組長さんと年下彼女~今日から同棲始めます~
1.しつこく言い寄ってくる男
「ごめんなさい、細波さん。何度言われても、私、貴方とはお付き合いできません」
神田芽生がそう言って頭を下げるのに合わせて、腰まである彼女のさらさらストレートの黒髪が、スルリと肩をすべって顔を覆い隠した。それと同時、プルンと揺れた胸は、一五五センチあるかないかの芽生にはちょっぴり不釣り合いに大きくて、そのギャップからだろうか。胸目当ての男性からよく絡まれてしまう。
芽生の勤め先のファミリーレストラン『カムカム』の常連客、細波鳴矢からの交際申し込みは一度や二度ではない。何度断っても懲りないバイタリティを思えば、何もこのたわわなバストだけが目当てではないのかも知れない。
でも、だからと言って好きになれそうにない相手からのアプローチほど面倒なことはないのだ。何度断ってもしつこいぐらいに言い寄ってくる細波に、芽生は正直辟易していた。
「ねぇ芽生ちゃん、何で僕じゃダメなの?」
細波は大企業『さかえグループ』の社長室付きのスーパーエリートらしい。一番最初に交際を申し込んできた際、頼んでもいないのに『さかえグループ 社長補佐 細波鳴矢』と書かれた名刺を差し出されて、つらつらと自らの価値――社長の遠縁だのなんだの――について本人から説明された芽生は、残念なことにそのことを知っている。
「僕の職歴に不服はないはずだけど?」
言外に、『ファミレスで働いているキミにはもったいないくらいの申し出だと思うよ?』という言葉が見え隠れするようで、芽生はゾクリと肩を震わせた。
見た目だけなら彼は本人が自信を持つのも納得がいくイケメンだが、性格と趣味嗜好に難あり。それが細波鳴矢と言う男だった。
暦は冬へ向かってまっしぐらな十一月の半ば。上着を羽織っていても日陰に入ると風が冷たくてぶるっと震えてしまう。
(でも今のは違うゾクゾクだ)
香水のにおいをぷんぷんまき散らす細波に傍へ寄られると、それだけで嫌な気分になる。移り香なんかが残ってしまったらと思うと無意識に距離をあけたくなった。
(香水なんて、薫るか薫らないかを身に纏うくらいでちょうどいいのに)
ふとそこで、〝ある人〟を頭に思い描いた芽生は、寒いはずなのにほわりと頬が熱を持ったのを感じた。
ハッキリ言って、細波みたいなタイプは苦手だ。それじゃなくても芽生は、〝孤児院育ち〟という生い立ちから、散々周りに哀れまれてきた。馬鹿にする人間だって少なくなかった。
細波のように地位や名誉や血統を笠に着るタイプの人間は、表面上はそう見せなくても大抵後者だ。
「何度も言ってますけど……別に細波さんがイヤなわけじゃないんです。私、小さい頃からずっと、思い続けている男性がいて……その人以外とはお付き合いしたくないだけなんです」
「うん、そのことは何度も聞かされてるし、知ってる。――で、その男と付き合える見込みは?」
「それは……」
芽生が口ごもったと同時、「だったら」という声とともに細波が一歩踏み出して来て……芽生は慌てて後ずさる。
(においが移っちゃうっ)
強く薫る嫌いなにおいに気圧されて逃げようとしたら、踵がコツッと縁石に当たる感触がして、これ以上下がれないとソワソワした。そんな芽生の背後に、まるでタイミングを見計らったように黒塗りの高級車が音もたてずに滑り込んできた。
停車した車の後部シートのサイドウインドウが静かに開いて、普段はプライバシーガラス仕様で見えない車内があらわになる。
「おう、子ヤギ、こんなトコで何してる? お前、仕事の時間が迫ってんじゃねぇのかよ」
中から声を掛けてきたのは、芽生が小学生の頃から見知った男――相良京介だった。
芽生は、目の前にいる細波の存在も忘れたみたいにくるりと向きを変えると、縁石の上にピョンッと飛び乗った。そうして車の窓枠に手を突いて、スーツ姿のいかにも堅気とは程遠い雰囲気の京介に「京ちゃん!」と嬉し気に微笑みかける。
車内からは温かな空気とともに、大好きな人の煙草の香りと、上品な香水の芳香が漂ってきた。
「バカ、お前、不用意に触んなよ。手垢がつくだろ」
「車のことなんて気にしないくせに」
ふふっと笑った芽生に、京介は小さく吐息を落とすと、「ついでだし、乗ってくか?」と問い掛けてくる。そうしながら、ジロリと芽生の背後に佇んだままの男――細波を睨みつけた。
細波は京介の牽制にチッと舌打ちをすると、「じゃあ芽生ちゃん、また会いに行くね」と捨て台詞を吐いて立ち去る。
「京ちゃんってば……乗っていくほどの距離じゃないの分かってるくせに」
芽生の職場はここから徒歩三分足らず。そこの常連客である細波もそれを知っていたから、あからさまに自分から芽生を遠ざけようとした京介を忌々し気に睨んだのだろう。
「だったら放置してそのまま通り過ぎた方が良かったか?」
「まさか!」
芽生はニコッと微笑むと、「乗せて?」と京介にせがんだ。
相良京介は芽生が赤ちゃんの時から十八歳まで世話になった児童養護施設『陽だまり』によく来てくれていた〝チューリップのおじさん〟だ。
京介の来訪は芽生が赤ちゃんの頃からというわけではなく、芽生の記憶が正しければ彼女が十歳になった辺りからの付き合いになる。
京介、実際には彼の友達で施設運営に大きく貢献してくれていた男――長谷川建設社長・長谷川将継の〝付添人〟として来訪していただけらしいのだが、芽生には長谷川社長より相良京介の方が魅力的に見えたのだ。
今思えばあの頃京介はまだ二十代の半ばで、〝お兄さん〟と呼ぶべきだっただろう。けれど小さい子たちがこぞって長谷川社長を「はせがわのおじさん」と称していたから、つい芽生も京介のことも「おじさん」と言ってしまっていた。
「そう言えば京ちゃん、なんでいつも私にチューリップの花をくれてたの?」
旬は春頃のはずのチューリップの花を、何故か京介は年がら年中訪問するたびに芽生にくれたのだ。
一見怖そうに見える京介が、いつも皆から離れて自分に寄ってくる芽生にだけ『特別だぞ?』とウインクをしながらこっそりくれる一輪のチューリップの花が、実は結構楽しみだった。
「あー? 別に深い意味はねぇよ。お前があんまり物欲しそうな顔してたからやっただけだ」
京介はいつもこんな風に素っ気ない態度を取るけれど芽生は彼がその言動とは裏腹、とても優しいことを知っている。
他の子達は長谷川社長にばかり懐いていたけれど、芽生は……芽生だけは、園庭の隅っこでこっそり煙草をふかしている彼のことが大好きだった。今思えばあれは初恋だったんだと思う。
徒歩三分の道のりは、車だと一分にも満たなくて――。赤信号で停まった車内、運転席で後部シートの様子などまるで見えていないように振る舞ってくれる若い男性に感謝しながら、芽生はこのままずっと青信号にならなければいいのに、と希わずにはいられない。
シートの座り心地の良さと、ほんのり薫る煙草のスモーキーさと相性抜群の、スパイシーでウッディな香りに包まれながら、芽生は京介の横顔をうっとりと見つめた。
神田芽生がそう言って頭を下げるのに合わせて、腰まである彼女のさらさらストレートの黒髪が、スルリと肩をすべって顔を覆い隠した。それと同時、プルンと揺れた胸は、一五五センチあるかないかの芽生にはちょっぴり不釣り合いに大きくて、そのギャップからだろうか。胸目当ての男性からよく絡まれてしまう。
芽生の勤め先のファミリーレストラン『カムカム』の常連客、細波鳴矢からの交際申し込みは一度や二度ではない。何度断っても懲りないバイタリティを思えば、何もこのたわわなバストだけが目当てではないのかも知れない。
でも、だからと言って好きになれそうにない相手からのアプローチほど面倒なことはないのだ。何度断ってもしつこいぐらいに言い寄ってくる細波に、芽生は正直辟易していた。
「ねぇ芽生ちゃん、何で僕じゃダメなの?」
細波は大企業『さかえグループ』の社長室付きのスーパーエリートらしい。一番最初に交際を申し込んできた際、頼んでもいないのに『さかえグループ 社長補佐 細波鳴矢』と書かれた名刺を差し出されて、つらつらと自らの価値――社長の遠縁だのなんだの――について本人から説明された芽生は、残念なことにそのことを知っている。
「僕の職歴に不服はないはずだけど?」
言外に、『ファミレスで働いているキミにはもったいないくらいの申し出だと思うよ?』という言葉が見え隠れするようで、芽生はゾクリと肩を震わせた。
見た目だけなら彼は本人が自信を持つのも納得がいくイケメンだが、性格と趣味嗜好に難あり。それが細波鳴矢と言う男だった。
暦は冬へ向かってまっしぐらな十一月の半ば。上着を羽織っていても日陰に入ると風が冷たくてぶるっと震えてしまう。
(でも今のは違うゾクゾクだ)
香水のにおいをぷんぷんまき散らす細波に傍へ寄られると、それだけで嫌な気分になる。移り香なんかが残ってしまったらと思うと無意識に距離をあけたくなった。
(香水なんて、薫るか薫らないかを身に纏うくらいでちょうどいいのに)
ふとそこで、〝ある人〟を頭に思い描いた芽生は、寒いはずなのにほわりと頬が熱を持ったのを感じた。
ハッキリ言って、細波みたいなタイプは苦手だ。それじゃなくても芽生は、〝孤児院育ち〟という生い立ちから、散々周りに哀れまれてきた。馬鹿にする人間だって少なくなかった。
細波のように地位や名誉や血統を笠に着るタイプの人間は、表面上はそう見せなくても大抵後者だ。
「何度も言ってますけど……別に細波さんがイヤなわけじゃないんです。私、小さい頃からずっと、思い続けている男性がいて……その人以外とはお付き合いしたくないだけなんです」
「うん、そのことは何度も聞かされてるし、知ってる。――で、その男と付き合える見込みは?」
「それは……」
芽生が口ごもったと同時、「だったら」という声とともに細波が一歩踏み出して来て……芽生は慌てて後ずさる。
(においが移っちゃうっ)
強く薫る嫌いなにおいに気圧されて逃げようとしたら、踵がコツッと縁石に当たる感触がして、これ以上下がれないとソワソワした。そんな芽生の背後に、まるでタイミングを見計らったように黒塗りの高級車が音もたてずに滑り込んできた。
停車した車の後部シートのサイドウインドウが静かに開いて、普段はプライバシーガラス仕様で見えない車内があらわになる。
「おう、子ヤギ、こんなトコで何してる? お前、仕事の時間が迫ってんじゃねぇのかよ」
中から声を掛けてきたのは、芽生が小学生の頃から見知った男――相良京介だった。
芽生は、目の前にいる細波の存在も忘れたみたいにくるりと向きを変えると、縁石の上にピョンッと飛び乗った。そうして車の窓枠に手を突いて、スーツ姿のいかにも堅気とは程遠い雰囲気の京介に「京ちゃん!」と嬉し気に微笑みかける。
車内からは温かな空気とともに、大好きな人の煙草の香りと、上品な香水の芳香が漂ってきた。
「バカ、お前、不用意に触んなよ。手垢がつくだろ」
「車のことなんて気にしないくせに」
ふふっと笑った芽生に、京介は小さく吐息を落とすと、「ついでだし、乗ってくか?」と問い掛けてくる。そうしながら、ジロリと芽生の背後に佇んだままの男――細波を睨みつけた。
細波は京介の牽制にチッと舌打ちをすると、「じゃあ芽生ちゃん、また会いに行くね」と捨て台詞を吐いて立ち去る。
「京ちゃんってば……乗っていくほどの距離じゃないの分かってるくせに」
芽生の職場はここから徒歩三分足らず。そこの常連客である細波もそれを知っていたから、あからさまに自分から芽生を遠ざけようとした京介を忌々し気に睨んだのだろう。
「だったら放置してそのまま通り過ぎた方が良かったか?」
「まさか!」
芽生はニコッと微笑むと、「乗せて?」と京介にせがんだ。
相良京介は芽生が赤ちゃんの時から十八歳まで世話になった児童養護施設『陽だまり』によく来てくれていた〝チューリップのおじさん〟だ。
京介の来訪は芽生が赤ちゃんの頃からというわけではなく、芽生の記憶が正しければ彼女が十歳になった辺りからの付き合いになる。
京介、実際には彼の友達で施設運営に大きく貢献してくれていた男――長谷川建設社長・長谷川将継の〝付添人〟として来訪していただけらしいのだが、芽生には長谷川社長より相良京介の方が魅力的に見えたのだ。
今思えばあの頃京介はまだ二十代の半ばで、〝お兄さん〟と呼ぶべきだっただろう。けれど小さい子たちがこぞって長谷川社長を「はせがわのおじさん」と称していたから、つい芽生も京介のことも「おじさん」と言ってしまっていた。
「そう言えば京ちゃん、なんでいつも私にチューリップの花をくれてたの?」
旬は春頃のはずのチューリップの花を、何故か京介は年がら年中訪問するたびに芽生にくれたのだ。
一見怖そうに見える京介が、いつも皆から離れて自分に寄ってくる芽生にだけ『特別だぞ?』とウインクをしながらこっそりくれる一輪のチューリップの花が、実は結構楽しみだった。
「あー? 別に深い意味はねぇよ。お前があんまり物欲しそうな顔してたからやっただけだ」
京介はいつもこんな風に素っ気ない態度を取るけれど芽生は彼がその言動とは裏腹、とても優しいことを知っている。
他の子達は長谷川社長にばかり懐いていたけれど、芽生は……芽生だけは、園庭の隅っこでこっそり煙草をふかしている彼のことが大好きだった。今思えばあれは初恋だったんだと思う。
徒歩三分の道のりは、車だと一分にも満たなくて――。赤信号で停まった車内、運転席で後部シートの様子などまるで見えていないように振る舞ってくれる若い男性に感謝しながら、芽生はこのままずっと青信号にならなければいいのに、と希わずにはいられない。
シートの座り心地の良さと、ほんのり薫る煙草のスモーキーさと相性抜群の、スパイシーでウッディな香りに包まれながら、芽生は京介の横顔をうっとりと見つめた。
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