桜の記憶

第28話 風に舞う約束

春香の手帳に記されていた最後の一文──「美咲、あなたが笑って生きてくれるなら、私はそれでいい」──は、美咲の心に静かに沁み込んでいた。その言葉は、春香が娘に残した、唯一で確かな愛の証だった。

椿の静かな見守りのもと、美咲は桜月庵での仕事に打ち込み続けていた。日々の仕込み、販売、接客。その中で、美咲の作る和菓子には、春香に通じるどこか優しい味が宿るようになっていた。

「これ、美咲ちゃんが作ったの? なんやろ、ほんまに懐かしい味がするわ」

常連客が、そうつぶやいた。

「昔、お母様が作っていた『夕桜』というお菓子に、よく似ているのよ」 と椿がそっと言い添えた。

美咲は、ほんの少しだけ微笑んだ。

ある日、悠人が店の奥から、一枚の書付を手にして現れた。

「椿さん、これ……春香さんの企画案のようです。桜月庵の新作として温めていたもののようで」

書かれていたのは、四季折々の自然をテーマにした和菓子のシリーズ。中でも、「風音(かざね)」という名前の品に、春香の筆跡でこんな走り書きがあった。

『風の音は、遠くの誰かとつながっている気がする。そんな想いを形にしたい』

「……この菓子、私に作らせてください」

そう口にした美咲の声は、静かだが揺るぎなかった。

「いいと思うよ。春香さんの思いは、美咲さんにしか継げないものだから」

悠人の言葉に、美咲は深く頷いた。

それから数週間、美咲は春香の記録と向き合い、椿や梢の助言を受けながら「風音」の試作に取り組んだ。風を感じる和菓子。それは抽象的で難しかったが、美咲は「余白」と「香り」に着目した。

柔らかな求肥の中に、ふんわりと柚子の香りが漂う餡。そして、和三盆を軽くふりかけ、口に入れた瞬間、ふっと風が吹き抜けるような儚い後味。

完成したその日、椿は静かに頷いた。

「これは、春香の目指していた“風の記憶”そのものやね」

そして試食会の日。悠人が提案した。

「この新作、“風音”を東京の和菓子展に出品しませんか?」

「えっ……私が?」

「あなたが作ったんだもの。春香さんの想いを受け継いで」

椿も頷いた。

「桜月庵としても、胸を張って送り出せる出来よ」

迷いながらも、美咲は決意した。

「……やってみます。私にできることなら」

東京での展示会の日が近づくにつれ、美咲の緊張は高まった。けれど、それを支えたのは、春香の手紙と、椿や悠人、桜月庵の仲間たちの温かい眼差しだった。

展示会当日。数多の和菓子が並ぶ中で、「風音」は異彩を放った。控えめながらも上品なその佇まいに、訪れた審査員たちが足を止める。

「……これは、どなたが作られたのですか?」

「桜月庵の佐藤美咲と申します」

堂々と答えたその声は、春香が愛した“娘”の成長の証だった。

その日、「風音」は見事、審査員特別賞を受賞した。

夜、京都に戻った美咲を、椿が迎えてくれた。

「おかえり、美咲」

「ただいま、椿さん」

その言葉のやり取りだけで、もう涙がにじんだ。

「春香も、きっと喜んでるよ」

「……はい」

夜風が、桜月庵の暖簾をやさしく揺らした。その音はまるで、遠くにいる誰かの微笑みのようだった。
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