「1年後には消える僕だけどそれでも君の隣にいたい」

プロローグ:『天から視る者』

願いは、静かに世界へ落ちていった。

誰にも気づかれず、けれど確かに拾われていた――
それは、“運命”と呼ばれるものの手によって。

◇ ◇ ◇

風も、光も、音も存在しない。
夜とも昼ともつかない空間に、ひとつの影が座していた。

まるで絵画のように静止したその空間において、ただひとり、いや、一柱――
人ならざる存在が、虚ろなる天の座より地上を見下ろしている。

白銀の髪が、風もないのに宙を舞い、瞳は時計の歯車のようにきらめいていた。
その身体は人のかたちをしていながらも、明らかに“人間”とは異質だった。
時間さえも従えるような、静かな圧を纏いながら――その神秘は、女の姿を取っていた。

彼女は、ただ黙って“観察”していた。



地上――一室の光景。

ベッドに腰掛ける少女と、その傍らに丸くなる白い犬。

少女は無言で教科書をめくり、犬はそれを見上げていた。
言葉はない。けれど、確かに通じ合っていた。
少女の手が背中に触れるたび、犬の尾が小さく揺れる。

“その一瞬”が、どれだけ貴いものか。
彼は言葉を持たずとも、きっと知っていた。

だが――。

(もっと、そばにいたい。もっと……)

そう思ったとき、世界は、彼の声なき祈りを拾い上げた。



高みの存在――彼女が、微かに眉を動かした。

「……人間になりたい?」

彼女の声は、無機質でありながら、どこか懐かしげだった。

「“その身”の輪郭さえ、まだ曖昧なのに。ふふ……愚か」

冷ややかに言いながらも、彼女は少しだけ笑った。

目の前の犬に向けられた言葉――
だがその響きには、別の何かが混じっていた。

(思い出すわね)

彼女の視界に、過去の残像が滲む。



――夕暮れ。薄紅に染まった空の下。

山道で、少年が少女の前に立ち塞がっていた。
粗末な刀を構えた野盗たちが、ふたりを囲む。

刃が閃き、肉を裂く音がした。

少年が崩れ落ちる。少女の悲鳴。
血に濡れた手で、彼女は必死に命を繋ごうとする。

だが、少年の瞳には微かな安堵が灯っていた。
最後まで、彼は――守ることだけを選んだ。

(どうして……)

少女の問いに、少年はただ、微笑んだ。

その目だけが、永遠に残っていた。



現在。再び、虚の空間へ。

彼女は過去の幻を見届けたあと、指先をわずかに動かした。

「また……同じ眼をしてるわ」

かつての誰かと、今の“彼”を重ねながら。

「……面白くなりそうね」

天の座より、光も音もない世界に小さく綻ぶ声が落ちる。

「白津智紀。今度こそ、“最後まで”見届けてあげるわ」

その名を告げた瞬間、周囲の空間に音が生まれる。

“カチリ”

まるで歯車が噛み合うような、小さな音。
それは、止まっていた時計の針が再び動き出す音だった。

彼女の手が宙に浮かぶ。
天と地を結ぶ因果の糸が、静かに“ずれた”。



そして――。

少女と犬のいる部屋で、時がふっと揺れる。
少女は気づかない。だが犬は、何かを感じたように首をもたげた。

(……あれは?)

部屋の空気が、ごく一瞬、変わった気がした。
でも、それはすぐに元に戻ってしまう。

少女の指が、また彼の背に触れる。

「……バカだよね、私」

つぶやく声。
けれど犬には、その言葉がまるで宝石のように思えた。

(……やっぱり、そばにいたい)

犬は黙って頷いたように、ただ尾を振る。
その毛先が、光を弾いて一瞬だけ輝いた。

それは、神の手が起こした“奇跡の前触れ”――
まだ誰も知らない、物語の胎動だった。



虚空の中、神はただ呟く。

「……さて。どんな結末を、今度は描いてくれるのかしら」

今度こそ、その全てを――

見届けるために。
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