また泣いてたやろ
夜、暑くてつけたエアコンが、
いつの間にか凍えるほど寒く感じるまで、
私はスマホを眺めていた。
来ない連絡を、何度も受信画面で確かめては、
何も変わらない数字に目を落とす。
指先も、胸の奥も、すっかり冷えきっていた。
「もう、ないのかな…」
そうつぶやいた時、
見慣れた緑のアイコンの右上に「1」の通知が浮かんだ。
「期待してないし、どうせ別の人だし…」
呟きながら息が上がって心臓が寒くなるのは、
誰に対してじゃなく、自分への嘘のせい。
——誰に張ってる虚勢なの。
自分で自分に、呆れる。
欲しかった人からの連絡はなく、
いつも何故か気にかけてくれるお世話好きな彼からの連絡。
こんな私をどうしてずっと気にかけてくれるの、
そんな気持ちを持ちながらいつも結局寄りかかってしまう彼。
内容はいつも通り私を心配するものだった。
泣いてるなんて言えるはずもなく、
大丈夫だよって明るく返す。
返事は来なかった。
いや、来なかったんじゃない。
——代わりに、来たのは。
「ピンポーン」
インターホンの音だった。
「……えっ」
玄関を開けると、キャップにTシャツ、
片手にコンビニの袋を提げた彼が立っていた。
「……何しに来たの?」
「何しに…って。
こっちは来るって決めてから、5分で用意してきたんやぞ」
言いながら、勝手知ったるように靴を脱いで部屋に入ってくる。
「おい、エアコンの温度、何度やねん。手、冷たすぎるって」
私の手を両手で包み込んでそう言う。
クローゼットを開け、勝手にパーカーを取り出した。
私は泣いてたことも忘れて、呆然とただそれを見ていた。
「はい、立って。腕上げて」
「ちょっと待ってってば、心の準備が…」
「いらん。そんなの後でええから」
そう言って、慣れた手つきで薄手の上着を私に羽織らせる。
肩をそっと撫でるように整えるその仕草が、もう当たり前みたいで。
「次、靴」
「え、自分で履けるってば」
「言うと思った。でもさっきも言ってたやん、“大丈夫”って。
お前のそういうの、もう信じてないから」
玄関のスニーカーの紐を緩めて、
片方ずつ、私の足をすっと差し入れる。
「……なんで、そんなに慣れてんの?」
「そら、何回もこうなるからやろ」
ボソッとそう言って、目の前に座ってる私に両手を差し出す。
「出よ。夜の空気、浴びに」
助手席のドアを開けてくれる彼に、
私は黙って従った。
何も言えないまま、
でも胸の中が、すこしだけ溶けていくのを感じながら。
車内には、小さく音楽が流れていた。
どこの誰の歌なのか、いつもなら意識もしないのに、
その夜に限って、やけに歌詞が沁みてくる。
優しいギターの音と、
静かすぎないボーカルの声が、
この空気の中で、ちょうどいい。
彼は何も言わずに運転席で前を見ていて、
時折、ウインカーの音が小さく響いた。
助手席の私の前には、
さっき彼が差し出した缶のミルクティー。
そのぬくもりが、指先から胸の奥へと、
静かに、でも確実に伝わってくる。
隣の存在感で、
彼が目線だけでこちらを確認して、
なにも言わずに視線を戻すのがわかった。
なんかもう——
全部が、優しすぎて。
この人の言葉じゃなくて、
何気ない動きひとつひとつが、
“お前が元気になるために来た”って言ってくれてるようで。
ミルクティーの缶を強く握った瞬間、
ぽろっと、音もなく涙が落ちた。
拭う間もなく、頬をつたったそれに気づかれないように、
私は窓のほうを向いた。
なのにふいに、
「泣いてたんやろ?」
って、あっさり言い当てられて、
余計に涙が止まらなくなった。
「……なんでそんなにわかんの」
「お前のこと、知ってるから」
笑ながら軽く言われたその返しが、あまりにも自然で、あたたかくて、
また涙がこぼれる。
なのにそのとき、場違いなことをふと思った。
——あれ、そういえば彼って運転できたんだ。
ずっと、誰かの隣でふざけて笑ってる印象しかなかったから、
こんなふうに、真っ直ぐ前を見て、
ハンドルを握ってる姿が、少しだけ意外で。
そんなことを考えてる自分に、
少しだけ、笑ってしまう。
「……なに笑ってんの」
「ううん、なんでもない」
涙と一緒に、緊張までほどけていくようで。
私の心は、ようやく、静かに呼吸を始めた。
支離滅裂な説明をしても彼はちゃんと聞いてくれて、
めちゃくちゃな顔で号泣して喋れなくなっても黙って待っていてくれた。
涙は落ち着いたはずなのに、
目の奥がじんわり熱くて、喉の奥がうまく動かなかった。
それでもようやく、
少しだけ正気が戻ってきた気がして、
私は小さくつぶやいた。
「……どこ、向かってるの…?」
声は思ったより掠れていて、
自分でも驚いた。
彼はすぐに答えなかった。
けれど、赤信号で止まった瞬間、
ふっと笑って、前を見たまま言った。
「んー、どこやろなあ。
お前の気持ちがちゃんと落ち着くとこ、やない?」
そう言って、ウインカーを軽く出す。
その何気ない言葉が、
やたら優しくて、胸が締め付けられた。
「……そんな場所、ないよ」
「なかったら一緒に探せばいいやろ」
その声は、
まるで“当たり前のことを言っただけ”みたいに、穏やかだった。
助手席の窓の外では、
街の灯りがゆっくりと流れていく。
きらきらしてるのに、眩しすぎなくて、
その景色が、じわりと心に沁みていった。
私はもう、行き先がどこでもいいと思った。
だって——この人が隣にいてくれるなら、
それだけで、十分だと思ったから。
彼は、私が全部話しきるまで、車を走らせ続けた。
信号の光がフロントガラスに反射して、
車内にゆっくりした時間が流れていた。
やがて車は、私のアパートの前で静かに停まる。
エンジンが止まって、音が消える。
それだけで、世界がぐっと静かになった気がした。
「……着いたで」
小さく言って、彼は先にドアを開ける。
私はそれに続くように外へ出た。
まだ夜の空気はぬるくて、
でも、さっきまで感じていた寒さよりずっとましだった。
エントランスを抜けてエレベーターに乗る。
彼は何も言わなかったけれど、
私の手から缶を受け取って、かわりに部屋の鍵を取ってくれた。
「おかえり」
玄関のドアが開いて、
いつもの景色が、少しだけ違って見えた。
着替えを終えてリビングに戻ると、
彼はキッチンの片隅で、ホットミルクを作り始めた。
レンジの音が鳴り、マグカップを手に取る。
その仕草がやけに丁寧で、
“私をあたためよう”としてくれてるのが、伝わってくる。
「ぬるくしたけど、一応気つけて」
手渡されたマグカップを両手で包み込むと、
少しだけ落ち着いた。
「ありがと……」
そう呟いた自分の声に、
泣き顔を彼に見せてた時間の長さを思い知った。
静かに、ソファに腰を下ろす。
ふたりの間に流れる音は、時計の針と、ミルクの表面のゆらぎだけ。
「……」
「……」
言葉が出てこない。
いや、出てきたところで、
何を言えばいいのかわからなかった。
だって私はまた、
彼の優しさに甘えてしまったから。
何度目だろう、こんなふうに助けられて、
泣きながら寄りかかって、
「ありがとう」だけを置いてった夜。
またやっちゃった。
また、“大丈夫じゃない自分”を見せてしまった。
「……なんで毎回、こうなっちゃうんだろ」
ぽつりとこぼした言葉に、
彼は一度だけ私の方を見たけど、何も言わず俯いた。
私の中の何かが溶け始めて、
喉が詰まりそうになって、思わず続けた。
「ごめんね……なんかもう、自分で自分が嫌になってきた」
「……」
「毎回泣いて、毎回同じこと言って、
それでまた、あなたに励ましてもらって……。
ほんとは自分で立てるようになりたいのに」
彼は、ずっと黙ってた。
でもその沈黙が、
私を責めるものじゃないって、わかってた。
「……俺、嫌な顔してた?」
「……ううん」
「嫌やった?」
「嫌じゃない……けど」
「ほんなら、ええやん」
そう言って彼は、
ふっと笑って、ソファの背にもたれた。
「俺がしたいから、するねん。
お前が泣くたびに、放っとけへんのも、
ドライブ連れ出したんも、ミルク温めたんも。
ぜんぶ俺が、勝手にしてるだけ」
やさしい声。
でも、それはすごく芯のある声だった。
「だから、お前が“申し訳ない”って思う必要はない」
彼の言葉に、
胸の奥が暖かくなって、同時に冷たくなって。
思わず顔を背けてしまう。
また泣きそうになる自分が情けなくて、
でも、そんな自分を初めて、
少しだけ許せた気がした。
黙ってると、彼の手ががそっと近づいてきて、
私の頭をくしゃっと撫でてくれた。
「寝ろ」
「……うん」
そうして私は、
自分の部屋のベッドに寝転びながら、
背中越しに私を見守る彼のぬくもりを感じていた。
私が寝たら、彼はきっとまた、合鍵をポストに入れて帰るんだろう。
恋人じゃない。
でも、ひとりじゃない。
わかってる、自分の本当の気持ちなんて。
でも、この関係に名前をつけたらどうなるのか、
私はまだ、怖くて——言えない。
いつの間にか凍えるほど寒く感じるまで、
私はスマホを眺めていた。
来ない連絡を、何度も受信画面で確かめては、
何も変わらない数字に目を落とす。
指先も、胸の奥も、すっかり冷えきっていた。
「もう、ないのかな…」
そうつぶやいた時、
見慣れた緑のアイコンの右上に「1」の通知が浮かんだ。
「期待してないし、どうせ別の人だし…」
呟きながら息が上がって心臓が寒くなるのは、
誰に対してじゃなく、自分への嘘のせい。
——誰に張ってる虚勢なの。
自分で自分に、呆れる。
欲しかった人からの連絡はなく、
いつも何故か気にかけてくれるお世話好きな彼からの連絡。
こんな私をどうしてずっと気にかけてくれるの、
そんな気持ちを持ちながらいつも結局寄りかかってしまう彼。
内容はいつも通り私を心配するものだった。
泣いてるなんて言えるはずもなく、
大丈夫だよって明るく返す。
返事は来なかった。
いや、来なかったんじゃない。
——代わりに、来たのは。
「ピンポーン」
インターホンの音だった。
「……えっ」
玄関を開けると、キャップにTシャツ、
片手にコンビニの袋を提げた彼が立っていた。
「……何しに来たの?」
「何しに…って。
こっちは来るって決めてから、5分で用意してきたんやぞ」
言いながら、勝手知ったるように靴を脱いで部屋に入ってくる。
「おい、エアコンの温度、何度やねん。手、冷たすぎるって」
私の手を両手で包み込んでそう言う。
クローゼットを開け、勝手にパーカーを取り出した。
私は泣いてたことも忘れて、呆然とただそれを見ていた。
「はい、立って。腕上げて」
「ちょっと待ってってば、心の準備が…」
「いらん。そんなの後でええから」
そう言って、慣れた手つきで薄手の上着を私に羽織らせる。
肩をそっと撫でるように整えるその仕草が、もう当たり前みたいで。
「次、靴」
「え、自分で履けるってば」
「言うと思った。でもさっきも言ってたやん、“大丈夫”って。
お前のそういうの、もう信じてないから」
玄関のスニーカーの紐を緩めて、
片方ずつ、私の足をすっと差し入れる。
「……なんで、そんなに慣れてんの?」
「そら、何回もこうなるからやろ」
ボソッとそう言って、目の前に座ってる私に両手を差し出す。
「出よ。夜の空気、浴びに」
助手席のドアを開けてくれる彼に、
私は黙って従った。
何も言えないまま、
でも胸の中が、すこしだけ溶けていくのを感じながら。
車内には、小さく音楽が流れていた。
どこの誰の歌なのか、いつもなら意識もしないのに、
その夜に限って、やけに歌詞が沁みてくる。
優しいギターの音と、
静かすぎないボーカルの声が、
この空気の中で、ちょうどいい。
彼は何も言わずに運転席で前を見ていて、
時折、ウインカーの音が小さく響いた。
助手席の私の前には、
さっき彼が差し出した缶のミルクティー。
そのぬくもりが、指先から胸の奥へと、
静かに、でも確実に伝わってくる。
隣の存在感で、
彼が目線だけでこちらを確認して、
なにも言わずに視線を戻すのがわかった。
なんかもう——
全部が、優しすぎて。
この人の言葉じゃなくて、
何気ない動きひとつひとつが、
“お前が元気になるために来た”って言ってくれてるようで。
ミルクティーの缶を強く握った瞬間、
ぽろっと、音もなく涙が落ちた。
拭う間もなく、頬をつたったそれに気づかれないように、
私は窓のほうを向いた。
なのにふいに、
「泣いてたんやろ?」
って、あっさり言い当てられて、
余計に涙が止まらなくなった。
「……なんでそんなにわかんの」
「お前のこと、知ってるから」
笑ながら軽く言われたその返しが、あまりにも自然で、あたたかくて、
また涙がこぼれる。
なのにそのとき、場違いなことをふと思った。
——あれ、そういえば彼って運転できたんだ。
ずっと、誰かの隣でふざけて笑ってる印象しかなかったから、
こんなふうに、真っ直ぐ前を見て、
ハンドルを握ってる姿が、少しだけ意外で。
そんなことを考えてる自分に、
少しだけ、笑ってしまう。
「……なに笑ってんの」
「ううん、なんでもない」
涙と一緒に、緊張までほどけていくようで。
私の心は、ようやく、静かに呼吸を始めた。
支離滅裂な説明をしても彼はちゃんと聞いてくれて、
めちゃくちゃな顔で号泣して喋れなくなっても黙って待っていてくれた。
涙は落ち着いたはずなのに、
目の奥がじんわり熱くて、喉の奥がうまく動かなかった。
それでもようやく、
少しだけ正気が戻ってきた気がして、
私は小さくつぶやいた。
「……どこ、向かってるの…?」
声は思ったより掠れていて、
自分でも驚いた。
彼はすぐに答えなかった。
けれど、赤信号で止まった瞬間、
ふっと笑って、前を見たまま言った。
「んー、どこやろなあ。
お前の気持ちがちゃんと落ち着くとこ、やない?」
そう言って、ウインカーを軽く出す。
その何気ない言葉が、
やたら優しくて、胸が締め付けられた。
「……そんな場所、ないよ」
「なかったら一緒に探せばいいやろ」
その声は、
まるで“当たり前のことを言っただけ”みたいに、穏やかだった。
助手席の窓の外では、
街の灯りがゆっくりと流れていく。
きらきらしてるのに、眩しすぎなくて、
その景色が、じわりと心に沁みていった。
私はもう、行き先がどこでもいいと思った。
だって——この人が隣にいてくれるなら、
それだけで、十分だと思ったから。
彼は、私が全部話しきるまで、車を走らせ続けた。
信号の光がフロントガラスに反射して、
車内にゆっくりした時間が流れていた。
やがて車は、私のアパートの前で静かに停まる。
エンジンが止まって、音が消える。
それだけで、世界がぐっと静かになった気がした。
「……着いたで」
小さく言って、彼は先にドアを開ける。
私はそれに続くように外へ出た。
まだ夜の空気はぬるくて、
でも、さっきまで感じていた寒さよりずっとましだった。
エントランスを抜けてエレベーターに乗る。
彼は何も言わなかったけれど、
私の手から缶を受け取って、かわりに部屋の鍵を取ってくれた。
「おかえり」
玄関のドアが開いて、
いつもの景色が、少しだけ違って見えた。
着替えを終えてリビングに戻ると、
彼はキッチンの片隅で、ホットミルクを作り始めた。
レンジの音が鳴り、マグカップを手に取る。
その仕草がやけに丁寧で、
“私をあたためよう”としてくれてるのが、伝わってくる。
「ぬるくしたけど、一応気つけて」
手渡されたマグカップを両手で包み込むと、
少しだけ落ち着いた。
「ありがと……」
そう呟いた自分の声に、
泣き顔を彼に見せてた時間の長さを思い知った。
静かに、ソファに腰を下ろす。
ふたりの間に流れる音は、時計の針と、ミルクの表面のゆらぎだけ。
「……」
「……」
言葉が出てこない。
いや、出てきたところで、
何を言えばいいのかわからなかった。
だって私はまた、
彼の優しさに甘えてしまったから。
何度目だろう、こんなふうに助けられて、
泣きながら寄りかかって、
「ありがとう」だけを置いてった夜。
またやっちゃった。
また、“大丈夫じゃない自分”を見せてしまった。
「……なんで毎回、こうなっちゃうんだろ」
ぽつりとこぼした言葉に、
彼は一度だけ私の方を見たけど、何も言わず俯いた。
私の中の何かが溶け始めて、
喉が詰まりそうになって、思わず続けた。
「ごめんね……なんかもう、自分で自分が嫌になってきた」
「……」
「毎回泣いて、毎回同じこと言って、
それでまた、あなたに励ましてもらって……。
ほんとは自分で立てるようになりたいのに」
彼は、ずっと黙ってた。
でもその沈黙が、
私を責めるものじゃないって、わかってた。
「……俺、嫌な顔してた?」
「……ううん」
「嫌やった?」
「嫌じゃない……けど」
「ほんなら、ええやん」
そう言って彼は、
ふっと笑って、ソファの背にもたれた。
「俺がしたいから、するねん。
お前が泣くたびに、放っとけへんのも、
ドライブ連れ出したんも、ミルク温めたんも。
ぜんぶ俺が、勝手にしてるだけ」
やさしい声。
でも、それはすごく芯のある声だった。
「だから、お前が“申し訳ない”って思う必要はない」
彼の言葉に、
胸の奥が暖かくなって、同時に冷たくなって。
思わず顔を背けてしまう。
また泣きそうになる自分が情けなくて、
でも、そんな自分を初めて、
少しだけ許せた気がした。
黙ってると、彼の手ががそっと近づいてきて、
私の頭をくしゃっと撫でてくれた。
「寝ろ」
「……うん」
そうして私は、
自分の部屋のベッドに寝転びながら、
背中越しに私を見守る彼のぬくもりを感じていた。
私が寝たら、彼はきっとまた、合鍵をポストに入れて帰るんだろう。
恋人じゃない。
でも、ひとりじゃない。
わかってる、自分の本当の気持ちなんて。
でも、この関係に名前をつけたらどうなるのか、
私はまだ、怖くて——言えない。


