春は、香りとともに。
第2話《花のように、香のように》
香の記憶というのは、不思議なものである。
色も、音も、手触りさえも失ってしまった出来事のなかで、ただ一つ「香り」だけが、明確に心に残っていることがある。
それは志野子にとって、まさしく――あの“百合の香”だった。
それを言ったのは、母である。
「あの方がね、あなたのことを『百合のような香りだった』と仰っていたのよ」
志野子は、耳の奥がじんと熱くなるのを感じながら、かすかに首を傾げた。
「……香りなんて、風のように消えるものよ。そんなもの、覚えている人がいるなんて」
「風のように消えるからこそ、記憶に残るのよ。忘れられないものになる」
母は、まるで自分のことではないかのように、優雅にお茶をすすりながら言った。
その横顔は、娘である志野子と同じように美しかった。だが、どこか冷たく、遠い。
この母に愛されたことがあったか――そう考えるたびに、心の奥で針のようなものがちくりと疼く。
「で、その……惟道さまは、私とどうしたいのです?」
「話をしたいそうよ。一度、直接会って……あなたに縁談を申し込むかどうか、それを決めたいと」
志野子は、しばらく黙っていた。
縁談。再婚。新しい家。新しい名前。
かつて夫だった岡元高雅とは、華族の義務のように結ばれ、そしてあっけなく離婚した。
心が寄り添う前に、国家と戦争が二人の間にあった。
今さら、“夫婦”という形をもう一度受け入れることが、自分にできるのだろうか。