしたのだが……どうやら既に父親は宗一郎を待ち構えているようだった。

 「宗君、明日の予定ほんとに大丈夫?」

 このままだと父親に飲まされる、と言うか帰宅を許してくれなくなる。宗一郎の父親と撫子の父親は兄弟盃を交わした仲なので息子、娘がどちらの邸宅に宿泊しようが両家とも気にもしない。

 むしろ二人が逢引きするには一番安全な場所であるのが宿泊の気軽さに拍車を掛けていて。

 「ええ、大丈夫です。お邪魔します」

 大きな体を少し屈め、家に足を踏み入れる礼儀としての挨拶を丁寧にする宗一郎。住み込みの撫子の家の舎弟も両膝に手を置いて極道の挨拶を再びすると「筆頭は部屋にいますので」と二人を先に行かせる。撫子も「宗君は明日の朝、うちで送るからドライバーさんには着替えのバッグだけ置いて帰って貰って大丈夫だと伝えておいて」と舎弟に言づけを頼むと晩酌をしているらしい父親の部屋へと向かった。

 「ただいま」

 父親の私室は和室だったので引き戸を勢いよく開けた撫子は「ああ、お帰り。今日は随分と大きな手土産つきだな」と娘を出迎える父親を見る。
 大きな座卓にはつまみの小皿が並んでいるが対面の下座には旅館にあるような曲木(まげき)の座椅子に座布団が用意され、宗一郎の分の取り皿などが既に置かれていた。

 「龍堂筆頭、お久しぶりです」

 大きな手土産、と呼ばれてしまった宗一郎は入室する手前の廊下で膝をつき、頭を下げる。

 「挨拶はそこまでにして入ってくれ」
 「お父さん、今日の宗君は他に予定を済ませた後なのにわざわざ寄ってくれたんだからあんまり飲ませたら」
 「分かってるよ。全くお前はお母さんとそっくりだ……」
 「私、部屋で着替えたりしてるからあんまり遅いようなら迎えに来るからね」

 ここは男性二人にしておこう……と言うか単にこれから飲むのが怠かった撫子は二人に付いていてくれる舎弟に「後はよろしくね」と言って宗一郎を父親のもとに置いて行く。

 撫子の部屋は広い庭の一画、いわゆる離れにあった。
 こぢんまりとしたユニットバスに洗面所とトイレもそれぞれ別に完備されていて、ちょっとしたキッチンと小さな玄関も庭に面した側ある。部屋の中はさながら単身者向けのアパート。本宅とも廊下で繋がっているが上がってしまうと遠回りになってしまう。
 そのため、帰りが遅くなったり不規則な時間に帰って来る時はガレージを抜けて庭からショートカットをするように直接、離れに上がって生活をしていた。いわゆる二世帯住宅のようなもの。

 今日は宗一郎がいた為に本宅から上がったが、と父親の部屋とは違う洋室に戻って来た撫子はハンドバッグをとりあえず置いて身に着けていた時計やアクセサリーを外す。

 この邸宅には客間も存在しているので宗一郎はそちらで寝かせるとして、と撫子は着ていた服も脱いで早々に洗面所の鏡の前に立つとメイク落としのシートを顔にあてる。
 じわ、と溶けて落ちてゆくアイシャドウやファンデーションを拭いながら素の状態になっていく自分を見て、小さく溜息をついてしまった。

 ナチュラルに見えるようにしているだけのメイクはそれなりに厚い。年齢を重ねていく事に嫌悪はないが宗一郎の事を思うとどうしても……許婚、そして自分の方が年上である事が胸に引っ掛かる。

< 6 / 58 >

この作品をシェア

pagetop