東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
土曜日が来た。
わさびはいつも、新しい子をお迎えする日にはきちんと正装する。化粧も圭介からしてもらう。
でも今日はシノノメ・ホースの受け入れだ。
2キロもない距離なので、わさびがあの子に乗ってくる。わさびがシノノメ・ホースに乗る姿を見たいと言った紀糸と、そう約束した。
だから、久しぶりにちゃんとした乗馬服を着る事にする。
約束の時間は午前10時。
わさびはなんだかソワソワしていた。
紀糸が大好きなのだと圭介に教えてもらったら、急に会いたくなって、数日前からウズウズしている。
「紀糸は来ましたか?」
時間は朝9時。
「まだいらっしゃっていないよ。やっと空港に着いたくらいじゃないかな」
空港まで迎えに行くと言えばよかった。
「紀糸は来ましたか?」
「まだだよ、さっきから30分しか経ってないからね」
圭介がわさびを見て笑った。
「自覚したら、会いたくて仕方ないみたいだね」
「はい、わさびは紀糸に会いたくて仕方ありません」
わさびが紀糸に大好きと言ったら、紀糸はお爺みたいに喜んでくるかもしれない。
言われたとおりに名前で呼んで、スマホの番号を教えたら、褒めてくるかもしれない。
「紀糸は来ましたか?」
「まだだよ……少し遅いね、何かあったかな? もしかして、そのままシノノメ・ホースの所で待たれてるかもしれない。行ってみるかい?」
紀糸は約束を守る。手違いも間違いもしない。
「それはありえません。紀糸がここだと言ったので、絶対に間違えません。それが東雲です」
その時だった。
ものすごいスピードで、タクシーが一台入ってくるのが見えた。
───キィッ!
「はいっ、到着! お、お出迎えまでいらっしゃるとは、お兄さん、凄い馬主さんなんだね!」
タクシーの運転手のおじさんが、額をぬぐう小芝居をしながら降りてきた。
───紀糸が着た!
わさびはタクシーに駆け寄る。
しかし……
「───付いてこないでください! 運転手さん、この人はこのまま空港まで戻ります。早く出してください」
「そんな事言わないでください! 沙也加は紀糸さんの事を知りたくて、わざわざ北海道まで着いてきたんですから!」
タクシーから、紀糸が怒りながら降りてきた。
ついでに、紀糸の腕にすがりつくように手を絡めた女の人が、くっついて一緒に降りてきた。
「……」
「あれ、お一人じゃないみたいだね……───っ!? わっわさびちゃん?! お客様だよ! 顔! その顔は駄目っ、笑顔だよ、笑顔!」
圭介が必死にわさびに笑顔を作れと言っているが……わさびは今、どんな顔をしているのだろうか。たぶん、笑っているはず。
──────
わさびは走った。
シノノメ・ホースに乗り、風を切るように猛スピードで公道を駆け抜けた。
女連れで現れた紀糸の事は、圭介に任せた。
「圭介、予定の時間が過ぎていますので、わさびは先にお迎えに行ってます。二人は任せました」
「え?! ちょ、オーナー?!」
本当は紀糸と圭介と三人でシノノメ・ホースを迎え行って、わさびとシノノメ・ホースに車で付いてきてもらう予定だった。
でも……
───わさび、なんだかイライラする。
ヘルメットをかぶり、顔を隠してそのまま大型バイクに跨り、音を響かせて一人で先に出発した。
もちろん、わさびは単車の免許も持っている。
「ゼロさん、素敵なお部屋をご用意しております、さっさと行きましょう」
シノノメ・ホースを撫でながら、目を見て挨拶を交わす。
『わさび、珍しく機嫌悪いな。俺の受け入れ日なのに酷いじゃないか』
シノノメ・ホースがわさびに話しかけてきた。今日はだいぶ機嫌がいいらしい。反対に、わさびは今日、ついさっきから機嫌が悪い。
「滝本さん、バイクは後で取りに来ます。お世話になりました。シノノメ・ホースはノーザンがデロデロに甘やかしますので、安心してください」
「ははは! そりゃ羨ましいな! 俺も馬になりてぇ! ───またな、シノノメ・ホース!」
わさびはシノノメ・ホースに飛び乗った。
シノノメ・ホースは速い。
途中で、圭介が運転するノーザンの車とすれ違った気がする。あの女の人も乗っているのだろうか。
やっぱりそうだったみたいだ。車はUターンしてわさび達を追いかけてきた。
「ゼロさん、スピード上げましょう」
『任せろ』
───気持ちぃ……
わさびは馬上から見る景色が好きだ。
「到着ですね」
『もっとわさびと走りたかったぜ。またすぐ俺と走ろうな、約束だぞ』
シノノメ・ホースはイケメンだ。
「はい、わさびも楽しみです」
わさびが止まると、追いかけてきた圭介達もすぐに着いた。
「すごぉーい、お姉さん、かっこいいっ! 沙也加もシノノメ・ホースに乗ってみたいなぁ! 馬にすら乗った事ないけどっ……紀糸さん、教えてくださいよ」
車から降りてきた男女は、女が男の腕に腕を回し、くっついている。
「わさび───っ」
紀糸が何か言おうとしたが、わさびはまたイライラしたので、無視してしまった。
「圭介、シノノメ・ホースを馬房に案内します。そちらのお二人をお願いします」
「わかりました、オーナー」
シノノメ・ホースは嫌がる事もなく、馬房に入ってくれ、転居自体は完了した。
この後、本当なら施設を案内してまわり、最後に新しい馬房でのシノノメ・ホースの様子をみてもらうなどして、終わりの予定だったが、圭介に任せる事にする。