桜の記憶

第4話 過去の影

東京に戻った美咲は、恵子の様子を見て安堵した。体調不良は軽いものだったが、年齢を考えると心配になったのだ。

「ごめんね、せっかくの京都旅行を台無しにして」

「そんなことありません。お母さんの体調の方が大切です」

美咲は恵子の手を握った。しかし、心のどこかで京都での時間を惜しく思う気持ちもあった。特に、悠人が何かを聞きかけた瞬間の表情が気になっていた。

「その京都の男性、どんな方なの?」

恵子が興味深そうに聞いた。

「とても優しい人です。和菓子職人で、京都のことを色々教えてくださって...」

美咲は頬を染めながら答えた。恵子はその表情を見て、娘が恋をしていることを理解した。

「大切な人ができたのね」

「まだそこまでは...でも、一緒にいると心が落ち着くんです」

恵子は複雑な表情を見せた。美咲の幸せを願う気持ちと、隠している秘密への罪悪感が交錯していた。



一方、京都では悠人が一人、桜月庵の奥で古いアルバムを開いていた。

そこには、幼い少女の写真が何枚も貼られている。五歳くらいの女の子が、桜餅を嬉しそうに食べている写真。悠人と手を繋いで歩いている写真。桜の木の下で笑っている写真。

「さくら...」

悠人は写真の中の少女の名前を口にした。

田中さくら。悠人の妹。十年前の交通事故で、両親と共に亡くなったはずの...

「でも、美咲さんは...」

悠人は震える手で、美咲のことを思い出していた。あの懐かしそうな表情。桜餅を食べた時の反応。そして、五歳で記憶を失ったという話。

すべてが一致している。

「生きていたのか...さくらは生きていたのか...」

悠人の目に涙が浮かんだ。十年間、妹の死を背負って生きてきた。あの日、自分が一緒にいれば。自分がもっとしっかりしていれば。

後悔と自責の念が、悠人を長い間苦しめてきた。

しかし、もしさくらが生きているなら...

悠人は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。確信を得るために、確かめなければならない。しかし、どうやって?

そんな時、店の奥に飾られた位牌が目に入った。

「桜子...」

悠人の恋人だった女性。彼女もあの事故で命を落とした。さくらを守ろうとして...

「もし本当にさくらが生きているなら、桜子にどう報告すれば良いんだ...」

悠人の心は複雑だった。妹が生きていた喜びと、恋人を失った悲しみ。そして、美咲に抱いていた恋愛感情への困惑。



翌日の夕方、悠人は意を決して美咲にメールを送った。

『美咲さん、お母様の体調はいかがですか?昨日はお疲れさまでした。お聞きしたいことがあります。もしよろしければ、お電話でお話できませんか?』

美咲からの返事はすぐに来た。

『養母は大丈夫です。ありがとうございます。お電話、大丈夫です。今晩九時頃はいかがでしょうか?』

九時になると、悠人は緊張しながら美咲に電話をかけた。

「もしもし、美咲さんですか」

「悠人さん、お疲れさまです」

美咲の声を聞くだけで、悠人の心は複雑になった。この声は、確かに幼い頃の記憶にある妹の声と似ている。

「昨日、お聞きしかけたことがあるんです」

「はい」

悠人は深呼吸をして、勇気を振り絞った。

「美咲さんの昔のお名前なんですが...もしかして、『さくら』ではありませんでしたか?」

電話の向こうで、美咲が息を呑む音が聞こえた。

「どうして...そのお名前を...」

「やっぱり...」

悠人の声が震えた。

「美咲さん、いえ...さくら。僕は田中悠人です。あなたの兄です」

長い沈黙が続いた。

「お兄さん...?」

美咲の声は混乱していた。

「信じられないかもしれませんが、あなたは僕の妹です。本当の名前は田中さくら。十年前の事故で、僕たちは離ればなれになってしまった」

「でも、事故では...」

「両親は亡くなりました。でも、あなたは生きていた。記憶を失って、別の方に引き取られて...」

美咲は電話を握る手が震えた。心の奥で、何かが響いている。悠人という名前。優しい声。確かに覚えがある。

「ゆう...にい...」

小さな声で、美咲が口にした。

「そうです。僕は、あなたのゆうにいです」

悠人の涙が止まらなかった。

「会えて...本当に良かった...」

しかし、美咲の心は混乱していた。悠人への想い。それは恋愛感情だと思っていたのに、実は兄への愛情だったのか。

「私...悠人さんを...」

美咲は言いかけて止まった。兄だと知った今、自分の気持ちをどう整理すれば良いのか分からない。

「さくら、無理に思い出そうとしなくて良い。今は、あなたが生きていてくれたことが嬉しいです」

悠人の優しい声に、美咲の心は少し落ち着いた。

「悠人さん...お兄さん...」

「今度京都にいらした時、詳しくお話ししましょう。今日は、もう休んでください」

「はい...」

電話を切った後、美咲は呆然と立ち尽くしていた。

兄妹。自分には、血のつながった兄がいた。しかも、それは自分が恋心を抱いた人だった。

複雑な感情が、美咲の心を支配した。



一方、悠人は電話を切った後、桜子の位牌の前に座っていた。

「桜子、さくらが生きていたよ。君が守ろうとしてくれた、あの小さなさくらが...」

悠人は位牌に語りかけた。

「でも、どうすれば良いんだ。僕は...さくらに恋をしてしまった。妹だと知らずに...」

桜子の位牌は、静かに微笑んでいるようだった。まるで「大丈夫」と言っているかのように。

悠人は複雑な思いを抱えながら、夜の京都を見つめていた。

妹との再会。それは奇跡だった。しかし、同時に新たな苦悩の始まりでもあった。

桜の季節は終わったが、二人の物語は、これから本格的に始まろうとしていた。
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