桜の記憶
第25話 初桜の評価
薄桃色の陽光が差し込む桜月庵の工房。朝の仕込みを終えた美咲は、白餡と練乳を丁寧に練り上げながら、静かな決意を胸に抱いていた。
「今日は、勝負の日だね」
工房の隅で梢が微笑む。いつもより口数は少なかったが、その目は美咲の緊張を理解しているようだった。
「はい。初めて、自分の菓子を“椿さんに”正式に召し上がっていただきます」
この日、美咲は季節の提案菓子として、自身が考案した創作和菓子を披露する機会を与えられていた。名を「初桜」と名づけた。
主菓子は、羽二重餅で包んだ練乳餡。桜の花の塩漬けを中央にあしらい、ほんのりと桜葉の香りを移した繊細な一品だった。白と淡紅色が溶け合うような、美咲自身の記憶と現在が交わるような仕上がり。
「どうしてこの組み合わせに?」
そう問う梢に、美咲は少しだけ間を置いて答えた。
「優しい甘さの中に、春の記憶を閉じ込めたかったんです。私自身、たくさんの思い出を忘れていたから。今あるものを噛みしめることで、失われた何かを思い出せるかもしれない。そんな想いを形にしました」
梢は小さく頷いたあと、控えめな声で言った。
「…お義母さまは、厳しいけれど、ちゃんと見てくれる方です。きっと、今日の“初桜”も、正面から受け取ってくださいますよ」
その言葉に、美咲の緊張は少しだけほぐれた。
昼過ぎ、桜月庵の奥座敷にて、椿と梢、そして数名の上客に向けて、美咲の「初桜」が供された。
緊張の面持ちで立つ美咲に、椿はじっと視線を向けた。
「これは、あなたの創作?」
「はい。桜月庵の記録と、日々の仕事の中から得た学びをもとに、今の私が作れる精一杯を形にしました」
「では、いただきましょう」
椿は箸をとり、羽二重餅を切り分けると、ゆっくりと一口運んだ。
空気が静まり返る。
椿の表情はほとんど動かない。ただ、その目が僅かに見開かれたのを美咲は見逃さなかった。
「……面白いわね」
そう言うと、椿は茶をすすり、さらにもう一口。今度は噛みしめるように味わった。
「練乳の甘さが餡に溶け込みすぎていない。桜の塩気と羽二重の柔らかさとの対比も、悪くない。奇をてらってはいないが、芯にあるのは“思い出”かしら?」
「……はい」
「いいわ。菓子は人の心を映す鏡。あなたの記憶と、ここでの暮らしが滲んでいる。これなら、お客様にも出せる」
その言葉に、美咲の肩の力がふっと抜けた。
奥で見ていた梢も、思わず目元をほころばせる。
「ただ――」
椿が続けた。
「もうひと工夫できるはず。この練乳餡、単調になりやすいからこそ、どこかにアクセントが欲しい。香りでも、食感でもいい。次に出す時は、そこを考えてごらんなさい」
「……はい、ありがとうございます!」
美咲は深く頭を下げた。
その日の夕方。工房の片隅で片づけをしていた美咲に、椿がふらりと現れた。
「ひとつ、聞いてもいいかしら」
「はい?」
「あなたが失った記憶。それは、“痛み”として残っているの?」
不意を突かれて、美咲は言葉を失った。
「いえ……記憶がないのに、痛みだけが胸に残っているような気がするんです。春になると、決まって胸がざわついて、不安になる。でも、今は少しずつ、それが和らいでいる気がします」
「そう。なら、菓子を作りなさい」
「え…?」
「人の痛みも、ぬくもりも、すべて菓子にすればいい。それが、私たちの仕事なのだから」
そう言って椿は背を向けたが、美咲はとっさに言葉をかけた。
「椿さん」
「なに?」
「ありがとうございます」
椿は小さくうなずき、工房を後にした。
夜。桜月庵の庭先で、美咲はひとり夜風を浴びていた。
ふと、背後から声がした。
「いい一日だったみたいだね」
振り向くと、悠人が手に二つ、茶碗を持って立っていた。
「冷たいお茶、いる?」
「うん。ありがとう」
二人は並んで腰掛け、ゆっくりとお茶をすする。
「椿さん、ちゃんと見てくれていたよ。少し、怖かったけど」
「うちの祖母はな、誰にでも厳しい。でも、認めた人間には絶対に背を向けない人だ」
「そっか……なんだか、少し近づけた気がして嬉しい」
「今日の“初桜”、俺も食べたよ」
「ほんと?」
「うん。美咲の中にある“記憶”を、味にしたみたいだった。俺にもちゃんと届いたよ」
その言葉に、美咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。
桜の記憶。まだ全てが戻ったわけではない。でも、自分の中に確かに息づく何かがある。それを信じて進んでいこう。
そう、静かに思った。
「今日は、勝負の日だね」
工房の隅で梢が微笑む。いつもより口数は少なかったが、その目は美咲の緊張を理解しているようだった。
「はい。初めて、自分の菓子を“椿さんに”正式に召し上がっていただきます」
この日、美咲は季節の提案菓子として、自身が考案した創作和菓子を披露する機会を与えられていた。名を「初桜」と名づけた。
主菓子は、羽二重餅で包んだ練乳餡。桜の花の塩漬けを中央にあしらい、ほんのりと桜葉の香りを移した繊細な一品だった。白と淡紅色が溶け合うような、美咲自身の記憶と現在が交わるような仕上がり。
「どうしてこの組み合わせに?」
そう問う梢に、美咲は少しだけ間を置いて答えた。
「優しい甘さの中に、春の記憶を閉じ込めたかったんです。私自身、たくさんの思い出を忘れていたから。今あるものを噛みしめることで、失われた何かを思い出せるかもしれない。そんな想いを形にしました」
梢は小さく頷いたあと、控えめな声で言った。
「…お義母さまは、厳しいけれど、ちゃんと見てくれる方です。きっと、今日の“初桜”も、正面から受け取ってくださいますよ」
その言葉に、美咲の緊張は少しだけほぐれた。
昼過ぎ、桜月庵の奥座敷にて、椿と梢、そして数名の上客に向けて、美咲の「初桜」が供された。
緊張の面持ちで立つ美咲に、椿はじっと視線を向けた。
「これは、あなたの創作?」
「はい。桜月庵の記録と、日々の仕事の中から得た学びをもとに、今の私が作れる精一杯を形にしました」
「では、いただきましょう」
椿は箸をとり、羽二重餅を切り分けると、ゆっくりと一口運んだ。
空気が静まり返る。
椿の表情はほとんど動かない。ただ、その目が僅かに見開かれたのを美咲は見逃さなかった。
「……面白いわね」
そう言うと、椿は茶をすすり、さらにもう一口。今度は噛みしめるように味わった。
「練乳の甘さが餡に溶け込みすぎていない。桜の塩気と羽二重の柔らかさとの対比も、悪くない。奇をてらってはいないが、芯にあるのは“思い出”かしら?」
「……はい」
「いいわ。菓子は人の心を映す鏡。あなたの記憶と、ここでの暮らしが滲んでいる。これなら、お客様にも出せる」
その言葉に、美咲の肩の力がふっと抜けた。
奥で見ていた梢も、思わず目元をほころばせる。
「ただ――」
椿が続けた。
「もうひと工夫できるはず。この練乳餡、単調になりやすいからこそ、どこかにアクセントが欲しい。香りでも、食感でもいい。次に出す時は、そこを考えてごらんなさい」
「……はい、ありがとうございます!」
美咲は深く頭を下げた。
その日の夕方。工房の片隅で片づけをしていた美咲に、椿がふらりと現れた。
「ひとつ、聞いてもいいかしら」
「はい?」
「あなたが失った記憶。それは、“痛み”として残っているの?」
不意を突かれて、美咲は言葉を失った。
「いえ……記憶がないのに、痛みだけが胸に残っているような気がするんです。春になると、決まって胸がざわついて、不安になる。でも、今は少しずつ、それが和らいでいる気がします」
「そう。なら、菓子を作りなさい」
「え…?」
「人の痛みも、ぬくもりも、すべて菓子にすればいい。それが、私たちの仕事なのだから」
そう言って椿は背を向けたが、美咲はとっさに言葉をかけた。
「椿さん」
「なに?」
「ありがとうございます」
椿は小さくうなずき、工房を後にした。
夜。桜月庵の庭先で、美咲はひとり夜風を浴びていた。
ふと、背後から声がした。
「いい一日だったみたいだね」
振り向くと、悠人が手に二つ、茶碗を持って立っていた。
「冷たいお茶、いる?」
「うん。ありがとう」
二人は並んで腰掛け、ゆっくりとお茶をすする。
「椿さん、ちゃんと見てくれていたよ。少し、怖かったけど」
「うちの祖母はな、誰にでも厳しい。でも、認めた人間には絶対に背を向けない人だ」
「そっか……なんだか、少し近づけた気がして嬉しい」
「今日の“初桜”、俺も食べたよ」
「ほんと?」
「うん。美咲の中にある“記憶”を、味にしたみたいだった。俺にもちゃんと届いたよ」
その言葉に、美咲の胸の奥がじんわりと温かくなる。
桜の記憶。まだ全てが戻ったわけではない。でも、自分の中に確かに息づく何かがある。それを信じて進んでいこう。
そう、静かに思った。