春は、香りとともに。
第3話《お付きのセツと隙間風》
薄い障子戸をすり抜けて、長屋にまた今日も風が通る。
その風は、かつての男爵邸の重厚な玄関や、真鍮の燭台をすり抜けていた風とは違っていた。
埃と干し魚の匂い、遠くから聞こえる豆腐屋のラッパの音。それらが混じり合い、風はささやかな暮らしの気配を運んでくる。
志野子はそんな風の中で、ふと微笑む。
「慣れましたね、この音と、香りと、隙間風」
「はい。慣れとは、誇るものです」
返すのは、いつもそばにいる――女中のセツだった。