恋するだけでは、終われない / 気づいただけでは、終われない

第七話


「うん、これでよし!」

 ……玲香(れいか)海原(うなはら)君の腕章を、きっちり付け直している。

 わたしは、その姿を見るのが。


 ……少しだけ、つらかった。


 玲香が、意地悪でしていないのはわかっている。

 ただ、わたしには。
 海原君と過ごせる時間が、『きょう』しかない。
 文化祭が終わると同時にやってくる、『引退』のとき。

 三年生のわたしだけに課された、その現実に。
 この瞬間もまた、気がついただけだ。


「ねぇ、玲香……」
 わたしが、そう聞いたとき。
 すでにあの子は、すべて理解していた。

「わたしとの『視察』はここまで。次は美也(みや)ちゃんと、いってらっしゃい!」
 恐らく、玲香も誰かに。
 同じセリフを、いわれたのだろう。


 ……あぁ、本当はわたし。
 海原君の『姉』のはずなのに……。

 まだ忘れられない、気持ちがあることを。
 みんなとっくに、見抜いているんだよね。


「いいから、どうぞ。いってらっしゃ〜い!」
 玲香の笑顔に、わたしは笑顔で応えられただろうか?
 ありがとう。
 そのひとことさえ、口に出せず。
 わたしは後輩に、背中を押されて。
 そのまま、機器室を出てしまった。



「……大丈夫ですか、都木(とき)先輩?」
「えっ?」
「もし、お疲れなら……」
「ないない! 疲れているのは海原君じゃないの?」

 そうだよね、疲れているのは君で。
 待ち焦がれていたのは、このわたしだ。

 こんなチャンス、もう与えられなくても仕方がないのに……。


「先輩のご希望に応じて、どこでもいきますよ」
 ありがたいことを、いってくれたものの。
「あ、でも……すいません」
 どうやら校門前のうどんと蕎麦の店だけは、避けたいらしい。

「えっ、そんなことがあったの!」
 海原君の話すことは、いつ聞いても面白い。
 きっと彼だけじゃなくて。周りの人間模様が、最高に楽しいんだろう。

 でも、あと少しで。
 わたしはその輪の中に、居られなくなる。
 いや。もうほとんどいなくなっている自分を思うと、とても悲しい。


 文化祭実行委員長を、やってみたかったのは本当で。
 ただ、同時に。
 放送室で過ごす時間を、減らさなければと思ったのも事実だ。

 最初に相談したときの、三藤(みふじ)月子(つきこ)の表情と声が。
 わたしの脳裏から、離れない。

「……美也ちゃんの決断なら、応援します」

 しばらく黙ったあとに、月子はひとことだけ口にした。
 あのときも、また。
 やや物憂げで、ほんのり潤みがちで。
 それでいて、どこまでも澄んだ藤色のふたつの瞳が。
 まっすぐに、わたしを見つめていた。

「……海原君に、迷惑かけるかな?」

 続けてそう質問した、わたしに。
 静かに首を横に振った、月子の姿を見て。
 わたしは、正直。
 この子には、勝てないと思った。


 どうして月子は、あんなに海原君を想っているのに。
 その気持ちを、口にしないのだろう?


 ねぇ、月子。
 あなたは、やっと見つけた『初恋』の人と。

 ……いったいこれから、どうしていくつもりなの?



「……あの? 都木先輩?」
「えっ、海原君? ごめんごめん!」
「お疲れなら……やっぱり戻って、休んだほうがよくないですか?」

 あぁ、せっかくの海原君の心遣いなのに……。
 わたしは、講堂の通路では返事ができず。
 楽しそうな会話で満ちている渡り廊下を、無言で進む。
 それから、角を少し曲がり。
 屋根のない、静かな場所まで歩いてようやく。

 ……立ちどまって、空を見た。


 秋の太陽が、いまのわたしにはまぶしすぎる。
 だけど、これ以上。
 下を向いていたら……。


 ……わたしは涙を、とめられなくなる気がした。


「ねぇ、お願いがあるの……」

 わたしは『文化祭デート』を、したいわけじゃない。
 ただ、いまは海原君と。
 いや、海原君の前だからこそ。

「上を、向いていたいの……」

 そう、小さくつぶやいた。

 でも、あまりにも抽象的な希望だから。
 伝わらなくて当然だと、思ったし。
 やっぱり機器室に戻りましょう、とでもいってくれたら。
 わたしは別に、それでよかった。

 おまけに、いつもなら。
「へ?」
 ……とか。
「は?」
 ……とか。
 よくわからないという反応で、答えるクセに。

 いったい、きょうはどうして。
 あなたはそんなに難しい顔を、しているの?




 ……僕は、大きな間違いを犯しそうだと。
 心のどこかで、思いはした。

 きっと、三藤先輩を。
 傷つけるとは、わかっていても。

 それでも、いま目の前の都木先輩に。


 ……確かななにかを、残したかった。


「一週間ごとに、持ち合うことにしましょう」
 そう決めて、僕を信じてくれた三藤先輩を。
 僕は、裏切ることになる。
 でも、もしかしたら許してもらえるかもしれないと。

 身勝手で、いい加減で。
 不誠実ないいわけを見つけた僕は。
「あの、都木先輩。実は……」
 そういって、ひとりで。
 三藤先輩に相談することなく、行動してしまった。




「……こんなところが、あったんだ」

 ……どこまでも広がる、秋の空に。
 わたしはこのまま、飛び立てそうな気がした。

 海原(うなはら)(すばる)が、わたしのためにかなえてくれた。
 そう、わたしは。
 いま、『上を向ける場所』にいる。


 教室棟の屋上は、本当に美しい場所だった。
 これまで過ごしてきた、わたしの学校なのに。
 まったくの、別世界が。
 どこまでも、どこまでも広がってた。


「ねぇ、海原君!」
 無邪気な、笑顔で。
「どうして、こんな場所を知ってるの?」
 はしゃぎながら、思わず口にして。

 それから、返事をしない彼を見て。


 ……わたしは心の底から、後悔した。


 わたしは、このとき。
 感動して、空だけをみていた。

 なのに、海原君は。
 わたしと、同じだけの時間を使って。


 ……右手にのせた、鍵だけを見つめていた。



「……月子との、思い出の場所なんだね」

 彼は、答えない。
 涙が。
 流さずに済んだと思った、涙が。
 屋上のコンクリートに、ポタポタと落ちていく。


「都木先輩に……」
 彼の声は、いつも以上にやさしいけれど。
「確かななにかを、残したかったんです」
 正直で、うれしいけれど。
「だから、僕は……」
「もう、いやっ!」

 続きが、いえないように。
 続きを、いわせないように。
 彼の口を、わたしは両手で思わずふさいだ。


 本当は、このとき。
 いっそ手ではないもので、ふさいでもよかった。
 でも、それだけは。
 許されないと、わたしは思った。

 ……いや、それだけは。
 わたしのプライドが、許さなかった。

 わたしは、月子の思い出の場所で。
 そんな卑怯なことは、絶対にしない。



 彼の胸を、両手で何度も叩く。
 なにもいえないように、何度も叩く。
 ねぇ、どうして。
 どうして、やめろといわないの……。

 叩くのに疲れたわたしは、彼の胸に顔をうずめる。

 すると海原君が。
 その、両腕で。
 そっと、わたしを抱きしめて……。



 ……そんなの、この世界では。
 わたしがこんなに求めても、起こらないんだ……。


 彼の腕は、わたしの頭をなでても、背中をさすってもくれなかった。
 ならば、握りしめている拳にあるその鍵を。
 鍵を、わたしが捨ててしまったら……。


 ……きっとそれでも、彼はわたしを抱きしめない。
 残酷な現実が。
 また、わかってしまった。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけこのままでいさせて」



 ……見事なまでに。
 海原昴は、わたしに。

 ……『確かな』なにかを、残してくれた。



 完璧なまでの、失恋という思い出を。



 ……大きな大きな、秋空の下で。


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