恋するだけでは、終われない / 気づいただけでは、終われない
第三話
立て看板が、並木道にずらりと並ぶ。
色とりどりのそれらを眺めながら、生徒たちの会話もいつもより弾みだす。
体育祭と、文化祭に向けて。
校内の雰囲気が、否が応でもお祭り気分になってきた。
……そんな日に、事故が起きた。
演劇部の部長が、足を骨折した。
いまはその見舞いを終え、病室を出たところだ。
「風で倒れかけた立て看板が、一年生にぶつかりかけて……」
三藤先輩の重苦しい声が、ショックの度合いを物語る。
「それをかばってくれた……のよね……」
四人部屋の窓際で面会した際、その人は。
「いいってば〜。名誉の負傷でしょ? 気にしないで!」
極めて明るく、僕たちに告げてくれたのだけれど。
額面どおりに受けて、はいそうですかなんてとても思えない。
藤峰佳織と、高尾響子の両先生も同席して。
僕たち四人は、深々と部長の母親にも頭を下げた。
「折れたとはいえ、治りますわ」
小学生のときにも、市民劇団の稽古で一度舞台から落ちて骨折した。
今回はそれより軽いから、心配無用だと。
かえって、僕たちのことを気にかけてくださった。
「月子と海原君も、気にしすぎないようにしてね」
先生たち、ふたりもやさしかったけれど。
僕たちの心は、後悔でいっぱいだ。
「毎朝一番に来て、看板が固定されているかを確認するべきでした」
「そう提案しなかったわたしにも、責任があります」
「ダメダメ。そんなことをしていたら、ふたりの体が持たないでしょ!」
藤峰先生が、少し強い口調で僕たちをいさめてから。
「起こってしまったことを悔やんでいるよりも、もっと大切なことがあるわよ」
高尾先生が、包み込むような声で。
僕たちにもうひとつの現実に向かうようにと、告げてくれた。
個室の前で、三藤先輩と目が合う。
「ウチの子はいいんです、ただあの子のほうが……」
部長のお母さんがそう口にした、もうひとり。
そう、もうひとり。
僕たちが大切にケアしなければならない彼女に、会いにいかないと……。
もし、怪我が腕のひび『だけ』なら。
波野姫妃は、果たしてもう少しマシだと思っただろうか?
静かに開けた、扉から。
窓から外を眺めているそのうしろ姿がまず、目に入る。
「……海原君と、月子だよね?」
「先生たちも、いらっしゃるわ」
波野先輩の問いに、三藤先輩が答えてくれる。
「到着が遅くなりました、このたびは……」
こちらを向いた波野先輩のお母さんが、僕の言葉を静かにとめる。
「あなたが、海原君ね?」
「はい、はじめまして。そしてこのたびは……」
「謝罪は、不要よ」
「ですが……」
「海原君の責任では、ないでしょう?」
それから、先輩のお母さんは。
「それと、三藤さん。もちろん、あなたの責任でもないわよ」
そう告げると、一列に並んだ僕たちをゆっくり見てから、言葉をつなぐ。
「加えて、先生がたの責任でもありませんわ。もちろん、今後の安全対策に関しては少々。対策が必要かと存じますが」
「……とはいえ、申し訳ござ……」
「だから、謝らないで!」
波野先輩が、引き続き窓の外を見ながら。
やや大きな声で、僕をとめる。
「……謝られたら、ね」
先輩は、今度は心の中から絞り出すような声で。
「無駄なことをしちゃったみたいになるから、やめて欲しい……」
倒れかけた立て看板が、一年生の女子に直撃しかけて。
演劇部の部長が、かばおうとした。
そして、その部長を守ろうとして……。
波野先輩は、腕だけでなく。
……顔を、怪我してしまった。
ステージに立つのが、大好きな女の子が。
その顔に、怪我をした。
受けた衝撃の度合いは、本当のところ。僕にはとても、理解ができない。
とてつもなく大きくて、とてつもなく取り返しのつかないことだとは。
想像することは、できるけれど。
波野先輩の、心の傷の深さを。
僕なんかが理解できるといって、よいわけがないのだ。
「……少し、外しましょうか」
先輩のお母さんが声をかけて、先生たちと外に出ると告げる。
「……わたしも、出ておくわ」
三藤先輩が、僕よりも早くそういったけれど。
「月子は、ここにいていいよ」
波野先輩は、そう告げた。
僕たちのうしろで、扉の閉まる音がする。
ただ先輩はまだ、外を眺めたままだ。
「……あのね、神様って信じる?」
そのときの、波野先輩は。
まるで窓の外の、小鳥に質問しているようだった。
「傷は、深いらしんだけどね……」
そういわれて。三藤先輩も僕も、思わず顔を下に向けてしまう。
……ところが。
「おでこの上だから目立たないかも! だって!」
突然、明るい声がして。
波野姫妃は笑顔で、振り返って僕たちを見た。
前髪の、生え際あたりなので。
最終的には、まだわからないけれど。
髪を下ろせば、目立たずに済むかもしれないと医者に告げられたと。
波野先輩が、僕たちに教えてくれた。
「……でも、なんて呼ぶのか知らないですけど」
「えっ?」
「おでこを出した髪型で演技するのは……ウゲッ!」
途中までいいかけた僕の足を、三藤先輩が思いっきり踏みつける。
「革靴のかかとよ。痛くて当たり前でしょ」
先輩は、そういうと。
「ふたり分の気持ちを込めたので、痛くて当たり前よ」
なんだか、あきれ果てたという顔で僕を見る。
「ありがとう、月子」
波野先輩が、ほほえみながらそういうと。
「なんなら、あと三回くらいやったほうがいいかしら?」
み、三藤先輩が……。鬼になっている……。
「う〜ん」
波野先輩が、なんだか考える仕草をしてから。
「ま、鈍感なのなんて。まだ治らないでしょ!」
そういって、楽しそうな顔になり。
「まぁ、海原くんに限って。治らないわよね」
三藤先輩も、そう応じると。
おだやかな笑い声が、しばし病室の中でしばらくこだました。
それから一呼吸おいて、波野先輩が話し出す。
「ねぇ、海原君?」
「は、はい」
「一番聞きにくいことを口にしてくれて……。ありがとう」
「い、いえ……。そこまで深く……」
「考えていってないよね? それも知ってる。だから、ありがとうなの」
「へ?」
「だって、女の子の顔に傷とか聞いたら。普通、遠慮しちゃうでしょ?」
……窓の外の木に、小鳥がまた一羽やってくる。
もし、小鳥がいま話せたら。
僕は鳥にまで、あきれたわとでもいわれるのだろうか?
「……えっと、海原くん」
「はい」
「先生への伝言を思い出したので、ちょっと失礼するわね」
そういうと、三藤先輩は。
なぜか、僕を置いたまま。
病室から、静かに消えてしまった。
「ええっ……」
さすがに、声には出さないけれど。
波野先輩と、ふたりきりですか?
べ、別に前に一緒にお弁当を食べたことはあるけれど。
頭に包帯をぐるぐる巻いて、片腕もなんだか色々巻いていて。
あ、明らかに怪我人なんだけれど……。
だからこそ、そのパジャマみたいな服を着た先輩のところに。
ひとりで置いておかれるなんて、予想外だった。
ガラスの向こう側に、小鳥がさらに一羽増えている。
みなさん、日本語しゃべれません?
わからないけど、ヘブライ語でもなんでもいいから。
小鳥たちが会話に加わってくれたらなぁ……。
結局、しばしの沈黙を破ったのは波野先輩だった。
「……月子って、たまにやさしいよね〜」
い、イマイチ色々わからないけれど。
三藤先輩が、『たまに』やさしいのは事実だろう。
「海原君は、さぁ……」
そこで、先輩の声がとまるので。
その方角を見るしかないですよね。
えっと、波野先輩はベッドに腰掛けていて。
ヒビの入っていないほうの腕で、僕を手招きして。
近くにこいと合図している。
「……隣に、座って」
「え……?」
そのとき。僕を見る、波野先輩の目は明らかに。
な、なにかを訴えていた……。