東雲家の御曹司は、わさびちゃんに首ったけ
───数日後、人知れず俺は、母校を訪れていた。
懐かしい門構えに、見覚えのある警備員。
この高校に通い、卒業してからの10年という月日が経っている事が嘘のように感じる。
制服を着崩すような奴はほとんどいないが、毎朝教師が校門の前に立って、指導していたことを思い出す。
───……はっ、懐かしいな。
その時、午後の終業のチャイムが鳴り響いた。
これから生徒たちが出て来るだろう。
俺は車に戻り、運転手に怪しまれない位置に停めるよう指示した。
16歳から18歳まで様々だが、どいつもこいつも子供にしか見えない。校門から出て来る生徒を眺めながら、そんな事を考えていた。
俺はなぜあの日、18歳のガキを抱いたのか。
母ではないが、薬でも盛られて頭がいかれていたとしか考えられない。でも、違う。
間違いなく、俺は自分の意思でわさびを抱いたんだ。
その時だった。
やけに制服をだらしなく着ている生徒が一人出てきた。
スカートの丈は短すぎるわけでは無いが、学校指定のソックスではなく、黒いタイツを穿き、11月だというのにコートも羽織らず、ブレザーのなかにフード付きのパーカーを着ているだけのようだ。
しかしその顔をよく見れば、まさに俺が今日会いにきた奴だった。
俺は車を降り、彼女に声をかける。
「おい、歩いて帰るのか?」
神楽家のご令嬢が迎えの車も無しにどこへ行くというのか。
「……東雲 紀糸はここで何をしているのですか」
「お前に会いに来たんだ」
「そうですか、わさびはこれから帰るところです」
それは見ればわかる。
「迎えの車は? そんな薄着で寒くないのか?」
「わさびはいつも歩いて帰ります。歩くと暑くなるので、このくらいで丁度いいです」
しかし俺は気付いた。
「駅は逆方向だぞ」
「駅に用事はありません」
「なら、どこに帰るんだ」
「わさびの家に帰ります」
こいつの向かう方向にはバス停などはないはずだ。まさか、神楽家の家まで歩いて帰るというのだろうか。
いや、そんな馬鹿な話はない。ここから何時間かかると思ってるんだ。
中身のない会話を続けていると、わさびは俺を無視して歩き出した。
「おい、俺はお前に会いに来たと言っただろ」
「失礼、そうでした。何か用ですか?」
失礼だなんて絶対に思っていない顔をしている。
本当に、なんなんだこの女は……
「まぁいい、車に乗れ。家まで送ってやる」
「知らない人の車には乗りません。お爺に叱られます」
「……おじじ? いや、俺は知らない人ではないはずだが」
「あ、そうですね。東雲 紀糸はわざびの婚約者でした」
忘れていた、と言わんばかりに、とぼけた顔をする目の前の女を、どうしてやろうか、とやきもきする。
「いいから、車に乗れ」
「……」
しぶしぶ、と言った言葉がよく似合う表情で、わさびは車に乗った。
「少し遠回りしながら、神楽家の屋敷まで向かってくれ」
「かしこまりました」
俺が運転手に指示を出すと、すかさず訂正する声があがった。
「違います。星見台総合病院に向かってください」
「どうして病院なんだ」
そう言われると、わさびが駅と反対に向かって歩き出していた理由がわかる。
「わさびの家です」
もうわけがわからない。しかし言われてみれば、隣に座るわさびからは、ほのかに消毒用のアルコールの香りがした。制服にしみ込んでいるのだろうか。
「病院まで向かってくれ」
「かしこまりました」
どうしたらいいか迷っていた運転手に、再度俺が指示を出す。
車が走り出すと、わさびは窓の外を見続けたままひと言も言葉を発しない。
「どうして、病院が家なんだ?」
「お爺が病院に入院しているからです」
先ほどから言っているお爺とは、もしかして神楽家の当主の事だろうか。
「お爺が入院したら、家でごはんが貰えなくなりました。お腹が空くので、お爺の病院で同居を始めました」
「……ごはんが貰えない、ってどういうことだよ」
「言葉のとおりです。わさびはお爺が育ててくれました、名前もお爺がつけてくれました。みんな、変な名前だと言いますが、わさびは気に入っています」
思っていた以上に、神楽家は腐っていたようだ。
つまり、神楽 義徳とその妻と娘は、わさびを引き取るだけ引き取って、勝手に生きろとばかりに放置していたのかもしれない。
現当主は人格者だというから、可哀想な赤ん坊を見かねて、代わりに育てていたのだろう。
「ご当主……お前のお爺は、元気なのか?」
神楽家の当主ともなれば、アポも無しに東雲の俺が会いに行けるような方ではない。おそらく病室の前で止められるだろう。そもそも、そんなマナー違反をするつもりもない。
「お爺は元気です。でも少し瘦せました」
「そうか。お爺は、俺とお前が婚約したことは知ってるのか?」
「……」
その質問に、急に黙り込むわさび。
「お爺は知りません。言ったらわざびは叱られます」
なるほど、今回の騒動はすべて神楽 義徳の独断と言うわけか。
だが、ますますわからなくなってきた。
どうしてわさびは、当主に叱られるとわかっていて、身体を差し出してまで俺と見合いをしたんだ。
「父親に逆らえない事情があるのか?」
「あれは生物学上のただの種であり、わさびの父親ではありません。逆らえない事情もありません───東雲 紀糸はそんなこと聞いてどうするんですか」
急に饒舌になったかと思えば、最後の言葉には、あれこれ聞くな、と高い壁を構築された気分だった。さらには、何を勘違いしたのか……
「わさびは東雲 紀糸と結婚します。破談にはしません。断固阻止します」
「……」
こいつが何を考えているのか、俺には全くわからない。
まさか……
「お前、俺の事が好きなのか?」
「わさびは東雲 紀糸が好きではありません。わさびが好きな人間はお爺だけです」
“好きではない”───その言葉に、なぜか胸が痛んだ。
感じたことのない、未知の感覚だった。
俺とて、別にこの女を好いているわけでもなければ、好かれたいとも思わない。
虚無の眼はより虚無感たっぷりに俺を見つめている。
いいや、見つめているように見えるだけで、わさびはその眼に何も映していない。
その日は病院の前でわさびを下ろし、そのまま別れた。
俺は一体、このクソ忙しい時に何をしに行ったのか……
わからなくなっていた。