春は、香りとともに。
第5章
第1話《春の終わりに届いた手紙》
夕陽が差し込む長屋の窓辺に、淡い光が落ちていた。
春の終わりを告げるかのように、空気にはほのかな冷たさが混じっている。縁側の向こうに広がる小さな庭の片隅では、名残の椿が散りかけていた。
志野子はちゃぶ台の前に座り、一通の封書をじっと見つめていた。
白い便箋に、墨で丁寧に綴られた見たことのある筆跡だ。
差出人の名は姿を消してからもう七年、消息不明だった男爵の――父の名だった。
封を切る指先がかすかに震えた。だけど、中に入っていた手紙を開きそして、ゆっくりと読み始めた。
【志野子へ。】
【この手紙が届く頃、私はもう、海の向こうにいることだろう。
あるいは、どこか知らぬ町で、静かに生を終えているかもしれない。
だが最後にどうしても、お前に伝えておきたいことがある。】
【私は、男爵としても、父としても失格だった。
国が変わることに抗えず、財産を守る術もなく、誇りを失い、家を守ることさえ叶わなかった。
あの日、お前を置いて逃げたことを、私は死ぬまで悔やんでいる。】
【ただ、あれだけは……守るためだったのだ。
政略の渦中に、お前を巻き込みたくなかった。
男爵の名がすでに地に堕ちたと知った時、私には他に何もできなかった。】
【お前がこの先、どのような人生を歩むか、私は知る術もない。
だが願わくば、志野子、お前が誰かと手を取り合い、笑っていてくれたらと、ただそれだけを祈っている。】
【父より】
読み終えた瞬間、視界がじんわりと滲んだ。
父の筆跡は、ところどころ掠れていて、ところどころ強く抑えられていた。
それはまるで、自分の弱さを認めることに、どれほどの苦しみがあったのかを示しているようだった。