モフモフの中で恋をする。

第一話 冷えピタはずるい

 汗のにおいが、うっすらと漂う朝の楽屋。
 今日も暑くなる。鏡の前で着ぐるみの頭を抱えながら、私は小さく息を吸い込んだ。

「よし、今日も頑張ろう」

 地味で小柄な自分。すっぴんの顔も、ざっくり結んだポニーテールも、鏡の中で頼りなく見える。
 でもこの“中”に入ってしまえば、私は「誰か」になれる。

 ――地味で目立たない私が、唯一、誰かに笑ってもらえる“存在”になれる場所だった。

 ちら、と視線を向ける。
 楽屋の隅には、今日もあの人が座っていた。

 黒髪が目元にかかるほど長く、顔立ちはよく見えない。
 真っ白なTシャツ。無駄のない体つき。無言でノートパソコンを叩く姿は、機械みたいに無駄がなかった。

 ――あの人が来て、今日で三日目。
 パフォーマーの安全を守るために会社が雇った、“体調管理の専門家”だと聞いている。
 でも、来てからというもの、誰ともまともに会話していない。無表情で、無口で、近寄りがたい。

 それでも、存在感だけは、やたらと強い。

「あの……おはようございます」

 思い切って声をかけてみる。
 返ってきたのは、小さく、かすれたような声だった。

「……おはよう」

 それだけ。顔も上げない。
 でも、返事をしてくれた。それだけで、少しだけ安心する自分がいた。

(やっぱり、ちょっと怖い……けど)

 着ぐるみの頭をかぶる。中に入れば、私はマフィンちゃん。
 夢と笑顔と、ほんの少しの“自分らしさ”を届けるために。



 シュガーランドは、今日もにぎやかだった。
 けれど太陽は、いつもよりもさらに暴力的に照りつけている。

「マフィンちゃーん!写真撮ってー!」

 子どもたちの笑顔。手を振る。ハグする。しゃがむ。
 息が上がる。中の湿度が尋常じゃない。水分も抜けきって、視界が揺れる。

(もうちょっとだけ……もう一枚だけ……)

 足が、ふらついた。

 その瞬間。

「中断」

 低く、鋭い声が響いた。
 誰よりも早く、私の肩に手が伸びてきた。

「撮影は、ここまで。すみません、マフィンちゃん戻ります」

 きっぱりと断りを入れ、私の体を支えてくれる腕。
 クマの頭が大きく揺れて、目の前の視界が一瞬だけ開けた。

 ――早見さんだった。



 気づけば、楽屋に戻っていた。
 椅子に座らされ、首筋に冷たいタオル。まだ頭がぼーっとしている。

 視界の端で、何かが近づく気配。
 次の瞬間、額に、ひやりとした感触が落ちた。

「……っ」

 見上げると、早見さんが目の前にいた。
 表情は変わらないまま、無言で冷えピタを貼っている。
 その指先は、静かで、ほんの少しだけ震えていた。

 貼られた瞬間、彼の顔がふいに近づく。
 長い睫毛。涼しげな目元。輪郭の整った横顔。

(……えっ、なにこの……美形……)

 無言なのが、逆にずるい。
 呼吸がふっと詰まった。

 貼り終えると、彼は少し間を置いて、低くつぶやいた。

「……もっと早く、声かけるべきだった」

 その言葉に、胸がきゅっとなった。

「この三日、ずっと暑さ対策の資料まとめてて……現場の変化、ちゃんと見れてなかった」

 無表情なのに、悔しさがにじんでいた。
 早見さんは、ただ黙って座っていたんじゃなかった。ずっと、考えて、動いていてくれたんだ。

「……今日は、もう帰って。これは命令」

「で、でも……」

 早見さんは、私の目を見て、首を横に振る。

「……篠原さんのマフィンちゃんが、いちばん可愛い。だから」

 短く、まっすぐ。
 言葉がストンと胸の奥に落ちて、私の呼吸が一瞬止まった。

「……自分の体、ちゃんと守って」

 その声が、耳の奥にずっと残る。
 顔が熱い。ずっと暑かったせいかもしれないし――

 それとも、たった今の言葉のせいかもしれない。

 どちらなのか、私にはまだわからなかった。
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