秘めた恋は、焔よりも深く。
「佐倉さん、どうしたの?なんて答えてた?」

「それがですね……」

何気なく社長室を出たはずだった。
聞く気はなかった。
けれど、田島の甲高い声が耳に飛び込んできた瞬間、足が止まってしまった。

……佐倉が、松田に、誘われた?

黒瀬龍之介は、報告書を手にしたまま、一歩も動けずにいた。

「……そうなんです、あの感じ、絶対に気があるっていうか。
でも佐倉さん、やんわりと断ってたような……でも完全じゃなかった気がして……」

落合と田島の声が、会議用のガラス越しにかすかに響く。

(……断った、のか?……いや、“ような”ってなんだ)

心の奥にざわりとした波が立った。
言葉にできない、冷たいものと熱いものが交互にぶつかるような、鈍い感覚。

“佐倉さんが誰に食事に誘われようと、俺には関係ない”

それは頭で何度も言い聞かせたことだった。

けれど、なぜ今、これほど胸の内がささくれ立つのか。
報告書を握る指に、無意識に力がこもっていた。

(……なぜ、そんなに気になる)

あの穏やかな声が。
小さく笑う横顔が。
少し迷うような眼差しが。
自分だけのものではない。
そう思った瞬間、喉の奥が、ひどく乾いた。

(……松田専務か)

その名前を心の中で反芻したとき、
龍之介はゆっくりと社長室の扉を閉めた。
静かな動作のはずなのに、どこかぎこちなさが滲んでいた。

「……で、何をそんなに不機嫌な顔してるんだ、龍之介」
執務室のソファに腰を下ろした真樹が、資料に目を通しながら言った。
声は飄々としていたが、その眼差しは、書類越しに龍之介の様子を見抜いていた。

「別に、不機嫌では」

「いや、してる。お前が“別に”って言うときは、だいたい何かある」

「……社長にはお見通しですね」

「45年以上の付き合いだ。目の動きでわかる」

書類を閉じ、真樹は龍之介の方へ体を向けた。

「松田専務に、佐倉くんが食事に誘われた話?」

龍之介は無言で視線を外す。

真樹は口元だけで笑った。

「……で、どうなんだ。気になるのか?」

「社長」

「いいじゃないか、たまには。お前が女の話するのなんて、最近滅多にないんだから」

「別に、何も……」

「龍之介」

その名を呼ぶ声が、少しだけ低くなった。

真樹の視線は鋭く、しかし、どこか温かさを含んでいた。

「本気で気になるなら……下手な遠慮はやめておけ。
お前みたいなやつが本気で動いたら、たいていの男は引く。
でも、それくらいの迫力がないと、ああいうタイプは振り向かないぞ」

「“ああいうタイプ”?」

「自分の価値を、まだ半分も理解していない女。
佐倉さんは、そういうところがある」

沈黙が落ちる。
龍之介は何も言わず、ただその言葉を噛みしめるように受け止めていた。

真樹はそれ以上は言わず、立ち上がって背中越しに一言だけ落とした。
「お前……嫉妬、しているんじゃないか」

「……」
龍之介は返事をしなかった。
ただ、その背筋に、静かに火が灯るような気配があった。

「それにさ」

ソファから立ち上がりかけた真樹が、ふと声を低くして言った。
「松田専務が相手なら……なおさらだ」

その言葉に、龍之介の視線がゆっくりと持ち上がる。

「お前も、あの男の手腕をよく知ってるはずだ。
物腰は柔らかくても……攻めると決めたら、速い。容赦がない」

真樹は窓の外に視線をやりながら、わずかに目を細めた。
「ビジネスだけじゃない。女の口説き方も、例外じゃないさ」

沈黙。
龍之介の拳が、無意識に膝の上で静かに握られていた。
背を向けながら、真樹は続ける。

「迷ってる暇なんて、ないかもしれないぞ。
本気で佐倉さんのこと、向き合うつもりがあるなら…」

そこで一度、言葉を切る。

そして、振り返らずに言った。
「決めろ。お前らしく、腹を括って向き合え」

静かで、けれど鋭く胸に刺さる一言だった。
龍之介はその背中を見送ったまま、言葉を返さなかった。
けれど、胸の奥に何かが深く、確かに落ちた気がした。

“決めろ”

その一言が、しばらく頭の中で、静かに響き続けていた。
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