桜の記憶

第2話 記憶の断片

東京に戻って三日が経った。

美咲は編集部のデスクに座り、京都取材の原稿をまとめていたが、集中することができなかった。パソコンの画面を見つめながら、心は遠く京都の桜月庵にある。

「美咲さん、原稿の調子はどう?」

同僚の山田が声をかけてきた。

「あ、はい。順調です」

美咲は慌てて返事をしたが、実際には進んでいなかった。悠人の温かい笑顔と、桜餅の味が頭から離れない。

「京都、良かったでしょう?桜の季節だったものね」

「ええ、とても美しかったです」

美咲は微笑んだが、その表情には何か遠い想いが込められていた。

昼休みになると、美咲は一人でオフィスビルの屋上に上がった。東京の空は高く、遠くに薄っすらと富士山が見える。しかし、心は京都の石畳の道を歩いていた。

「なんで、あんなに心に残っているんだろう...」

美咲は自分の気持ちが理解できずにいた。確かに悠人は優しく、魅力的な人だった。しかし、一度会っただけの相手にこれほど心を奪われるなんて、今まで経験したことがない。

携帯電話を取り出し、何度も桜月庵の連絡先を調べそうになった。しかし、その都度思い直す。

「仕事で一度会っただけなのに...」

しかし、心の奥では、あの出会いが単なる偶然ではないような気がしていた。



その夜、美咲は久しぶりに養母の恵子を訪ねた。世田谷の住宅街にある小さな家で、恵子は一人暮らしをしている。

「お疲れさま。京都はどうだった?」

恵子は温かく迎えてくれた。美咲にとって、恵子は本当の母親以上に大切な存在だった。五歳の時の交通事故で両親を失った美咲を、恵子は我が子のように育ててくれた。

「とても良かったです。でも...」

美咲は言いかけて止まった。悠人のことを話すべきかどうか迷っていた。

「でも?」

「なんでもないです。古い建物がたくさんあって、勉強になりました」

恵子は美咲の表情を見て、何かを感じ取ったようだった。

「美咲、あなた最近少し変わったわね」

「変わった?」

「なんというか...生き生きしているような気がするの。何か良いことがあった?」

美咲は頬を染めた。やはり、母親代わりの恵子には隠しきれない。

「実は...」

美咲は意を決して、桜月庵での出来事を話した。雨宿りをしたこと、悠人という優しい男性に出会ったこと、桜餅を食べた時の不思議な感覚。

恵子は黙って聞いていたが、桜餅の話をした時、表情が少し変わった。

「桜餅?」

「はい。とても美味しくて、でも何だか懐かしい味がして...」

恵子は立ち上がり、台所へ向かった。しばらくして、古い写真を持って戻ってきた。

「美咲、これを見て」

写真には、五歳くらいの美咲が桜餅を手に持って笑っている姿が写っていた。

「これは...」

「あなたが小さい頃の写真よ。桜餅が大好きだったの」

美咲は写真を見つめた。確かに自分だが、記憶はない。

「私、桜餅が好きだったんですか?」

「ええ。特に春になると、よく食べていたわ」

恵子の声に、微かな懐かしさが込められていた。

「どこで食べていたんですか?」

恵子は一瞬、答えに詰まった。

「近所の和菓子屋さんよ。もうお店はないけれど」

美咲は写真の中の自分を見つめた。こんなに桜餅を愛していたなら、京都で感じた懐かしさも説明がつく。

「お母さん、私の記憶が戻ることはあるんでしょうか?」

恵子は複雑な表情を見せた。

「お医者さんは、何かのきっかけで戻る可能性があるって言っていたけれど...」

「きっかけ?」

「匂いや味、音楽...過去と関連の深いものに触れると、記憶が蘇ることがあるそうよ」

美咲は桜餅の味を思い出した。そして、悠人の優しい声。

「もしかして、京都で感じた懐かしさは...」

恵子は美咲の肩に手を置いた。

「無理に思い出そうとしなくても良いのよ。今のあなたが幸せなら、それで十分」

しかし、美咲の心は既に決まっていた。あの懐かしさの正体を知りたい。そして、悠人ともう一度会いたい。



その夜、美咲は自分の部屋で京都の観光パンフレットを見ていた。桜月庵の写真は載っていなかったが、その周辺の地図を眺めているだけで心が躍った。

「また行きたい...」

美咲は小さくつぶやいた。次の休みには、必ず京都に行こう。今度は仕事ではなく、プライベートで。

携帯電話を手に取り、今度こそ桜月庵の連絡先を調べた。ホームページがあり、そこには美しい和菓子の写真と共に、悠人の写真も載っていた。

「やっぱり素敵な人...」

美咲は悠人の写真を見つめた。穏やかな表情の奥に、何か深い想いが隠されているような気がした。

思い切って、メールフォームに メッセージを書き始めた。

『先日は突然の雨宿りをさせていただき、ありがとうございました。佐藤美咲です。桜餅、とても美味しかったです。また京都に伺う機会があれば、ぜひお店に立ち寄らせていただきたいと思います。』

何度も書き直し、ようやく送信ボタンを押した。


一方、京都の桜月庵では、悠人が一人で店の片付けをしていた。桜の季節も終わりに近づき、夜風が涼しくなってきた。

パソコンを開いてメールをチェックすると、見慣れないアドレスからメッセージが届いていた。

『美咲さん...』

悠人は思わず声に出した。彼女からの連絡を、実は心のどこかで待っていたのだ。

すぐに返信を書いた。

『美咲さん、メールをありがとうございました。あの日のことは僕も印象に残っています。京都にいらした時は、ぜひまたお店にお立ち寄りください。心よりお待ちしております。田中悠人』

送信した後、悠人は店内を見回した。あの日、美咲が座っていた場所に、まだ彼女の面影が残っているような気がした。

「美咲さん...」

悠人は窓の外の桜を見つめた。散りかけた花びらが、夜風に舞っている。

この時、二人はまだ知らなかった。この小さなメールのやり取りが、運命の歯車を動かし始めたことを。

そして、美咲の失われた記憶の中に、悠人との深い絆が眠っていることを。
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